てっぺんの星に
アパートの前にあるバカでっかい木を、僕は長いことモミだと思っていた。本物のモミノキを見たことはなかったし――正確に言えば見たことがなかったんじゃなくて、関心がなくて知らなかっただけだ――三角錐の樹形が絵本と同じ形に見えていたから。
六花が僕の部屋を訪れるようになって、それがヒマラヤスギだと知った。大体、僕は物知らずだ。彼女の名前すら、北海道の有名な菓子を思い出して怒られた。
「ろっかじゃなくて、りっか。雪の結晶って意味よ」
雪の結晶じゃすぐに融けちゃうじゃないか。そう言って、もう一度怒られる。綺麗な名前だねなんて、気の利いたことは言えない。それでも六花は春から今までたびたび僕のアパートを訪れ、時々寄り添って眠った。奨学金と僅かな仕送りと、アルバイトの所得。自宅通いの同窓生たちを羨みながら、僕たちの恋人生活は慎ましい。同じくアパート暮らしの六花と一緒に住むことも考えたけれど、まだお互いの人生を支えられるほど、僕たちは大人じゃない。僕の六畳のアパートと、六花の小さなワンルームを行ったり来たり。
そろそろ、将来のことも考えなくちゃならない。今年から始まっている就職活動は、まだ目処が立たない。勝ち組とか負け組とか人生がここで決まるのだとか言われても、ぜんぜんピンと来ないのは、僕が甘ちゃんな証拠なのかも知れない。やりたい仕事よりもやれる仕事、まず受け入れてくれる会社を探せ、なんてね。本当にそれが一生を左右しちゃうんだろうか。
六花の目標は、もう定まっているらしい。時々黒っぽいスーツで出かけて行き、手応えがどうのと言っている。暢気な僕を歯痒く感じているだろうとは思う。だけど、僕の重い腰は上がらない。授業料を払っているのに、学校を休ませて呼びつける企業に疑問を感じながら、それを声高らかに主張するだけの気概もない。
「渉は、仙人にでもなるといいよ。雲と霞で生活する」
六花が言うところによれば、僕は現実には向いていないらしい。地に足が着いていない感じー、なんて言う。ああ、今に置いて行かれるのかも知れない、と思う。きっと六花は、僕よりも先に大人になる。
窓からまっすぐに見えるヒマラヤスギは、冬の間でも青い葉をつけている。つい先だっての剪定のときに、六花はたくさん枝を拾ってリースを作り、自分の部屋じゃなくて僕の部屋のドアに飾った。真っ赤なリボンで纏められたそれは、僕のアパートのドアに気恥ずかしい。どこからか拾ってきた松ぼっくりで作ったキャンドルスタンドはいびつで、それが彼女なりの準備だと言った。
「この部屋にモミノキを置いたら、座る場所がなくなるものね」
「六花の部屋のほうが、多少広い」
僕の部屋はコタツが占領しているから、ちゃんと片付いていてエアコンで空調している六花の部屋のほうが余裕がある。
「ここがいいのよ。当日に教えてあげる」
年末の街はきらびやかで、少々気後れする。僕だけが華やかになれないような、僕だけがその日にふさわしくないような気がする。電飾に彩られた木々や金銀のモールが眩しくて、赤い服のじいさんに見捨てられた気分だ。
良い子にお祝いいたしましょう。
現実に追いついていけない僕は、きっと良い子じゃないからお祝いしてもらえない。しっかり将来を見据えて、それに向かって努力しなさい。立ち止まったままの人は、周りから置き去りにされるよ。
隣を歩く六花が、ショウウインドウを立ち止まって覗き込む。赤や緑の箱には、金色のリボンがかかっている。古い古い映画の中で、あんな箱を飾り立てたモミノキの下に積んでいた記憶がある。あの話のラストでは、子供が死ぬんだ。三匹の狼に見守られて。僕の連想にはとりとめがなく、そのうち六花が何を見ていたのか忘れてしまう。ショウウインドウを離れる頃に僕の頭の中に巡っているものは、その映画の元となった核実験の描写だった。
祈りは誰かを救うだろうか?この華やかな祝いは、祈りの日でもある筈だ。教会では、厳かなミサが行われる。その祈りの中には、たとえばストーリーの中に出てきたような犠牲者を、救うためのものも含まれているんだろうか。だとしたら、僕も少しだけ祈ってもいいように思う。きっと、届くことなんてないだろうけど。
「七面鳥じゃなくてローストチキンだったな、私の家」
そう言われてはじめて、六花がテーブルの上のことを考えているのだと気がつく。
「ケーキだけあれば、いいんじゃない?」
「少しは贅沢なお料理するわよ、お祝いなんだから」
僕にはその日を祝う意味なんて、まるでない。クリスチャンでない僕には、教会の賛美歌もただの音楽だ。幾億もの祈りが捧げられることは知っていても、誰が何を祈るかに興味なんてないのだ。それでも六花はその日のために、帰省を遅らせている。
「だって、ロマンチックじゃない?」
何がロマンチックなんだか理解は難しいけれど、六花が僕と特別な時間を過ごそうとしていることは、素直に嬉しい。何度も一緒に眠った僕らでも、普段と違う気分で時間を共にすることができるだろう。僕の狭くて片付かないアパートでも。
「朝からシチュー煮るわ。パンとサラダとワインでどう?」
三日後のメニューを、六花は嬉しそうに告げた。
ひとりでアクセサリー店に入るのは、とても緊張した。マフラーや手袋みたいに六花を守るものを考えていたんだけれど、それはあまりにも日常過ぎて、一生懸命特別な日に仕立て上げようとしてくれている六花に、申し訳ないような気がする。楽しげにケースを覗き込むカップルの女の子が、彼氏に指差してみせたものは、僕の予算と一桁違っていた。再来年の今頃は、僕も六花にあんなプレゼントをするのだろうか?とても不思議な気がする。ネクタイを締めた僕と踵のある靴を履いた六花は、一人前の顔で街を歩いているだろうか。
シーズン柄、雪の結晶のアクセサリーはたくさんの種類が売っている。しどろもどろになりながら、店の人に薦められた小さなブローチを買った。
「リボンは何色が?」
「えっと、お任せします」
店員さんはちょっと笑ってから、透けた素材のリボンを複雑な形に結んでくれた。
「まだ寝てたの?」
昼過ぎに訪れた六花は、大きな紙袋をふたつも持っていた。
「こっちは重い思いをしてきたのに。電話しても起きないんだもの」
「ああ、ごめん」
寝起きの僕はぼーっとコタツの天板に顎を乗せる。
「昨夜はサークルで飲んでたんでしょう?遅かったの?」
「いや、多分日付が変わる前に帰ってたと思う」
狭いキッチンでバタバタと動いていた六花が、両手にマグを持ってコタツの前に立つ。
「天気予報も見てないんでしょう。午後から、雪だよ」
今年の初雪は、ずいぶんタイムリーだ。
モノクロの映画をDVDで見る。すべて、何十年も前の今日の映画だ。
「なんで渉は古い映画が好きなのかなあ」
「僕を攻撃しないから」
新しくてスピーディな映像は、急げ急げと畳み掛けられるような気がする。
「渉のペースって、そうだもんね」
横で文句も言わずに同じ映画を見ている六花は、飽きている。ちらちらと携帯電話を弄ったりしている。それでも帰らずに、横にいてくれるのだ。
「ね、雪の気配がする。もうじき降り出しそう」
結露した窓から水滴が垂れ、その外に鈍色の空が見えた。
夕方静かに降り出した雪は、大げさな予報とは裏腹に、小一時間で止んでしまった。一面の雪景色とはいかずに、ヒマラヤスギの枝に白い色を残すだけだ。
「夜中まで、あの雪が解けないといいなあ」
「なんで?」
「あとであとで。星が出てきたね」
六花の持ってきたシチューを温め、僕らは慎ましいお祝いをする。何世紀も前の誰かさんの誕生祝いだ。
安いワインで乾杯して、コタツの上には六花の手製のキャンドルスタンド。
小さな贈り物を六花は喜び、六花から僕に渡されたのは名刺入れだった。
「今年はね、名刺をもらうことも増えるから」
やはりそれは避けて通れない道で、逃げることはできないのだと突きつけられる。
「渉が渉でいられるところ、きっとあるよ。だから、一緒に頑張ろ?これを使うときには、私も一緒にいる」
モラトリアムな日々を引き伸ばしても、なんの足しにもならないことを、僕も知っている。年度が替われば一斉にダッシュする同級生たちだって、本当は走りたくはないのかも知れない。目標を定めて助走している六花は、僕が遅れを取ることを心配しているんだと思う。
ふたりで一本のワインが、多いのか少ないのか。夜半近くになり、頬を上気させた六花は、僕を外に誘った。
「やだよ、寒いじゃないか」
「でも、どうしても今なの。お願い」
六花から「お願い」なんて言葉は、滅多に出ない。いつも僕の前を走る人だから。
コートに腕を通し、ふたりで靴を履く。冷たい空気が、部屋で火照っていた頬から急激に温度を奪った。隣の六花は、コートの襟を深く打ち合わせなおした。
「ほら、見て」
指差した先は、ヒマラヤスギの先っぽ。
「何?」
「この時間に、てっぺんに星が来るの。この前、帰るときに気がついたのよ」
六花の立つ角度に、並んで立ってみる。確かに、てっぺんに星だ。そして、ヒマラヤスギの枝に残る雪。
「渉の部屋に、モミノキはいらなかったでしょう?ここに、こんなに立派な代替品があるんだから」
何の代替品かは、僕にもわかる。
「渉は私のこと、気が強い落ち着きのないヤツだと思ってるかも知れないけど、私は渉のペースが好きなんだよ」
六花が静かな声で言う。
「不思議でしょ?動かなくちゃいけない性分の私が、渉の部屋ではのんびりするの。だからね、来年もこんな風に、星を見られるといいなあと思って」
「うん」
六花の白い息が弾む。来年の今頃、このわけのわからない焦りから、開放されているのだろうか。開放されるためには、一緒に走り出さなくちゃならない。少し、もう少し。必ず走り出すから。
てっぺんの星は、ベツレヘムの星じゃない。だけど今、僕たちの中に生まれた小さな約束が、これから育っていくことを願って。
「来年も、一緒にこうしてお祝いしよう」
何世紀も前に生まれた誰かさんの、誕生日を。
fin.