桃源郷に住まう幽霊4
突如として桃源郷の空に現れた幽霊に、地上の冒険者たちは身構えた。
青白く光り輝く半透明の身体、輪郭がぼやけていて、はっきり目視できるわけではないが、その風貌は旅人らしき成人男性の姿を模していた。おそらくスピリット系の魔物、その表情はこの世に残す未練と執念によって醜く歪んでいる。
幽霊は旅籠屋の二階に立つ天音たちを静かに見降ろしていた。
天音の視線と、幽霊の視線が交差したその瞬間。
「……来る!」
激しい突風が二人を襲った。外からの強風が、天音たちのいる部屋の中へ一気に注ぎ込まれる。
「きゃっ!」
雪乃が小さく悲鳴を上げた。
幽霊は正面に立つ天音の身体をすり抜けるようにして、まるでそよ風の中に立っているかように、ふわりとした軽い動作で部屋の中央に降り立った。風を起こした張本人に対して、周囲の部屋の様子は竜巻にでも遭遇したように物が飛び、障子が破れ、幽霊を中心に激しい風が渦を巻く。
天音は刀を手に構える。雪乃は狭い部屋の中で長剣を振りまわすことができないので、鞘に入れた状態で身構えた。
実体を持たないスピリット系の魔物には、有効な攻撃手段があまりない。
対する魔物の方も、プレイヤーの肉体へと直接傷つけるような攻撃方法はほとんど持っていなかった。
攻撃に少し迷いを見せた天音たちに対し、先に幽霊の方が攻撃を開始する。
<亡者の叫び>の発動。
声にならない悲鳴が、夜の町に響き渡った。
思わず天音たちは耳を塞ぐ。すぐに生命力を切り取られるわけではないが、長く聞いていれば、徐々に衰弱していくように生命力と精神力が奪われる技。
対抗するように、天音は叫んだ。
「雪乃ちゃん、援護をお願い!」
そう言って、天音は<歌>のスキルを発動する。
幽霊の悲鳴をかき消すように、天音の<鎮魂歌>が辺りに響き渡る。亡者とはまるで対照的な、透き通るような美しい歌声。
魔物に支配されていた場の空気が一変した。アンデット系、そしてスピリット系に対して特に有効な<鎮魂歌>は魔物を弱らせ、特殊スキルである<亡者の叫び>を打ち消す。
まだまだ未熟な魔法剣士である雪乃は、森のレアモンスターの赤熊一匹に苦戦を強いられている。二人とはいえ、クエストのイベントモンスターを相手にするのは厳しいかとも思ったが、天音は幽霊に対して特効とも言えるスキルを持っているので大丈夫だろうと考えていた。
事実、その効果は絶大だが、<歌>のスキルである<鎮魂歌>は、魔物を倒す決定打とはなり得ない。魔物を倒すには、雪乃の<魔法攻撃>が必要となる。
しかし、雪乃は魔法の発動に戸惑っているようだった。
(ここでは、放てない……かなぁ?)
歌を歌いながら、雪乃の様子を見て天音は思った。
天音が歌で幽霊を抑えこんで、雪乃が止めを刺す。それが事前に二人が打ち合わせていた大まかな内容。
想定外だったのは、町の中で、それも建物内で戦闘が始まってしまったこと。
雪乃の持つ規模の大きい範囲攻撃の魔法を放てば、部屋にいる彼女たちまで、下手をすれば建物が大破する可能性がある。
(私たちはともかく、部屋の修理代が~!!)
破損した町などのオブジェクトは、クエストの終了後すぐに修理される。ただし、それ相応の費用は、壊したプレイヤー持ちとなる。そんな理由もあって、雪乃は魔法を放つことを躊躇していた。
そして、<鎮魂歌>に苦しむ幽霊は、捨て身とも言える特攻で天音の脇をすり抜けて、闇の広がる外の空へと逃げた。風圧に押されて、天音は歌を止めた。
「追撃します!」
雪乃が窓から身を乗り出して、魔法を行使する。
しかし、雪乃の魔法が発動する一瞬前に、幽霊の姿は薄く揺らぐ。
その時、天音たちは幽霊の叫びを聞いたような気がした。
――返せ……私の………を……
その姿が搔き消えた瞬間、雪乃の放った数本の氷の矢が幽霊の姿を僅かに掠めて、月下の夜空の中に青白い光を残して砕け散った。
幽霊が消えてから、二階の騒動に気付いた旅籠屋の旦那たちが慌てた様子で天音たちの元へとやってきた。
滅茶苦茶になっている部屋の様子を見て、きっと怒鳴られるんだろうなぁと身構えた彼女たちへかけられた言葉は、意外にも謝罪の言葉だった。
「お前さんたち……本当に、すまなかったな」
「え……?」
天音と雪乃は、正座しながら二人で目を見合わせた。
「実は、あの幽霊退治のクエストを依頼したのは、うちの者なんだ」
旦那の後ろで、申し訳なさそうな顔の若女将が頭を下げた。
「ええっ?!」
驚いて声を漏らしたのは雪乃。あれだけ行った情報収集で幽霊の話が全く出なかったのは、旅籠屋の人達が隠していたからだった。
天音の方は、澄ました表情で旦那に聞いた。
「どうして幽霊のことを隠していたんですか?」
「そんなこと、言えるわけがねぇ。幽霊が出るなんて噂が付いちまえば、客が全く来なくなっちまう」
旅籠屋を経営する彼らにとって、それはとても致命的なこと。そのことに、雪乃は少しだけ憤慨しているようだった。
「それで依頼者のことは秘匿して、クエストの依頼を行ったのですね」
「ああ。稀に泊まる旅人たちも、もし幽霊を目撃したとしても、お金を握らせれば何も言わずに桃源郷を去っちまうさ」
ここで言う旅人というのは、おそらくプレイヤーの冒険者ではなくNPCの旅人たちのことだろう。そういったこともあり、町での情報収集では幽霊の情報が一切出なかった。
「それでも一向に依頼を片付けてくれる冒険者は現れない。そんな時に、この依頼を受けてくれたのが――」
「私たちだった、というわけですね」
旦那は天音の言葉に、そうだと大きく頷いた。
「今更になってしまってすまないが……頼む、幽霊を退治してやってくれ!」
旦那たちは揃って頭を下げた。
それは最初からクエストを受注しているので、幽霊を退治するのは当然のことである。それは述べずに、天音はもう少し気になることを先に尋ねた。
「幽霊は、どうしてこの旅籠屋に現れるのですか?」
「そ、それは……」
言葉に詰まる旦那。
それは、後ろめたいことがあって黙るのではなく、本当に理由が分からないといった様子だった。
「おそらく、あの幽霊の正体は以前ここに泊まった旅人だ。あの風貌に覚えがある。そう……彼が泊まったのも、ちょうどこの部屋だった。後に、この近くの森で魔物に襲われて、命を亡くしたという噂だったが……」
特に恨みを買うようなことはやっていないとのこと。
「幽霊は……その旅人の亡霊は、何かを探してこの部屋に訪れていたようです。心当たりはありませんか?」
幽霊が去り際に残した言葉。
そう天音が話すと、それには旦那に代わって後ろの若女将が答えた。
「たぶん、アレのことじゃないでしょうか……?」
「おい! アレとは何だ?!」
知らなかったのだろうか、旦那が驚いた様子で若女将に詰め寄る。
「こ、この部屋に、あの旅人さんの忘れ物があったんです。大事なものだと思って、いつか取りに来るんじゃないかと思って、大切に保管していたのですが……」
旅人が死んだという噂を聞いて、捨てるに捨てれず、ずっと若女将が保管していたのだという。
「これが、その手紙です」
そう言って、若女将は自分の和服の袖からその手紙を取り出した。
なんともまぁ都合良く手元に持っていたものだ、そんなツッコミはおくびにも出さずに、天音は素直にそれを受け取った。
「分かりました。お預かりします」
イベント用キーアイテム『旅人の手紙』を手に入れた。
「旅人を慰める石碑が、峠の途中にあるということだ。頼む、旅人さんを成仏させてやってくれ」
簡単に準備を終えた天音たちは、その足で急ぎ峠の石碑へと向かった。
月夜の街道を、二人は急ぎ足で歩く。
途中、雪乃がポツリと呟いた。
「天音さん、ごめんなさい……」
「……何が?」
全く身に覚えのない天音は首を傾げる。
「部屋での戦闘のことです。あの時、私が上手く立ちまわって、幽霊に止めを刺せていれば……」
「あはは。それには、雪乃ちゃんの非は無いよ」
慰めではなく、本当にそう思った。
「あのまま部屋で魔法を放てば、幽霊は倒せたかもしれないけど、私たちは大赤字だったよ」
「でも、外に出たタイミングですぐに狙い打てば、幽霊は倒せたかもしれない」
そう言って、雪乃は自分の言葉にまた落ち込んだ。
そんな彼女に天音は優しく声をかける。
「うん、そうかもしれないね。でも……」
確かにあのタイミングで幽霊に止めを刺すことはできた。そうすれば、このクエストはもう終わっていたかもしれない。
「でも、きっとこれが正規のルートだったと思う。待ち構えてたように、旦那さんと若女将さんがやってきたからね」
あれはないよねーと話す彼女に、雪乃は少しだけ頬を緩めた。
「それに……幽霊は、退治するんじゃなくて、ちゃんと成仏させてあげたいよね」
そう言って、天音はクスリと笑った。
宿場町から街道を真っ直ぐに進めば、峠にはあっという間に辿り着く。辺りは相変わらずの夜の闇の中で、ザワザワと揺らめく木々の囁きが、夕暮れとはまるで違い敵意を持って彼女たちを出迎える。夜空に輝く月の光が、ただ一つ、彼女たちの道を照らす。それは神の導きか、地獄へと誘う悪魔の灯か。
その石碑は、峠の中腹あたりにポツンと存在した。
普通に通り過ぎれば気付かないような、とても小さな石碑。名前も何も刻まれていない。旅人の死骸を見つけた旅の僧が、気持ちだけでもと供養を行ったという。
「うそ……」
それを見つけて、雪乃は茫然として口を開けた。
「こんなの、ここには絶対になかった……」
「たぶん、このイベントの時にだけ現れる石碑なのかな」
月の光に照らされて、まるで何か魔力が宿っているかのように、淡い光に包まれた石碑。
彼女たちの目の前で、その光は収束するようにぼんやりと浮かび上がり人の姿を形成する。
旅人の姿を取ったその魔物は、また彼女たちを威嚇するように闇夜へ叫ぶ。
風と闇が石碑を中心として大きく渦巻いた。
その幽霊の嘆きに呼応したように、森がざわめき、紅葉した落ち葉が舞い上がり、そして、森の魔物たちが吠えた。
一際大きな、冒険者を威嚇するような激しい雄叫びが聞こえた。
幽霊と対峙する天音たちの反対側の森の中。身を竦ませるようなその叫びに、慌てて彼女たちは後ろを振り返った。
「何か来るっ!!」
その瞬間、森から大きな影が飛び出した。
彼女たちの方へと突進してきたそれを、雪乃は天音を庇うようにして、間に立ち塞がり長剣でその巨体を受け止めた。
「何、これェ?!」
天音が悲鳴のような声をもらす。
それに答えたのは、必死でその巨体を抑える雪乃。
「森に出るという狂暴な獣の方です!」
「そんなの、イベントモンスターでしょ?! なんでこのクエストで出るの~!?」
珍しく慌てている様子の天音。
しかし、その口から漏れたのは、雪乃にとって実に意外な言葉だった。
「うわ~ん! やっぱりアレもフラグだったんだーっ!?」
頭を抱えて天音は叫ぶ。
「アレって……」
「駄菓子屋のおばちゃんが、変なフラグ立ててたもん!」
天音にそう言われて、雪乃はふと思い出す。あのおばちゃんは、『お前さんたち、幽霊と一緒にその獣どもも退治してくれないかい?』というようなことを言っていたような――
「えええ~~っ!? あ、アレ、フラグだったんですか?!」
「嫌な予感がしたんだよー!」
通常、一つクエストを受注している時に、他のクエストの話を聞くことはあまりない。しかし、町ではどこでも狂暴な獣の噂があったので、まさかフラグではないと思っていたが……。
天音にとって、嫌な方向に予感が的中していた。
その獣は、雪乃の剣に弾かれたように、一端大きく間合いを取った。飛び跳ねるように後ろへと下がり、幽霊の叫びに呼応するようにまた大きく咆哮する。
「ていうか、コレ、狼じゃなくって狐だよね!?」
相対する巨大な獣は、狼でも熊でもなく、大きな狐だった。
「そ、そうなんですか?」
「あの見事なキツネ色の毛並み! 思わずモフモフしたくなるような立派な尻尾! そして、あの凛々しい顔つきが――」
「柴犬みたいな狼だと思ってました」
「違う~! っていうか、雪乃ちゃん前に退治してるんでしょ?! 強いの?」
「熊より強かったです!」
「いーやーー~っ!!」
天音はどこかわざとらしく悲鳴を上げた。
そんな彼女たちを嘲笑うように、狐は尻尾を逆立て、唸り声をあげて力を溜めている。狐の周囲には、幽霊が纏うのと同じ青白い光が収束を始め、やがてそれは炎となって狐の周囲に漂い出す。それは狐火と呼ばれる特殊技だった。
幽霊のようなスピリット系の魔物は、自身ではあまり攻撃技を持っていない代わりに、他の魔物に取りついたり、呼び寄せたりすることがあった。
他のクエストで普通に討伐依頼として出されている、狂暴な狐の討伐クエスト。天音と雪乃で、この狐一匹を倒すのであればなんとかなったかもしれない。しかし、今回は幽霊が狐を呼び寄せてしまっている。二匹を同時に相手するのは、かなり厳しい状況だ。
雪乃一人で、この魔物のどちらか一匹を抑え込むのは難しい。
今は、雪乃が狐の方を抑え、天音が幽霊の方と対峙している。
咄嗟に、天音は指示を出す。
「チェンジ! 雪乃ちゃんは、先に幽霊の方をなんとかして!」
「あ、天音さんは?!」
「私が狐の方を惹きつける!」
迷わず天音はそう叫んだ。
無茶だと、雪乃は思った。
天音はそもそも近接戦闘型ではない。後方からの支援がメインの役割となる。身のこなしは思った以上に素早いが、何よりその防御力は雪乃にも劣るほど。もし狐の攻撃が直撃すれば、どれほどのダメージを受けるか分からない。
それでも、そうは感じてはいても、天音ならなんとかしてくれるような気がした。雪乃は天音の言葉を信じて、彼女に託すしかなかった。
「雪乃ちゃん! この手紙で、幽霊を!!」
天音から手紙を受け取って、入れ替わるように雪乃は幽霊へ、天音は狐へと、背中合わせに対峙する。
天音が歌を奏でる。
その歌声は、天音や雪乃を補助するスキルではなく、幽霊を弱らせる<鎮魂歌>。
彼女自身は、その身のこなしだけで、まるで優雅にダンスを踊るように、両手に持った小さな刀で巨大な狐の攻撃を弾く。周囲を舞う狐火を物ともせず、天音は獣の爪や牙の攻撃のみを防ぎ続ける。これは、天音の装備が物理攻撃よりも魔法攻撃に秀でているためにできる戦い方だった。これが雪乃であったなら、爪と狐火の二つの攻撃で一気にやられていた可能性もある。
天音の歌声を受けて、幽霊はまた苦痛の表情を浮かべる。
天音の示す意図に気付いて、雪乃は一気に駆ける。
(早く! 天音さんが、耐えているうちに!)
いくら天音だろうと、そんな無茶な戦い方がいつまでも続くはずがない。
雪乃は幽霊を見据える。
近づくのが困難なほどの幽霊の雄叫び。しかし、それは天音の<鎮魂歌>と交り合い、少しずつその闇を打ち払っていく。
幽霊を見据え、狐を抑え込む天音に背を向けて、雪乃は長い魔法の詠唱を行う。
魔法スキル<氷縛結界>の発動。
石碑を中心としたその空間は、瞬間的に無数の氷の刃によって埋め尽くされた。氷の刃は幽霊の身を、まるで実体がないかのように軽く突き抜ける。しかし、幽霊を傷つけるのは実体のある氷ではなく、その氷に宿る魔力の塊。幽霊の身体は、氷の魔力によって削られ、その輪郭を大きく歪ませた。
幽霊の身を焼くように、天音の<鎮魂歌>が森に響き渡る。雪乃の氷が、幽霊の叫びに呼応するように、一斉に砕け散った。
身を弱らせ、輪郭を取ることさえ困難な様子の幽霊。その身を守る風の結界は崩れ、闇の開けたその中で、輝かしい月の光にその石碑は照らし出される。
雪乃には、もう魔力が残されていない。上位の魔法を何度も発動できるほど、彼女は魔力も精神力も持ち合わせていない。それでも、幽霊に引導を渡すべく、雪乃は石碑の元へと走った。
『旅人の手紙』を、雪乃は大きく掲げた。
魔物に向かって、彼女は問いかける。
「貴方が探しているのは、これですか?!」
幽霊は、その手紙を目に止めた。
――私の……大切な、手紙…………
旅人の亡霊は、それを見つめて叫ぶ。
雪乃たちは、その手紙の中の内容は知らない。家族からの手紙なのか、大切な愛した人からの恋文なのか。その相手がどこにいるのか、今も生きているのかどうかも、彼女たちには分からない。それでも、その旅人の優しくも悲しい表情を見て、彼にとってそれがどれほど大切なものなのかを感じて、雪乃は胸が締め付けられるようだった。
石碑を中心として、亡霊の闇が弾けた。
荒れ狂う大気は、一瞬で破裂したように強い風を放ち、そして、嵐が止んだ。
狂気は止んだ。
弱々しい光を放って、その旅人は雪乃の掲げた手紙に手を触れた。
その瞬間、暖かな光が手紙から溢れ出した。
魔物の表情が、徐々に穏やかなものに変わっていく。光に導かれるように、幽霊を形作る光が、ゆっくりと夜空の月に向かって落ちていく。
同時に、天音の抑えていた狐の狂気も収まっていく。幽霊と同じように、取りついていた何かが昇華し消えていくように、淡い光が空へと登っていくのを天音は見た。
消え去る最後の瞬間、幽霊は、雪乃に向かって微笑んだ。
彼女の耳には、旅人が何かを話したような気がした。
雪乃は夜空を見上げる。
月はただ静かに彼らを見つめ、空の闇は温もりのある両手を大きく広げて、狂気に落ちた哀れな亡霊の全てを受け入れる。
天音の優しい歌声に導かれるようにして、桃源郷に住まう幽霊は、その姿を消した。