序幕 −プロローグ−
街道の分かれ道の真ん中で、二つの看板を目にして、彼女は腕を組んで悩んでいた。
「どっちに行こうかな……?」
薄紫色の花柄の和服に、菅の市女笠を被った彼女。笠の下から見える長い黒髪は、人気のない街道の微かな風を受けて、ふわりと楽しげに揺れた。
先へと続く街道は、今にも辻馬車が通過していきそうな、砂地の荒い道。分かれ道の中央に設置されている木の看板は、今にも崩れ落ちそうなほどボロボロだった。看板を見ただけで、この先のどちらに進んでも、街は寂れていると容易に想像できるものだった。
彼女は、小さく首を傾げて唸った。
「う~ん……」
彼女は知っている。
この先にある〝地域〟は、決してこの看板通りの様相というわけではない。
街と街は、〝道〟で繋がる。しかし、そこには〝文化〟としての繋がりは一切ない。ただ点と点が繋がっているだけ。
彼女は黒い目を細めて、看板に書かれた文字を読む。
「右へ行くと『ドラゴンズガイア』、左へ行くと『桃源郷』、か……」
両方とも全く知らない名前だった。彼女にとっては知らないところへ行くのが目的なので、とりあえず第一条件は両方ともクリア。後は自由に、どちらか一方を選ぶだけ。
「そういえば……こういう時、人間って無意識の内に、心臓のある左の方向へ曲がっちゃうんだっけ?」
一人で呟いてから、また思い直す。
「というか、今の私って、心臓無いよね」
今の身体は人間型ではあるものの、外見も中身も完全に偽物で作り物なので、胸に心臓があると感じるのはあくまで錯覚に過ぎない。
今、この空間に私がいるということ、風を感じること、若木の匂いを感じること、目に見えること、これらは全て自分の脳が見せている錯覚によるもの。
彼女は辺りを見回した。
街道の傍には森が、その遠くには山が見える。青い空には小さな白い雲が浮かんでいる。足元の近くに小さな木の枝を見つけて、彼女は手に取った。
「こういうところって、本当にディテール凝ってるよね」
だからこそ、彼女は楽しいと思う。
その小枝を真っ直ぐに地面に立てて、そっと手を放す。
パタリ。
「左!」
満足そうに頷いて、笠の位置を手で直しながら、彼女は左の街道へと足を進める。
そして、その道を僅か数歩進んだ先で、彼女の周囲は強い光の中へと包まれていった。
軽い眩暈を感じるような浮遊感の中、それでも彼女の足はしっかりと地面を踏みしめて、何の迷いもなくその足は〝道〟の先へと突き進む。一時の光が止むと、まるで四角いパネルが周囲の壁に敷き詰められていくように、魔法の筆で辺りが塗り替えられていくように、彼女を中心として周りの風景が一変していった。
砂埃の立つ荒い道路は、舗装された石煉瓦造りのしっかりとした街道へと変わっていた。
明るかった空は、少しだけ太陽が傾き、僅かに夕方の影が射しているようだった。
青々しいほどの森の木々は、赤色や黄色の交じる、紅葉した美しい山並みへと変化していた。
先ほどまでは人っ子一人見当たらなかったというのに、遠くに何人かの人影があるみたいだった。
後ろを振り返ってみても、そこには整った石煉瓦の街道が続いているだけ、先ほどまでの砂土の街道はどこにも見えなかった。きっと、道を引き返していっても、同じ道に辿り着くとは限らないと彼女は思う。
落ち葉の重なる街道の端には、小さな水たまりがあった。黒い水面には赤い紅葉の葉が揺れている。秋雨に濡れる夕暮れの街道、これがこの『桃源郷』という〝地域〟のコンセプトデザインなのかもしれない。
笠を外して水たまりを覗き込む。その地面に造り出された大きな鏡に映るのは、紅い葉を簪にした彼女の姿。
黒い髪に黒い瞳、化粧なんて全くしていないのにパッチリと大きく見える目と、薄い桃色の小さな唇。年の頃は二十歳前後。暗い水面に薄紫色の明るい和服がとても映えて見えた。
彼の見慣れた彼女の姿。
これが、今の自分。
今の私。
これが、彼女の旅する〝世界〟。