第十章 5.格子戸の別れ
元治二年、二月二十三日、その日は朝から曇っていて、今にも泣き出しそうな空だった。
山南先生の切腹の日。
あたしは屯所にはいけないから、山南先生の最期には立ち会えない。
あたしは朝から屯所の方にむかって手を合わせていた。
目を閉じると山南先生の笑顔が思い浮かぶ。
”明里なら大丈夫。きっと見守ってくれ。”
あたしははっとして顔をあげた。
このままでいいのだろうか?
明里さんは本当にこのまま会わずに別れていいのだろうか?
あたしだったらそんなふうに何もかもが全部終わった後で伝えられることが耐えられるだろうか?
気付いたときには何もかも終わっている、そんなの絶対嫌だ!
これは正しいのかどうかわからない。
でも何も知らないなんて良くない!
あたしは袴と単衣に着替えると、家を飛び出した。
山崎さんの声が聞こえた気がするけど構っちゃいられない。
北風になびく髪を走りながらくくってポニーテールにすると島原に向かって全速力で駆けだした。
「はあ、はあ。」
島原大門にたどり着いたところであたしは膝に手を置いて呼吸を整えた。
しまった。
明里さんがどこの天神なのか分からない。
島原は広い。
どこの置屋の天神なのか分からないと探しようがないじゃん。
あたしってなんてうかつなんだ。
自分の行き当たりばったり感に歯噛みしたくなった。
「あれ?水瀬はんやないの。」
ふと名前を呼ばれて振り向くとそこには浴衣を着て流し髪の雪乃さんが居た。
雪乃さんとは一年半前に芹沢先生に髪を切るように迫られたのを庇ったあの天神だ。
「雪乃さん!」
「どうしはったの?こんなとこで。えらい久しぶりやねえ。」
「雪乃さん、明里天神って知らない?」
「明里はんは桔梗屋の天神やで?ほんに上品でええ人や。」
雪乃さんは小さく笑って言った。
「その人に会いたいの。」
「なんで急に…。」
雪乃さんはあたしの剣幕に押されてたじろぎながらも教えてくれた。
「お願い!」
「そこの角まっすぐ行ったら、桔梗屋よ。たぶんまだお支度しとる最中や思うけど。」
「ありがと!!」
あたしは挨拶もそこそこに走り出そうとすると雪乃さんに呼び止められた。
「うちの知り合いやゆい。そうすれば会えるかもしれへん。」
「うん!」
あたしは桔梗屋にむかってダッシュした。
桔梗屋と書かれたのれんをくぐる。
「すみません!鏡屋の雪乃天神の知り合いですが、明里天神居らっしゃいますか?」
息を整えながら怒鳴る。
「なんやの?あんた。」
ぼてっとした女将さんらしき女の人が突然乱入したあたしを見て眉をひそめる。
「新撰組です。」
あたしはいらいらしながら言った。
「ひい!壬生狼!」
「お願いします。火急の用事なのです。明里天神と御目通り願いたいのです!」
こくこくと頷いておかみさんは明里さんを呼びに行く。
ほどなくして明里天神が階段の下に降りてきた。
明里さんはしっとりとした美人で、切れ長の瞳が凛とした張りつめたような美しさを見せ、あたしの背筋を伸ばさせた。
昔おばあちゃんちで見た月下美人の花みたいな人。
「うちになんの御用どす?」
警戒したように明里さんが言う。
「私は…新撰組の水瀬と申します。」
「水瀬、ってあの水瀬はん?」
「え?」
「山南はんからいつも聞いてますわ。匂い袋えらんでもろておおきに。」
山南先生の名前を口にしたときの明里さんはこれまでの張りつめた空気から柔らかな春の日差しみたいに暖かい笑顔で笑った。
この人は本気で山南先生が好きなんだ。
あたしは胸が締め付けられた。
「明里さん、屯所に来てもらえませんか?」
「え?」
「お願いします。」
明里さんは一瞬目を見開き、でも何かがあったのだと悟ってこう頷いた。
「承知しました。山南はんになんかあったんやね。」
明里さんは知っていたのだろうか?
一瞬目を伏せ、そしてあきらめたように小さく笑った。
その美しいけれどどこまでも哀しい笑顔は華香大夫の笑顔に似ていた。
*
明里さんにはかごに乗ってもらい、あたしはその横をダッシュした。
そんなに遠くないはずなのに、全然進んでないみたいに感じる。
足を泥に取られたように進まない。
畜生!!
かごやさんをせかしてあたし達は屯所までたどり着いた。
門番を蹴散らす勢いで迫る。
「あ、おい!!」
「って水瀬!」
除隊されたはずのあたしが乱入したのを見てびっくりしているみたいだけど、今は構っちゃいられない。
「ごめん!見逃して!!」
あたしは明里さんの手を引いて屯所の庭をずんずん進む、とその時。
「水瀬?!」
永倉さんが不意に現れた。
「永倉さん!山南先生はどこです?」
「ってお前、この女は…。」
「早く!」
「こっちだ。」
わ
永倉さんはあたしの剣幕に気圧されたようにその細い目を少しだけ見開くと、身をひるがえして中庭へと進んで行き、屋敷の奥の格子戸のついた小さな部屋の前に来た。
「山南はん!」
明里さんがいとおしい人の名前を呼んだ。
とその時
パタン
格子戸があいた。
格子の間から山南先生の顔がのぞいた。
「明里!」
「山南はん!!逢いたかった!!」
明里さんが格子ごしに山南先生の手を握ったのが見えた。
あたしと永倉さんはそっとその場を離れた。
せっかくの逢瀬なんだから二人きりになったほうがいい。
あたしがいるといろいろ面倒なことになるからと、永倉さんが言ってくれてあたしは屯所の外に出て
昨日山南先生と最期の別れをした河原まで来て枯れ草に腰を下ろし、目をきつく引きつむって膝に押し当てた。
さよなら、山南先生…。
そしてその一刻ののち、山南先生は総司の介錯で見事な最期を遂げた。




