第十章 3.風花、願い:土方歳三、沖田総司
寝耳に水だった。
山南さんが…脱走。
悪い冗談だと思った。
だが…どこかで最悪の可能性が起きてしまったと感じた。
近頃…あれは水瀬が隊を離れるころだっただろうか、そのころからふさぎこむことが多かった。
でも、大丈夫だと、どこか油断していた。
「山南さんだから」と。
あの人はいつも無理して笑うから…。
あの人は博学で、剣の腕も確か、おまけに人格者。
誰からも好かれる類の人間だった。
試衛館時代はそんなあの人と自分との差にひがんでつんけんした態度をとることもあったが、それでもあの人はどこまでも「いい人」だった。
”君はどこまでも熱い魂を持っているね、まるで戦国の世の武士のようだ”
そんな俺にあの人はしみじみとあの毒気を抜かれるような笑顔でそんな風に言うもんだから、素直に慣れなくて”百姓の俺に皮肉かよ”と毒をこめて返してやったら、あの人は気分を害した様子もなくこう言った。
”土方君や近藤さんと一緒なら形骸化した「武士」ではなく、真の「武士」になれると思ったんだ。
志のためにどこまでも走っていける武士にね。”
俺は”よせやい、恥ずかしいこと言ってんじゃねえ”と返すことしかできなかったが。
愚直でまっすぐな近藤さんがいる。
人格者で穏やかな山南さんがいる。
だから俺は鬼になれる。
汚ねえことも、残忍なことも…どんな泥だってかぶっていける。
あんたがいなきゃ鬼になれねえんだよ、山南さん。
この前も屯所の移転の件で話していて意見が対立したが、どんなに意見が違っても俺はあの人を信頼していたし、あの人もそうだと思っていた。
だが…違ったのか?
それは俺の独りよがりだったのか?
追い詰めていたのか?
俺が…新撰組が…あんたを苦しめていたのか…?
総司には「大津まで行って山南さんを見つけられなかったら戻ってこい」と言い、追いかけさせた。
あいつならば、その真意を汲み取るだろう。
山南さん、どうか帰ってくるな。
戻ってきたら…俺は副長として、あんたに切腹を命じなければいけなくなる。
だから…頼む。
俺は外をちらつく風花を見ながらただ祈っていた。
空は哀しいくらいに澄み切っていた。
*
どうか、居ませんように。
私は大津に馬を進ませながらただ一心に願っていた。
”大津まで”
それが土方さんの、近藤先生の精一杯だから。
私は道草を食いながら殊更ゆっくりと馬を進ませた。
今朝、山崎さんが急に屯所に来た時、もう山南先生は屯所を出た後だった。
なぜ山崎さんは山南先生のことを知っていたのか聞くと、「水瀬が歴史を思い出したゆうたんや。」と小声で耳元で言った。
…山南先生が脱走することは歴史として後世に伝えられているのか…。
私は殊更重い気分になった。
「総司!」
え?
私は思わず顔をあげた。
大津の関所の前にある茶屋に、
…山南先生がいた。
山南先生は笑っていた。
穏やかで優しい、いつもの山南先生だった。
「…んで…なんで居るんですか!?」
なんで…この関所で引き返そうと思っていたのに…。
なんでよりにもよってこんなところに居るんですか…!?
「ふふふ、遅かったね。
それよりもここの団子なかなかうまいんだ。総司も食べなさい。」
山南先生はそれには答えず、笑って団子を差し出した。
「…行ってください。」
私は山南先生の手首をつかみ、喉から声を絞り出して言った。
「え?」
「お願いですから!近藤先生も土方さんもそれだけを願っています!だから…!!「総司」」
山南先生は小さく笑って私をさえぎる。
「これは私のけじめなんだよ。
武士としては未熟にも揺らぎ続けたこの私だが、最期くらいは武士として逝きたい、それが私の願いだ。」
山南先生は穏やかで、でも揺らぎのないまっすぐな目をして言った。
「そんな…!」
私は食い下がろうとすると、いつになく山南先生に厳しい目で見つめられる。
「総司、君は武士だろう。近藤さんを守り、土方君を支え、共に走ると決めているのだろう?
ならば惑うな、揺らぐな。」
「!」
武士…その一言で、私は身がぴりりと引き締まるのを感じた。
もう決めている。
山南先生は自分の往く道を決めている。
でなければこんな風に微笑めるはずがない。
それは凛とした静謐。
冬の道場の空気のようだ。
何者も侵すことのできない神聖な精神の世界。
「…さあ、食べなさい。本当においしいから。」
山南先生は子供をあやすようにみたらし団子の皿を私に差し出した。
「…いただきます。」
私は小さく笑ってひと串口に運ぶと、それは優しい甘さで、確かにうまかった。
でも私は何も言わずに団子を口に運び続けた。
何か一言でも発してしまったら何かがあふれてしまいそうだったから。
「総司」
「はい」
私は口にほおばったまま顔をあげた。
「ありがとう…。君が来てくれて良かった。
辛い役目をすまないな。」
「…」
私は無理やり笑って頷いた。
私たちの願いと、山南先生の願いは別のところにある、それはもう決して交わることはないのですね。
だから逝くのですね。
武士として。
でも私は泣きませんよ。揺らぎませんよ。
だって、わたしも…武士ですから。
はらはらと風花が舞った。
空は哀しいくらい澄んでいるのに…
こんなときに降る雪を風花と言うのだと、教えてくれたのも…先生でしたね。
あれはいつのことでしたっけね?
その時におっしゃってましたよね。
風花が舞う空の色はまるで、新撰組の隊服みたいだと。
切腹裃のごとく潔いあさぎ色ですね。
私の一番好きな色です。
さあ、屯所に戻りましょう。