第十章 2.脱走、どこにも続かぬ道
また一つ寝返りを打った。
もうすぐ夜が明けてしまう。
でも眠れそうになかった。
昼間の山南先生のことが気になって。
なぜ、山南先生はあんなことを言ったんだろう?
あたしだけには知っててほしいと言った。
でも…今までの山南先生なら話さずに心に留め置いていたのではないだろうか?
今までと違う…?
あたしはまた一つ寝返りを打って考えを廻らせていた。
そしてある可能性に思い至った時はっとして目を見開いた。
山南先生は…もう新撰組にいるつもりが…ない…?
あたしは布団を蹴飛ばして起き上がった。
部屋はまだ暗く少しの光も見えない。
そうだ、だからあたしに話したんだ。
新撰組に居続けるならむしろ話さなかっただろう。
…もう二年近く前だけど、現代の八木邸で、新撰組の年表を見た。
その時、あき兄はなんか言ってなかった?
総長、山南敬助について。
あの頃は全然新撰組なんて興味なかったから、話半分にしか聞いていなかったけど…。
思い出せ!
何か事件はあった?
”…土方歳三と山南敬助はさ、互いに鬼の副長、仏の副長って言われて仲悪いって言われてたんだよ。
そのせいで、山南敬助は脱走して土方歳三に切腹させられるんだ。…”
「…!!」
あたしは不意にあき兄の言葉を思い出し、全身総毛立った。
山南先生は脱走、そして切腹させられる。
なんであたしは…!!
こんなになるまで思い出さなかった!?
これまでも、山南先生の様子はおかしかった。
疑う余地はずっとあったのに!!
止めなきゃ!
…山南先生は脱走するつもりなんだ。
どこに?
そんなの知らない!
でも、どういう経緯かは分からないけど、見つかって連れ戻される。
士道不覚悟は切腹…!
いや、むしろ初めから死ぬつもりなんじゃないだろうか?
昨日の山南先生の様子はどこまでも静かで落ち着いていた。
山南先生の目は、生にたいして執着する者のそれでなはく、悟りきったような静かな目をしていた。
あたしに話したのは、死ぬつもりだからだったとしたら?
新撰組の誠と山南先生の誠が少しずつ違ってしまったこと…
伊東参謀の攘夷の思想と、山南先生の誠が近いところにあること…
明里さんの命を盾に伊東参謀の卑怯な企みに、乗らざるを得なかったこと…
きっともう…山南先生は新撰組に居るつもりがない…。
山南先生は新撰組を抜けてまで…生き延びようしない。
だって武士だから。あの人は。
あたしはきつくこぶしを握りしめ、暗闇を凝視した。
どうすればいい?
死んでほしくない。
山南先生は大事な人だもの!
歴史なんて…くそくらえだし!
夜が明けようとしている。
空気が身を切るように冷たくて冷え冷えしている。
部屋はまだ薄紫で薄暗い。
あたしはパジャマ代わりの着物をもどかしく脱ぎ捨てて、単衣と袴を身に付けた。
まどろっこしくて構っちゃいられない!
あたしは山崎さんの部屋のふすまをぶち開けた!
「山崎さん!」
「!
なんや…お倫か。どないした。」
山崎さんは刀を鯉口に切ってあたしを鋭く睨みつけると、すぐにその手を緩めた。
こんなにバタバタしてたら起きるにきまってるのかもしれないけど、とっさのことにも刀に手をかけることができるあたり、やっぱりこの人も武士なのだと思う。
あたしは山崎さんの着物の袖をつかんで言った。
「山南先生が…脱走するつもりです…!
止めないと!!」
「!なんやて?脱走は切腹や!昨日そんなこといっとったんか?」
あたしは首を振る。
「何も…。でも様子がおかしかったんでずっと気になって考えてたんです。それで思い出したんです…歴史を。」
「…!
それは…総長が脱走して…そのあと死ぬちゅうことが、後の世に伝わったちゅうことなんか?」
「…」
あたしは静かに目を伏せた。
「とにかく屯所に行ってくる。水瀬はここでまっとれ!」
山崎さんは着流しの上に羽織をはおると、足音もさせず滑るように部屋を出て行った。
どうか…どうか…間に合いますように!
山南先生!
生きてください!
明里さんから、私たちの前から居なくならないでください!!
*
そしてあたしの祈りもむなしく、山南先生脱走の一報はそのあと一時もせずに山崎さんの口から告げられた。
”思うところがあって江戸に帰ります”その一言を残して居なくなっていたのだという。
総司が後を追うように命じられたらしい。
大津まで行って見つけられなかったら戻ってこい、との命令付きで。
これが近藤先生と土方さんの精一杯なのだろう。
無事に逃げ切ってほしい、と。
戻ってくれば切腹以外の方法はないから。
でも、あたしはなんとなくわかっていた。
もう山南先生はどこにも往くつもりがないことを。
きっと山南先生の道はもう…どこにも続かない…。
明里さんを連れて、逃げ切ることだってできる。
新撰組に残って、すべてを自らの腹のうちに収めて、総長として過ごすことだってできる。
あるいは伊東参謀と共に山南先生の誠の道を往くことだってできる。
でも…山南先生はその中のどの道も選ばなかった。
どこへも続かない道を選んだのだ。
なんで…なんで…!!!
あたしは文机に突っ伏して嗚咽した。