第九章 5.怒り、衝撃:斉藤一
水瀬が夕餉の場に姿を見せぬ。
夕方あったときには少し元気になったように見えたが。
大丈夫だろうか?
妙な噂が流れている。
水瀬が夜な夜な幹部の色子になって床を共にしているという不快なものだ。
まったく大方水瀬の働きをねたむ器の小さな連中の戯言だと思っていたが、なぜ今になってそんなうわさが流れ出すのか、誰かが故意に流しているとしか考えられん。
水瀬を邪魔に思うものが?
幹部たちは皆水瀬が”平成”という未来から来たという複雑な事情を承知している。
突拍子もない話だが、体が光を放って消えそうになったあの姿を見せられては信用せざるを得ない。
それ以前に、皆水瀬がもはや何者でもかまわぬという気になっていたのやも知れぬ。
だからいまさらそんなうわさを聞いたところでまるでぴんとこない。
ふと茶碗から顔を上げると伊東参謀が山南さんに親しげに話しこんでいる姿が眼に入った。
伊東甲子太朗…あの人はきな臭い。
おそらくあの人の誠と新撰組の誠は別のところにある。
あの人は新撰組をのっとろうとしているのやも知れぬ。
どちらにしろ要注意だな。
そのとき俺の後ろで小さな声で話す隊士の声が耳に届いた。
ふと耳に届く「水瀬」という単語に俺は耳をそばだてた。
「だから本当だって…」
「マジかよ?」
「俺さっき見たんだ。水瀬が男とヤってたんだ。」
「じゃあ、あのうわさは本当なのか?」
「幻滅したぜ。ただの女じゃねえ、骨のあるヤツだと思ったら色子かよ。」
「だが、あの綺麗な顔だろ。俺も世話になりてえぜ。」
「あんな女俺はごめんこうむるぜ。誰と兄弟になるかわかんねえだろ。」
「はは、ちげえねえ。」
俺は目の前が真っ赤になるのを感じた。
何を見たと?
水瀬が?
男と?
やっていた?
ふざけるな!
吐き気のするようなこの会話の主をすんでのところで殴りかかるところだった。
「おい、滅多なことは言わぬが身のためだ。二度言えば斬る。」
俺は低い声で言った。
「ひっ、斉藤先生!」
「い、承知しました。」
この男たちのおびえようにいらだつ。
「…それはどこで見た?」
「え?」
「何度も言わせるな。どこで見た…!?」
俺は苛立ちを隠すことさえできない。
早く言え!
「あっ…西の離れです。」
場所を聞くや否や俺は走り出した。
*
どん!
「うわ!」
誰かにぶつかる。
暗闇のなかぶつかったのは沖田さんだった。
「斉藤さん?どうしたんです?そんなにあわてて。」
「…今は話している暇はない。御免!」
俺は話す暇も惜しいとばかりに西の離れに向かって走り出した。
「な、ちょ、ちょっと…」
後ろから沖田さんの声が聞こえるがかまっている暇はない。
あの男の話の真偽を確かめたい。
水瀬が自分から行くはずはない。
水瀬の身に危険が迫っているのかも知れないのだ。
カサリ
西の離れの一室から聞こえる物音。
ここは物置のはずだ。
まさか…!
「斉藤さん!何があったんです?」
沖田さんが俺に追いついたのか、肩で息をしている。
俺は一気に扉を開けた。
そこにいたのは
乱れた着物で苦しそうに浅い息を繰り返す
水瀬だった…!
「「!」」
俺も沖田さんも息を呑む。
水瀬は袴を着けておらず、単も前がはだけておりその白い肌があらわになっている。
髪も乱れ顔にかかって、その顔は何度も殴られたのか痣になって腫れ上がっていた。
「水瀬!」
「まこと!」
俺たちはかわるがわる水瀬を呼ぶがみなせは苦しそうに浅い息を繰り返すだけで目を開けない。
「水瀬!!しっかりしろ。」
俺はもう一度強く揺さぶってみる。
すると水瀬はゆっくりと腫れて開きにくくなっている目をうっすらと開けた。少しの間視線は定まらず、虚空を見ていた。
ようやく焦点が合ったかと思うと体を起こそうとし、痛みが走ったのか顔をゆがめる。
とっさに崩れそうになる体を支えるために沖田さんが手首をつかんだ。
「!」
水瀬は目をいっぱいに見開き、その目には恐怖とおびえが走った。
「嫌っ!」
水瀬は沖田さんの手を振り払い、俺に背を向け何かから逃げるようにその場から這い出ると単衣を搔きよせ動かない体を丸めて耳をふさぎ、声にならない悲鳴を上げた。
「水瀬、落ち着け!」
「まこと!」
俺たちは水瀬に近づこうとするがその背中は圧倒的な恐怖と拒絶で俺たちを拒んでいる。
「来ないで!見ないで!!」
そして水瀬は糸が切れたようにぷつんと黙り、そして気を失った。
「…これは…いったいどういうことです?」
沖田さんは今までに見たこともないほど怒りと殺気を噴出させて低くその声を絞り出した。
「あのうわさだろう。」
俺はのどに張り付いた舌を無理やり引き剥がして言った。
俺たちを拒む水瀬は何者も見てはいなかった。
何をされた?
どれほど怖かったのか?
「っ!絶対に許さない!」
沖田さんはこぶしを自らのひざに打ちつけ暗闇をにらみつけた。
俺は心の奥底からじわじわと湧き上がってくる冷たい怒りに身を任せそうになるのをどうにかして抑えていた。
なぜ水瀬がこんな目に遭う?
こんな下衆な噂のせいで?
冗談じゃない!!
水瀬が目を覚まさないことを確認してから俺は水瀬の単を合わせて白い肌を隠した。
と、そのとき、俺は妙なことに気がついた。
犯された痕跡が…ない?
水瀬の足の間には、その行為を行えばあるはずの痕跡がなかった。
これは…どういうことだ?
水瀬の体を奪うことが目的ではない?
そういえば物置とはいえ、西の離れは幹部の部屋がある。
こんなところで襲っては見つけてくれといっているようなもの…
そこまで考えて俺ははっとした。
噂を本当にすることが狙いか?
水瀬が隊士でありながら幹部と関係を持っているという噂に信憑性がつけば、隊士たちはいっそう不信感をもつから?
まぶたの裏が怒りで燃え上がるようだった。
捨てては置けん。
許さぬ!
それは衝動。
怒りはじわじわと体を侵食して、青白い鬼火が自らの体を焼き尽くすような錯覚を覚えた。