第八章 13.水瀬の靭さ:土方歳三
水瀬の衝撃の告白から数週間、傷もだいぶん良くなり、水瀬は台所にも立ち、稽古に参加できるまでに回復していた。
久しぶりに剣の稽古に参加してその感触を確かめ、総司や平助と子供のようにはしゃいでいた。
水瀬は未来から来た人間だった。
それはあまりにもぶっ飛び過ぎていて、水瀬が消えかけたあの姿を見なければ到底信じられるものではなかっただろう。
未来、水瀬は”平成”と言っていたが、その時代では女までも剣を取らねばならぬほどの時代なのだろうか?
だとしたらとても殺伐とした世だと思う。
俺は水瀬の居たという平成という時代に想いを馳せていた。
稽古を終え、水瀬は井戸で顔を洗っていた。
爽やかな風に長くなった髪をなびかせて気持よさげに目を細めた。
こいつは確かにここに居るのに…でも本当はここには居ない存在なのだ。
見えるのに手を伸ばしても届かない。
届いたと思ったら指の間からすり抜けていく。
そしていつか幻のように消えてしまう。
そしてそれは水瀬自身の死を意味するのだ。
この前山南さんが言っていたこと
…身体と心が離れれば命が削られる…
それは本当だろうか?
あのとき水瀬ははっきりとは答えなかった。
それが何よりの答えだろう。
”水瀬はそう長くは生きられない”
それを理解した時、俺は内臓を引きちぎられるような激しい衝撃に襲われた。
水瀬が何者でもいい。
未来でも、過去でも、幽霊でも、妖怪でも…
ただここに生きていてさえいてくれたら。
ただ、あいつが笑っていてくれたら、それだけでいい。
おれはそんな風にさえ思っている自分に驚き、そして呆れ果てた。
いつから俺はこんな風に弱くなってしまった?
恋なんぞ、不確かで人を冷静で居られなくする厄介なものと決別したと思っていたのに。
なのに、この様は何だ?
水瀬はこんなにも俺の中に入り込み、俺の心は揺さぶられる。
畜生、情けねえ。
こんなに一人の人間にとらわれ揺らぐなんて。
「土方さん?どうしたんですか??」
水瀬がいつの間にか近くに来て縁側で胡坐をかいていた俺を覗き込んだ。
稽古の後で顔は上気していて、額に汗で髪が数本張り付いていた。
その姿に俺は以前島原の茶屋で遊女になったこいつを図らずも押し倒したことが急に思いだされ顔が熱くなるのを感じた。
ああ、畜生。
まるでガキみてえに。
馬鹿らしい。
「なんでもねえよ。」
「土方さんそんなに眉間にしわ寄せてるととれなくなりますよ?」
水瀬は俺の真似をして眉根を寄せると、額を指でたたきながら言った。
「うるせえよ。」
俺は水瀬を睨むと、水瀬は意に介した様子もなくくすくす笑っていた。
「なあ、水瀬、お前、新撰組がこの先どんな風に進むのか知ってるのか?」
俺は水瀬の後ろ姿に声をかけた。
ずっと気にかけていたことだ。
「大まかにしか…。あたし歴史は苦手だったんです。だから大きな事件しか覚えていないし、それもどんな経緯で起きたのかわからないんです。知りたいですか?と言われてもほとんど説明できませんが。」
水瀬は苦笑しながら言った。
「いや知ったところでぐちゃぐちゃ悩んじまうのは目に見えてる。だから知らなくていい。だが歴史が苦手だっていうお前まで新撰組のことは知ってたのか…。」
未来がどうなろうと俺らはただ俺らの信じる道を進むだけだ。
ただ水瀬は新撰組の存在を知っていたのか?
「有名です。それにファン…えと、憧れる人がすごく多いんです。この激動の時代を志の為に駆け抜けた誠の武士の集団だって。あたしの兄もすごく尊敬してます。」
「そうか…。お前のいた時代は平和だったか?」
「そうですね、簡単に病気なんかでは死なないし、刀を持たなくても、安全に安心に暮らせます。物も豊富になったし、技術も進歩しました。平和だと思います。でも日本以外の国ではまだまだ戦争も貧困も飢餓もたくさんあります。」
「日本が豊かになって平和になるなら俺らが今こうして血を流す意味もあるんだろうな。」
「っ!」
日本は平和になる。
豊かな時代が来る。
そして刀は必要なくなる…。
俺がふと日の傾きかけた空を見上げて言うと水瀬は泣き笑いみたいな顔をした。
「どうした?」
「芹沢先生と…同じことを言うんですね。」
「あ?」
なんでここに芹沢さんが出てくんだ?
「日本の明るい未来の為なら喜んで死んでいけるって。」
あのおっさんそんなこと言い遺したのか。
まったく、嫌なひとだぜ。
でもどこまでもあの人らしいぜ。
「ああ、あの人らしいな。だがここにいる連中も誰もがそんな風に思ってるだろうよ。日本国の未来の礎になる為に死んでいくなら悪かねえや。」
水瀬は何も言わずに小さく笑って頷いた。
「それよりも水瀬、お前なんでそんなに冷静なんだ?
いきなり違う世界に放り込まれて普通ならもっと取り乱すんじゃねえのか?
それになんだってここまで新撰組にこだわるんだ?」
俺はこの世界に必死に溶け込もうとしていた水瀬の姿を思いだし、何気なしに聞いた。
どうしてここまで新撰組に居ようとしたのか?
「取り乱しましたよ。刀なんて未来では持たないし、人を斬るなんて考えられないから…。
ふふふ、土方さんはめちゃくちゃ怖いし。
…初めから新撰組にこだわってたわけじゃないんです。でも、あたしがここにタイムスリップ…えーと、"時渡り"したのは、新撰組が関係してるってなんとなく思っただけなんです。
だから未来に帰るためには新撰組に居ないとダメだって思っちゃって。まあ、結局帰れないんですけどね。」
水瀬はふと口元を緩め、儚げに言った。
「だったらなんで…尚更怪我までして辛い思いしてここにいるんだ?」
「好きだから…ですかね。」
水瀬は目を伏せて静かに言った。
…好き…
こいつの口から発せられるその響きに俺の心臓が音をたてた。
「!」
水瀬はそんな俺の動揺に少しも気付くことなく言葉を紡ぐ。
「新撰組の人達が好きなんです。とても。
だからあたしはみんなと共に走って志を見守るんです。自分の命のある限り。
それがあたしがここにいる理由なんです。」
水瀬は…こちらが直視できないくらいまっすぐで凛とした顔で前を向いていた。
その瞳は穏やかな哀しさに満ちていた。
水瀬、お前それでいいのか?
危険すぎるんじゃないか?
女として幸せを見出す生き方が、ここでもできるんじゃないのか?
俺の中にいろんな言葉が浮かんでは口に上る前に消えた。
俺が今言おうとしたようなことは水瀬は数え切れぬほど思い、悩み抜いたに違いないのだ。
どれほどの恐怖が、艱難辛苦が、孤独があっただろう?
そのひとつひとつにこいつは悩み、悩み抜き、向き合い、そしてその答えにたどり着いたのだろう。
だからこいつはこんなにも凛として美しく笑い、まっすぐに己の運命と向き合い、前に進んでいる。
こいつは誰も追いつくことすら叶わない遠くに居るような気がする。
それは未来から来たというその数奇な境遇のことではなく、それ以上に心の靭さなのだと思う。
こんなにも凛と美しく自分の運命と向き合い、なおも走り続けるその靭さと潔さは男として、嫉妬しそうなほどだ。
だから自分の揺れる心など、殺してみせる。
水瀬は俺たちの行く末を知りながらもここに残り、俺らの志を見守るという。
ならば俺たちはこの志に命を賭して最期の時まで走りきってやろうじゃねえか。
そして水瀬が笑ってすこしでも長く生きられるように支えるのだ。
「…水瀬、ありがとよ。」
ふいにこぼれた言葉に自分自身が驚く。
水瀬がただここに生きていてくれることへの感謝だった。
「何がですか?」
水瀬は目を丸くして俺に問う。
「さあな、自分で考えろ。じゃ、そろそろ俺は戻る。」
俺は照れくさくなってキョトンとしている水瀬を残しその場を離れた。
女に負けてたまるかよ。
あいつに負けねえくらいの武士になって見せるぜ。
蚊に食われた腕を掻きながら、熱い決意を秘めて俺は自室に戻った。