第八章 8.禁門の変、怒号
血と汗と京都の真夏の熱を帯びた湿った風に舞いあげられた砂埃で全身がベタベタになる。
ただ怒号だけがあたりを埋め尽くしていた。
これが…戦。
あたしは前線ではなく山崎さんと共に救護班という位置づけで前線の後ろで負傷した隊士の手当てにあたっていた。
お父さんが医者だから普通の人よりも少しだけ怪我や病気の知識がある。
それでも平成の時代に比べたら衛生も医療環境も全然整っていない。
そんな中あたしにできることは本当に少ない。
でもあたしには後ろを向いている暇なんてない!
1864年7月19日早朝に開戦したこの戦は午後になって長州軍が京都の御所に向かって砲撃を開始したことで幕府軍は驚愕した。
この時代天皇は神様。
長州軍はその神様に弓を引いた逆賊になったのだ。
とその時、幕軍のどこかの藩の人が叫んだ。
「長州が屋敷に火を放って逃げたぞ!」
!
「あいつらとんでもねぇ置き土産おいてきやがった。この風の中焼き討ちだなんてなにかんがえてやがる!京を火の海に沈める気か!」
土方さんが苦々しい顔で言った。
そういえば高校の時歴史の授業で聞いたことを思い出した。
江戸時代、何よりも恐ろしかったのは火事だったと。
木造の家屋は風向き次第でどこまでも燃え広がる。
いったん燃え始めてしまえば燃え尽きるのを待つよりほかにすべがないのだと。
「火を食い止めろ!」
近藤先生がお腹に響くような大きな声で命令を出す。
「止めるな!総督のご命令だ!!一刻も早く戦を止めよとな。そのために焼き討ちを行う。」
馬上からそれを制する声。
幕軍のお偉いさんと思しき冴えない風貌の男が見下すように近藤先生に言う。
馬鹿か、この男は!
「何故!この風の中、さらなる火を入るなど短慮な!!」
近藤先生が食ってかかった。
「口を慎め!!一橋公の戦略になんと無礼な!」
「民の生活はどうでもいいのか!」
「百姓上がりの東夷が!」
「!」
武士ではないことを侮蔑するその言葉に近藤先生は言葉を失い、歯ぎしりが聞こえるようだった。
「近藤先生!行きましょう。新撰組は新撰組としての仕事をするのです!」
あたしはその男を一瞥して近藤先生の袖を引き走り出した。
男はまだ後ろでごちゃごちゃ言っている様子に、戦で頭に完全に血が上ったあたしは足を止めて振り返り、叫んでやった。
「うっさい!くそおやじ!あんたに近藤先生を笑うことなんてできないないんだよ!てめえの血も流せねえ奴がごちゃごちゃ言ってんじゃねえ!」
あたしはこの逃げ惑う人々の喧騒に乗じて言った。
どうせ聞こえやしない。
こんな風でしか悪態をつけないのがなんとも情けなく悔しいけど。
「水瀬君…。」
近藤先生は唖然としていたけれど、走りだすとその厳つい顔を破顔させて吹き出した。
「まったくなんて女子だ。ありがとう。君の悪態で元気が出てきた。
新撰組諸君!被害が最小限に収まるように手を尽くせ!市民の避難誘導に手を貸すのだ!」
「「おう!!」」
敗走する長州勢が市民に手を出さないように食い止めながらの避難誘導!
走り出したあたしの目には小柄な新撰組の隊士の姿が目に入った。
あれは…新之助君?
まずい押されてる!!
あたしはそこへ向かって身体を滑り込ませる。
「うわぁ!」
「新之助君!」
清水新之助君は16歳で隊の中でも最も若い。
今回が初陣なのだ。
涼やかな美形でいつも佐之さんや永倉さんに歌舞伎役者とからかわれているおとなしい男の子だ。
「死ね!幕府の犬が!!」
ガキン!
あたしは敵の剣を受け流し、新之助君を背に庇う。
刀の返しで相手の鎧の隙間を狙って突きを入れる。
噴き出す鮮血。
この血の生温かさに、臭いに…人を傷つけ、殺すことに慣れていく自分がたまらなく恐ろしい。
でもそれでもあたしはもう止まることなどできない。あたしは闘うことを選ぶ。
怖くても苦しくても、守りたい人がいるから。
「新之助君怪我はないね?
早く立って!あたしの背中は新之助君に預けたから!早くここを抜けるよ!!火が回る!!」
「は、はい!」
悲鳴。怒号。
きな臭い煙の匂い。噎せ反るような鉄錆の臭い。
そして血の赤、赤、赤。
どこまでこの朱の大地は続くのか?
人が往来にあふれ皆逃げ出している。
その時子供が列を離れて一人泣いているのが見えた。
あたしはその子に駆け寄ってご両親がどこに居るのかを聞いたその時、
「水瀬さん!」
「死ね、壬生狼!!!」
子供を後ろに庇ったことで一瞬反応が遅れ、その瞬間、潜んでいた敵の刀が防具の間からあたしの左の肩口に入った。
ズン
骨にまで響く衝撃。
!
しまった!
一瞬の強烈な熱さの後には脈打つ痛みが全身を襲い、血がだらだらと腕を伝い、着物を赤に染めていく。
ダメだ。こんなところで…。
「水瀬さん!」
新之助君の必死な声が聞こえる。
まだ倒れる訳には行かない!
「あたしは大丈夫!!それよりその子をお願い!急ごう!」
あたしと新之助君は必死で白刃を掻い潜り、迷子を避難小屋まで届けると、新撰組の陣営までたどり着いた。
その頃にはもう自力で立っていられなくて新之助君に支えられながらの帰還だった。
「水瀬!」
「まこと!」
総司と佐之さんがあたしを血相変えて迎えた。
ドクン、ドクン…
心臓の鼓動に合わせて傷口から血が滴る。
浅い呼吸をする度に傷口が疼く。
血が止まらない。
もう感覚すらなくなっている。
「水瀬さん!しっかりしてください!!山崎さん!!早く手当てを!!お願いします!」
新之助君があたしの腕を必死で押さえてくれている。
紺色の着物が血でさらに濃くなっていて肌に張り付いている。
「水瀬!!しっかりせえ!」
救護班である山崎さんの顔を見た瞬間、ふと緊張の糸が切れてあたしの意識は闇へ落ちた。