第八章 5.断ち切れない恋の痛み
痛かった。
胸が、ただ苦しくて痛かった。
…九つも年若のガキに本気になるわけないだろ、使えるもんは使うだけだ…
総司の部屋に夕餉を持っていこうとして聞いてしまった、あの言葉を。
息を殺して、どうにかその場を離れたけれど土方さんの地をはうような低い冷たい笑い声はまだ耳に残っている。
分かっていたことじゃん。
土方さんはそういう人だから。
女の人にはどうしなくたってもてるし、土方さん自身の好きな人はお琴さんっていう人で…
そしてその恋さえも”すべては新撰組のために”という志の前には並ぶべくもない。
そんな土方さんの心にあたしなんかが入り込む余地は全くないんだ。
もう一度ここに戻れただけで十分だと思ったのに人の欲っていうのは本当に底知れないな。
側に居るだけで十分だって思ったのに、なのにこんなにも動揺するなんて。
馬鹿みたい、あたし本当に馬鹿みたい…
何よりもともとあたしはここにいない人間なんだから、だから別に悲しくなる必要はない。
土方さんは新撰組のためにあたしを利用してるだけ、あたしだって未来から来たのを隠してここにいたいからいるだけ。
だから別にいい。いいんだ。
でももしあたしがもともとここにいて、土方さんと普通に出逢っていたらあたしはこの想いを伝えただろうか。否、あたしはやっぱり伝えられなかっただろう。
今のこの関係を壊すのが怖いから。
あたしなにやってんだろ。泣きたくなんかないのに…。視界がぼやけ、涙が溢れてくる。
あたしは縁側に端座して足をぶらぶらさせながら夜空に浮かぶ月を見上げた。
月が涙できらきらしてるけどぐにゃりと歪む。
華香大夫は天国で吉田と向かい合えてるだろうか。
あたしを憎んでるよね?恨んでるよね?
吉田稔麿を、貴女の最愛の人の命を奪ったのはあたしだから。
華香大夫は自分のすべては吉田と共に有ると言った。
だから自分の命で吉田を守れたことは何も苦ではなかったのだと思う。
吉田さえ生きて、本懐を遂げてくれるのならば。
でもあたしは吉田を死に追いやった。
許してなんて言わない。
あたしはあたしの守るべき人が居たから。
だからあたしは貴女の命を、吉田の命を奪ったことを負って生涯生きる。
あたしにはそうすることしかできないから。
ねえ、何であたしたちは敵同士だったんだろうね。
未来で会っていたら、きっとあたしたちは友達になれたと思う。
でも、この幕末では、決して交わることがない平行線にあたしたちはいた。
でも、あたし、貴女が好きだった。貴女の生き方に惹かれた。
誰に笑われようとも、愚かだって言われても、自分の恋に胸を張って、惚れた男のために敢えて利用され続ける。それは決して犠牲なんかじゃなくて、そうすることが至上の幸せだったはずだ。
その凛とした靭い生き方は貴女じゃないとできないよ。
いつかあなたは言っていたよね。
これは虹を追いかけるような恋だと。
目に見えるのにけっして届かないモノに恋焦がれるのは苦しくて、でもそれでも求めずにはいられない。そんな恋なのだと。
今あたしもそんな恋をしてる。
大好きな人はあたしじゃなくて、もっと大きな、もっと遠くにある志を見続けている。
その隣に並ぶことも、女子としてみてもらうことすらできない。
あたしはその背中をずっと追いかけることが精一杯。
あたしもそれを至上の喜びとしなければ。
大好きな人と同じ空の下で、生きてゆけるなら、
その人のために、その人が笑えるように、何かが出来るのなら、それが一番うれしいと思えるようになりたい。
そして凛として、顔をあげて、自分の恋に誇りを持って生きていきたい。
なのに…あたしは弱虫で、臆病だから、土方さんの言葉にこんなにも動揺してしまう。
靭くなりたいな。
自分の恋に胸を張って笑って土方さんの背中を押しだせるくらい靭くなりたい。
「水瀬?どうしたのか?」
不意に肩を叩かれて、あたしはあわてて袖で涙をぬぐい、振り向くと、そこには永倉さんがいた。
「なんだよ、水瀬。総司となんかあったのか?」
永倉さんは特にからかうでもなく自然とあたしに問いかけた。
「総司…?」
あたしの頭にははてなが浮かんでいたと思う。
何故ここに総司が出てくるのか。
「お前、総司に惚れてるわけじゃねえの?」
は?なんでどこからそんな話が…?
「違います!」
あたしは顔をぶんぶんふって否定する。
「池田屋で、お前あんなに必死だったじゃねえか。総司が死んじゃう!って泣いてたろ。だから俺はてっきり…」
永倉さんはいつになく真剣な様子で言った。
「そんなんじゃないです!!それは総司が倒れて死んじゃったらどうしようと思ったからで、あたしは…あたしの好きな人は…!!」
何言おうとしてるの?
それを言ってどうする?
あたしは二の句が継げない。
なんて言っていいかわからない…。
「なあ…お前、好きな奴いんだな?」
ずっと黙っていた永倉さんが口を開く。
「…はい。」
ここまで言っといて居ませんなんてしらじらしすぎる。
「それは…総司でも、おそらく斎藤でもないんだよな?」
「…はい。」
永倉さんは鋭い。斎藤さんのことまでどうしてしっているんだろう。
ふと嘆息して永倉さんは上を向いた。
「そっか…。うまくいかねえよな。色恋ってのはよ。
水瀬はさ、気付いてんだよな?総司の気持ちも、斎藤の気持ちも。」
「!」
「まあ、わかるよなあ。
あいつら隠すの下手そうだからなあ。
なあ、水瀬、厳しいこと言うかも知んねえけど、お前もっと自覚しろ。
自分が女だってこと。
しかもあの一筋縄じゃいかない男2人を惚れさせるくらい魅力のある女だってこと。
お前自身は意識していなくてもあいつらはお前をどうしたって女としてみてしまうんだ。
それがあいつらには苦しくなってしまうこともあることをさ、ちょっとでいいから心に留めといてくれ。」
あたしは心を抉られるような感覚に陥った。
あたしは2人が普通に接してくれることに甘えてる。
寂しいけど、でももう少しちゃんと距離を取らないといけないんだろうな。
「おいおい、待った。お前があいつらと敢えて距離を取れなんて言ってねえぞ。片恋にケリをつけるのはあいつらの問題だからな。
俺はさ、お前が思っている以上にお前はもう女なんだって自覚して、無防備なところを見せるなって言ってんの。
お前は新撰組にとってはかけがえのない仲間だと思ってる。皆そう思ってる。幹部も隊士もな。
今はそれでもいいかもしんねえ。ただこの先、お前らの、いや、隊士も含めて危うい均衡が崩れたら、新撰組の屋台骨も揺らぐんじゃねえかと思う。俺が恐れているのはそこなんだ。」
永倉さんは厳しいけど優しい。確かにあたしの無防備さが要らぬ火種を落とすとも限らない。
「あたし…自分の恋にこんなにも揺らいで…大事な人を傷つけるばかりで…なんであたしは人を傷つけないと生きていけないんだろう…」
「水瀬、おまえは傷つけてばかりじゃないぞ。それ以上に俺らを守ったり、支えたりしている。
お前が居ることで総司は守られたし、武士として成長している。斎藤もな。
だからお前は自分を自覚して、そのうえで堂々と胸張って自分を正しく見つめろ。
まあ、俺らが色気が無い無い言いすぎたのも悪かったな。色気はさて置き、お前は女として十分魅力があるから自信持っていいんだぜ。」
永倉さんは優しくあたしの頭をぽんぽんと軽く叩いて笑った。普段は言葉少なながら、あたしを見てくれるのはつー兄に似ていてとても懐かしい気持ちになる。
「…はい。」
「それにしても…お前も辛れえ片恋してんだな。叶わないのか?」
永倉さんはおどけるように言った。
「叶わないですよ…。ていうかかなえちゃいけない…かな。」
この恋は虹を追いかける恋。
届くはずはない、それでも求めずにはいられない恋。
「なんでだよ?別にかなえようとする努力をしてもいいんじゃねえのか?別にそれでもお前がいいならいいけど傷つくの怖がってたら後悔するぜ?俺らもお前も新撰組居る限りいつ死ぬかわからない。お前の片恋の相手もいつ死ぬのかわかんねえんだぞ?」
あたしがこの時代の人間ならそれもできる。
でもあたしはここに居ない人間なんだ。
そんなあたしがどうして心を伝えられるだろうか?
「…」
何も言えないあたしをみて永倉さんが背中をポンとたたいた。
「まあ、お前の恋だからな。
お前自身が後悔しないようにしろよ。
いろいろぐちぐち言ってわりいな。じゃあ、明日も早いし早く寝ろよ。じゃな!」
「はい。おやすみなさい。」
月が優しい光を放っている。
いつかあたしはこの恋を叶えるための努力をするのだろうか?
叶わないとわかっていてもあたしはその恋に向き合って華香大夫みたいに凛とした強い生き方をすることができるだろうか?
あたしは華香大夫みたいに虹を追いかける恋をしていると思っていた。
でもあたしはこの恋に、この想いに向き合おうとしているわけじゃない。
ただ遠くで指をくわえて虹をうらやんでみているだけなんだと思う。
いつかその虹を追いかける日が来るだろうか?
すべてを受け止め、凛として自分の恋を誇りに思って、その虹に届くまで、走り続けることができるだろうか?