第六章5.後悔、遺志を継ぐ:土方歳三
「水瀬!」
腕に走る鋭い痛みに一瞬手が反射的に緩む。
離れる手。
遠ざかる影。
そして水音。
後には増水した川の音しか聞こえぬ。
!!
「水瀬!」
俺は自分の声に驚いて飛び起きた。
身体中にびっしりと嫌な汗をかいている。
寝間着の袖で額に浮かんだ汗を拭う。
俺は左腕の傷を触ってみる。
かすかに痛むその傷は水瀬が俺の手を離させるために簪で刺した傷だ。
ちくしょう。
また夢か。
水瀬はまだ発見されない。
俺は毎日夢を見る。
増水した川は流れも速く深い。
屈強な男でも落ちれば万に一つも助かるのは難しい。
夜の川の暗さは死にも似て水瀬を飲み込んだ。
水瀬は死んだのか?
だとしたら、殺したのは
俺だ…!
あのあと俺は結局吉田を取り逃がし、しばらくその場に呆然と立ち尽くしていた。
飛び出した俺を探しに来た総司に肩をたたかれるまで、ただ闇の川面を睨み続けていた。
水瀬が身請けをされてから、山崎は桂小五郎の邸宅を突き止め、水瀬に動きがないか張っていた。
ただ、桂邸の警護は厳しく、中に忍び込むのは無理で、せいぜい遠巻きに屋敷の外から様子を伺うしかできなかったらしい。
それがあの日の夜、桂邸はあわただしかった。
「女が逃げたぞ!」「追え!!」「捕まえて殺すんだ。」という声が響いたが、山崎は水瀬を助けることができず、どさくさにまぎれて追手を減らすことしかできなかったらしい。
肝心の吉田や桂はその中にはいなかったのだという。
水瀬を探すには、人出が必要だと考え、屯所に走りこんだ山崎の報告を聞き、俺は呼びとめる勝ちゃんの声を背に走り出したのだ。
水瀬…
ちくしょう!情けねえ!!
俺はこんなに弱い人間だったか?
今まで、自分が死ぬことはただの一分も怖くはなかった。
だが、お前がこの世にいないかもしれない、
もう会えねえと思うだけで、
俺は指一本さえも鉛のように重くなって動けなくなる。
お前が残した布の切れ端に血文字で書かれた「マスヤ、フルタカ、カヤク」の文字。
山崎に頼んで今調べている最中だが、この先にやらなきゃいけねえことが山ほどある。
お前が命をかけて遺した情報だ。
何が何でもつきとめてやる。
必ずお前の遺志を継ぐ。
俺が出来るのはそれだけだ。
それなのに
動かねえんだ。
俺の腕が。
お前を離してしまったこの腕が。
畜生、畜生!畜生!!畜生!!!
なんで、手を放しちまったんだ?
なんでお前が身請けされるのを黙って見てたんだ?
なんで、お前を密偵として遊女なんかに送りだしたんだ?
なんで、新撰組なんかに居させることを許可したんだ?
全部俺だ!
水瀬を殺したのは俺だ!
今まで神や、仏がいるなんて思ったことはなかったが、今は死ぬほど祈りたい。
水瀬、どうかどうか、もう一度
お前の笑顔を見せてくれ。
水瀬を戻してくれ。
俺たちのもとへ。
頼む。
水瀬がもしも戻らなかったら、
俺は生涯笑うことはできないだろう。
俺は血が出るくらいきつく唇をかみしめた。
夜は深い。
俺にはもう二度と朝は来ないような気がした。