第六章 2.吉田稔麿の正体、掌の上
元治元年、1864年5月。
季節は夏になった。
あたしがいた現代と違って暦がずれているので、今は夏なのだ。
昨日までじめじめした雨が降っていたけれど、今日は珍しく晴天だ。
あたしが身請けされてからはや1か月。
あたしが密偵を始めてからはもう3カ月以上が経とうとしている。
山崎さんは桂邸を知らない。
たぶん探索を続けてはいるだろうけど、あたしが自力で抜け出すまでは山崎さんもこちらに接触することができないから、早く何らかの情報をつかんで抜け出さないと。
ただあまり具体的な情報がないのが現状で。
何かの計画が水面下で動いていることだけはわかるのだけれど…。
桂邸では定期的にサロンが開かれていて、日本の今後の在り方について語られているのだ。
ここにきてわかったのは、幕府の中にも尊攘派が隠れているということ。
そして尊攘派にも過激派と穏健派があって、正直みんなそれぞれちょっとずつ意見が異なっているのだ。
桂小五郎を頼って、何人かが訪ねてきている。
あたしはそのたびに桂小五郎という人間の人脈広さととカリスマに圧倒された。
桂はその弁と、人間力で多くの人を惹きつけてやまないのだ。
今日は長州の尊攘派一派の会合がある。
それもけっこう重大な話し合いらしいのだ。
…今日勝負をかけるつもりだ。
きっとつかんで見せる!
*
月が天中に上がり、虫の声が庭木の合間から絶え間なく聞こえている。
あたしは髪を低い位置で結い、浴衣の裾を膝までたくしあげて5センチ幅くらいの白い帯でしっかりと結び、ひざ丈にした。
袖もたすきで結んで、腕まで出して、護身用に蔵から拝借した脇差しと斎藤さんからもらった簪を一緒にしっかりと帯にさすと、いざ床下にもぐりこんだ。
足も腕も出し放題。
この時代にしたら裸みたいなもんで、今のあたしは露出狂も真っ青だ。
もう女にあるまじき格好だけど、背に腹は代えられない。少しでも逃げる時身軽な方がいい。
これは賭けだ。
もし露見すれば確実に死ぬ。
ほこり臭い床下に眉を寄せたまま注意して低い姿勢で桂の部屋の下を目指して進む。
肌を出した部分を蚊に食われて猛烈にかゆいけど我慢だ。
「…だ。」
話し声がする。
あたしは全身を耳にしてその話し声に注意を向けた。
「あとは桝屋…古高の情報…だな。」
ふるたか?
ますや?
誰?
「火薬、…銃創の確保は…?」
「滞りなく」
なに?
武器集めてどうすんの?
耳がだいぶ慣れてきた。
聞こえる。
けど何なのかわからん!
「…玉は?」
「鷹司殿に…ご誘導いただこう。」
ぎょく?
たかつかさ?
「肥後と中川宮はだれが?」
「…がいいだろう。」
「これで決まった。」
なんのことかはよく分からないけど、でも何かをたくらんでいて、その経過報告会なのは間違いない。
でも火薬や銃を集めるなんて、ちょっときな臭すぎる。どっか襲撃する気なのかしら?宮ってことは公家が関係してる??
ますや
ふるたか
火薬や弾薬などの武器の収集
鷹司
ぎょく
ひご
なかがわのみや
たぶんこれらはキーワードだ。
これを伝えれば土方さんや山崎さんはわかるかもしれない。
深入りは禁物だ。
もう十分すぎるくらいあたしは足突っ込んだんだから、とっとととんずらするに限る。
「…にしても、あの華雪とかいう遊女はどうです?桂先生、何か尻尾を出しましたか?」
!!!
あたしは思わず声を出しそうになった。
あたし!?
この声吉田稔麿だ。
「いいや。なかなか骨のある女子だよ。怪しい動きは何もない。」
面白そうに含み笑いをする桂の声が聞こえる。
「吉田先生、華雪とは一体どういう女子なのです?」
「新撰組のネズミさ。」
!
吉田は気付いてた!?
なんで?
いつから?
「華香に探らせていたんだ。新しく入った遊女をこちらに引き込めるか調べろとね。
初めて華雪を見たとき驚いたよ。どこかで会ったように感じたからね。
それがだれかは確信が持てなかったけれど、華雪のもとに一度だけ上がったお客の名前を聞いた瞬間、ピンと来た。それが副長の土方さ。一年くらい前に五条大橋で新撰組と斬りあいになった時、土方と沖田にかばわれてふるえていたガキがいてね、それが華雪だったのさ。もっとも僕としたことがあまりに雰囲気が違いすぎて気付かなかったが。」
!!!
あのときだ。
初めて斬りあいに直面して、
あたしのせいで総司に怪我をさせたあの時か!
あのとき一人だけ桁違いに強い男がいた。
土方さんが来たことで川に飛び込んで逃げたのだけれど。
あいつだ。
なんでもっと早く気付かなかった?
あたしは自分のふがいなさに歯噛みしたい気分になった。
土方さんとのお座敷で、聞いた物音は華香大夫だったんだ。
あたしを探るためにずっと見張ってたんだ。
「なぜそんなネズミをここに置くのです?
桂先生の寝首でも掻かれるやもしれぬではないですか?!」
「あの女はなかなか骨があると言っただろう?
そんなことはしないさ。潔い女だからね。思想はわれらに寄っている、だからうまくこちらに引き込めば新撰組の情報も漏らすかと思っていたが、やはり仲間は裏切らぬか。
まあ、それを差し引いても殺すのは惜しい女だ。
美しさもさることながら、あの凛とした潔さと度胸は見ていてすがすがしいほどだ。」
桂の底冷えするような声に夏なのに全身に鳥肌が立った。
「もうそろそろ潮時ですね、桂先生。責め問いでもしますか?」
責め問いって拷問?
無理無理!!!
「まあ、あの顔に傷をつけるのはかわいそうだからね。何も言わないのなら殺せばいいよ。
まあ、これまでの頑張りをたたえて、褒美をあげたんだ。今日のこの会合のことをちらつかせてみた。
きっと今この下で顔を青くしてるんじゃないかな?ふふ。」
やっぱりこの人はとんでもないわ。
花が散っても、人が死んでもこの人はきっと同じような調子で薄ら笑っているんだろう。
!
全身の血が凍った。
全部ばれてたんだ。
あたしは掌の上で転がされてた。
罠だということはわかっていた。
あたしって今超やばくない?!
逃げるに限る!
あたしは物音をたてないようにそろそろと縁の下を移動し、外に出た。
月がだいぶ傾いている。
「おい、いたぞ」
「追え!」
ばらばらと人の気配と怒鳴り声が聞こえる。
あたしは力の限りダッシュした。
かつてこんなに走ったことがあるだろうか?
息が上がり心臓が破れそうだ。
でも、止まるわけにはいかない!
逃げ切ってやる。
絶対に!
余裕かましてこの情報漏らしたこと死ぬほど後悔させてやるからな!
あたしは新撰組に帰るんだから。
みんなの顔が見える。
それだけで、あたしは強くなれる。