第五章 12.虹を追いかける、華香の恋
誰だったかなぁ。
あの吉田って人どっかであったことある気がする。
あのニヤリって冷たい笑顔が気になるんだよな。
うーん
だれだったっけなあ?
あたしは恒例のお勤め前に朝のお風呂を済ませて、部屋に戻り
お風呂上がりで濡れた髪を手拭いでターバンみたいに包み、畳に大の字に寝転がって考えていた。
ちなみに遊女のお風呂は午前中に済ませるのがここの習慣らしい。
起きぬけに入るからのぼせてしまうけど、これから暑くなってくるから、寝汗をさっぱりできるのだけはありがたい。
そんなことより、
ああ、分からんな。
でも…ここで唸っててもしょうがないか。
らちあかないし。
これからどう動くべきかを考えないと。
桂小五郎の爆弾身請け発言から一週間、山崎さんにそれを報告したのはおととい、今日はまた桂小五郎と吉田が来るので、華香大夫とあたしはお座敷に上がることになっている。
「華雪、はしたないえ。そないに寝転がって。」
お風呂から上がった華香太夫は寝転がるあたしを見て呆れたように苦笑した。
濡れた髪をサイドに流して頬を上気させた華香太夫はいつもとはまた違った色気があって、あたしをドキドキさせた。
「華雪、身請け話うけはるん?」
華香大夫は意を決したように聞いた。
「受けようかと思ってます。桂先生はご立派な方ですし。」
虎穴に入らずんば虎児を得ず。
危険だけど、行くしかない。
あたしはあたしにしかできないことをするんだから。
「…華雪、あんたが初めて1人でお座敷上がったときのお客はん、誰か知っとる?」
華香大夫は無意識なのか手の中の手ぬぐいを握りしめている。
「さあ…名乗られませんでしたし…あの後は一度もいらっしゃいませんでしたし。」
一応そう言っておかないとね。
あの時も他人で通したし。
「あの人、新撰組の土方はんやで。」
「はあ…」
あたしは何と答えていいのやらわからずに、曖昧に答えることしかできない。
あたしの上司です、ともいえないし。
「って分かってんの?
あの人は壬生狼なんやで!ゆうたら桂先生とは敵や。
桂先生の身請け話を受けるゆうことは、土方はんの敵になるんやで。」
そうか、華香太夫はあたしが土方さんを好きだと思ってるから、こんなに一生懸命になってくれるのか。
ありがたいけど、とても申し訳ない。
「華香姐さん、そんな…その、土方さんとはあの時単に一度お座敷に上がったって言うだけで何もなかったですし、華香姐さんがいうような恋とかじゃない…ですよ。それに遊女がお客さんに恋するのは万が一にも叶わない、虹に届くような恋だって言ってたじゃないですか。だからいいんです。
桂先生ともまだ…何も無いですけど、早いうちに身請けしてくださるならそれでいいんです。」
虹に届くような恋…
あたしは今、正にそんな恋をしている。
決して結ばれない人。
結ばれてはいけない人。
その人にはたぶんずっと忘れられない人がいて、
あたしのほうを見てくれることはないと思う。
そしてあたしはこの時代の人間じゃなくて…
世の中の理を曲げてしまうから…
だから伝えてはいけない。
あたしの恋には越えられない二重の壁がある。
歴史の壁と、片思いの壁。
でもあたしは気付いている。
あたしは逃げてるんだよね。
土方さんに伝えれば拒絶されるのは目に見えているから、それを聞くのが怖いから。
伝えてはいけない恋なんだって正論よろしく思うことで納得させようとしてるんだ。
でも…やっぱり言えない。
あたしは新撰組が好きだから。
ここに居たいから。
今の関係を壊したくない。
だからあたしは、自分にできることを、頑張る。
それだけだ。
「華雪、あんた死んだらあかんえ?」
「…!何言ってるんですか。死にませんよ。」
あたしは嫌な汗が背中を伝うのを感じた。
華香大夫は何を知ってる?
あたしの正体を知ってる?
華香大夫と吉田稔麿とのつながりは何?
「…うちな、吉田先生が全てなんや。」
ぽつんと華香大夫がつぶやいた。
こんな華香大夫をいつか見たことがある。
「初めておうた時、こない優しゅうて、眩しい人おるんかと思ったんよ。そう思うた時にはもう愛おしゅうて、愛おしゅうて、どうしようもなくなってしまった。吉田先生はお客さんで、うちは遊女で、そこにはどうにもならん壁があるって言い聞かせてもあかんのや。それでもうちは…好きなんや。
せやから、何が何でも、何を犠牲にしてもうちは吉田先生がほしいんや。阿呆やろ?」
そう、遊女とお客さんの恋は虹に手を伸ばすようなものだと、そう、どこまでも儚げで切ない表情でそう言った、あの時と一緒なんだ。
「吉田先生は、華香姐さんのおなじみさんでしょう?
身請けとかそういうこともあるんじゃないんですか?」
「ふふふ、吉田先生は虹みたいな人なんや。決して近づけん。近づいた思うたらそこにはおらん。そんな人なんや。」
「それはどういう…。」
「吉田先生は誰も見とらん。決して女子を顧みるような人やない。あの人が見とるんは一人の女子よりももっとずっと大きな夢。日本の未来よ。」
「…!」
華香大夫とあたし、吉田稔麿と土方さんが重なった。
土方さんが見てるのは武士の誠。
幕府と日本の未来。
そして新撰組。
その男の人の誠の前には女の恋心なんて比べるまでもなく、むしろ目にすら入らないのかもしれない。
本当だね、華香大夫。
あたしたちがしてるのは虹を追いかける恋だ。
決して届かない、
届かないことは嫌になるくらいわかっているのに、
でも追いかけずにはいられない、
その幻にも似たせつない憧憬を。
「うちな、夢があるんよ。」
「え?」
「吉田先生とな、島原の外を一緒に歩きたいねん。」
「島原の外?」
「うん、いつもな、島原大門の外に桜並木が見えるやろ。あそこを一緒に歩けたらいいなあと思うんや。欲を言うなら、満開の桜の下やったら尚いいなあ、そこで一度でいい。本当の名前で呼んでもらえたら、死んでもええわ。
ふふふ、そんな夢、罰あたるな。」
華香大夫は小さくほほ笑んだ。
その笑みはどこまでも澄み切っていて…
そして瞳には深い深い哀しみが宿っていた。
あたしは何も言うことができなかった。
ただ胸がいっぱいで…、
油断すると涙がこぼれそうだった。
だって…ただ一度、桜並木の下を並んで歩く、名前を呼んでもらう…
それが夢だなんて、せつなすぎる。
「さあ、おしゃべりはやめや、華雪、支度すんで。」
軽く手を叩いて腰を上げた華香大夫はいつも通り、あでやかで、非の打ちどころのない美しい華香大夫しかいなかった。
その夜、あたしはお座敷で桂小五郎の身請けの話を受けると桂と、おかみさんに言った。