第五章 8.願い、桂小五郎という男
あたしの初一人お座敷はなんとか終わり、そのあとは化粧を落としてぼんやりしていた。
なんか複雑。
こうやって女として土方さんと向き合えて、好きな人と触れ合えたことはどういう形でもうれしいのに、
一方でそれは敵の目をくらますニセモノで、それが切ない。
そんなことに一喜一憂している自分がすごくちっぽけに思える。
あたしがここに来た理由を思い出さなきゃ!
「ふう…」
あたしは文机という小さな机に突っ伏して悶悶としていた。
「華雪、初お座敷どうやった?」
部屋の入り口から声が聞こえ、あたしはバッと顔をあげた。
華香大夫は床入り(お客さんとエッチすることをそう言うらしい。)のあとなのに、そんな雰囲気は全くなくてどこまでも高潔な凛とした美しさがあるだけだった。
一度置屋を探ってたら、華香大夫の床入りに遭遇してしまってその物音や声に、動揺したのだけれど、帰ってきた華香大夫は少しも変わることがなかった。
それは凛としていて本当にきれいだった。
華香大夫はプロなんだ。
お客さんと床入りするときにわずかな私心も表に見せない。
美しい笑顔の裏に、悲しみも涙も全部封じ込められるくらい、芯の強い女性だから、こんなに凛として少しも揺らがずにいられるんだと思う。
それって本当にすごい。
あたしはここに来て揺らいでばかりだ。
「華香姐さん…どうって別に…」
あたしは顔に血が上るのを感じた。
「ふふ、華雪はホンマ、わかりやすいなあ。
優しいお客さんやったんね。華雪が初めてをあげても惜しないくらい。」
「初めてって…!違います!!!まだあげてません。」
あたしは顔の前で手をぶんぶんふって否定した。
完全に華香大夫は勘違いしてる。
「いややわ。そうなん?
そやったら何でそんなん顔赤くしとるん?」
「…え…と…」
あたしはまさか知り合いだったなんて言えずに言い淀んでしまった。
「まさか…華雪、今日のお客さんのこと好いてしまったん?」
「えっ…そんなこと…」
違うって言わなきゃ。
だってあたしは…諦めるって決めたんだもの。
「悪いことは言わんから、やめとき。遊女がお客はん好きになったって万に一つも成就せんえ、それこそ虹をつかむみたいなもんや。」
そう言った華香大夫は遠い虹を見つめるように虚空を見つめていた。
その表情は今まで見たことがないくらいせつなくて儚い悲しい笑顔を浮かべていた。
「…ま、それでもあきらめられへんから、恋なんやけどね。」
華香大夫はふふと自嘲気味に笑った。
虹をつかむ恋…
万に一つもかなわない…追いかけても、追いかけても決して届くことはない幻みたいな恋。
決して言わない、言えない想い。
あたしの恋もきっとそういうものだ。
華香大夫はそんな恋をしているんだろうか。
どんな苦しい恋を心に秘めているんだろう。
そんな気持ちを秘めて、太夫として床入りもしてるんだろうか。
あたしは何も言うことができず、華香大夫の凄艶な、けれどとてもさみしげな横顔を見つめることしかできなかった。
*
それから数日あたしの身には特に何も起こらず、いつも通り、華香太夫のサポートとしてお座敷に上がり続けていた。
そして思わぬ男と再会することになる。
「華雪、今日のお客はんはうちのおなじみさんえ。華雪がここに来てからは初めてやろか。」
華香大夫はうれしそうだ。
それはおなじみさんが来てくれる、そういったもの以上に華香太夫を喜ばせているみたいだ。
その笑顔を見てあたしは気がついた。
もしかして華香大夫はそのお客さんのことが好きだから…
だからこの前あたしにそんなことを言ったんだろうか。
そうしてあたしは華香大夫のおなじみさんという人が来ている座敷に一緒に上がることになった。
「吉田はん、おまっとさんどした。華香どす。」
歌うように華香大夫は言った。
「待っていたぞ。さあ、入れ。」
ふすまが開くと、そこには男性が2人いた。着流しを着崩した男の人と、きっちりとした羽織はかまをきたそれよりも年上のまじめそうな男の人が一人いた。
着流しの人の年はきっとあたしよりも2,3歳年上だと思う。袴の人はたぶん土方さんくらいかもう少し年上。
あたしはその着流しの男性のほうに目を奪われた。
線が細く、けっして整った顔立ちというわけではないのに、人を引き付けるのはその燃えるような漆黒の瞳によるものだろうか。一重瞼で細くて、常に笑っているみたいに優しい顔立ちなのに、目の奥には言い知れない暗闇が広がっている。
あたしはその人からでるオーラに圧倒されてしまう。
でもこの人どこかで見たことがある気が…
どこかは思い出せないけれど…
「さあ、あんたもあいさつし、吉田はんに桂はんやで。華雪。」
華香大夫に促され、あたしはあわてて居住まいを正す。
「吉田はん、桂はん、華雪どす。以後よろしゅうお願いもうしあげます。」
「華雪か…なかなか美しいな。」
吉田という人はあたしを見てにやりと笑ってよこした。
ぞくり
言い知れぬ恐怖があたしを包む。
何、これ。
底冷えするような先の見えない恐怖。
「いややわあ、吉田はん、浮気どすか?うちが一番やっていいはりましたのに。」
華香大夫は形のよい頬を膨らましてすねた。
きっとこの吉田と言う人のことが大好きなんだろうな。
「ははは、吝気か。華香。どうです。桂先生。華香は可愛いでしょう。」
「ああ。そうだな。しかし吉田にこんななじみがいるとは思わなかった。」
桂という人はどっしりとした佇まいで、堀の深い濃い顔が笑うととたんに人懐こい顔になる。
それは近藤先生を思い出させるお父さんみたいな笑顔だった。
「で、桂先生、どうです?件のことは?」
「うむ。確実に進んでいるさ。」
例のことってなんだろ?
妙に含んだ言い方するんだな。
桂…吉田…
う~ん聞いたことがあるような気がするけど…
残念ながらあたし高校時代地理選択なんだよね。日本史は全く分からず。
だめだ、ここで考えていてもわからない。
あたしは今はただの遊女見習いになってこの場をやり過ごすしかない。
その後吉田さんは華香大夫といい雰囲気で、まったりとした雰囲気でお酒を飲み、二人は床入りのために部屋を変えた。
あたしは桂さんと世間話をしていた。
「華雪は京の出か?」
「いいえ、生まれは江戸どす。」
「なぜ遊女になった?」
「え?」
「まだ見習いと言ったが…」
なぜって馬鹿なこと聞く人だ。
「生きるためどす。それ以外にありますやろか。」
「剣術をやっているなんてなかなかおてんばだったんだな、君は。」
この人、やっぱりただものじゃない。
あたしの手のひらをたぶん一瞬見ただけで剣ダコを見たんだろう。
一瞬心に走る緊張。
「何でうちが剣術やっとったなんてわかるんどすか?」
あたしはさもびっくりしたとでも言わんばかりに能天気な声で聞いてみる。
「剣ダコさ。さっきお酌した時に一瞬見えたのさ。」
あたしはまじまじと自分の手のひらをみて笑う。
「…実家は江戸で小さな道場やったんです。父も兄も亡くなって今はもう有りませんが。
小さなころから、父や兄と稽古をしてました。跳ねっ返り者っていつも怒られてましたけど…。今ではとても大切な思い出です。」
これも想定の範囲内。
山崎さんと打ち合わせをしたとき、もし手のひらの剣ダコについて指摘されたら、と言われたのだ。
こんな事まで予想するなんて山崎さんってやっぱ只者じゃない。
ただ、これはほとんどが事実だからすんなり出てきた。
みんなどうしてるのかな。
つー兄、由紀子さんと結婚したんだよね。
あき兄ちゃんと朝起きれてる?
すー兄、あたしの代わりにちびっこ剣道の先生やってくれてる?
お父さん、おしんこだけじゃなくて野菜もちゃんと食べて。
おじいちゃん、おばあちゃんもきっと心配してるわ。
懐かしいな。
あたしは帰れるかわからないあたしの時代に想いを馳せて一瞬声が震えた。
「つらい思いをしたのだな。」
桂さんはそう言って私を優しい目で見た。
あたしはあいまいに小さく笑って首を横に振る。
なんだか嘘をいろんな人につきすぎていて後ろめたい。
「…華雪、本当の名は何と言う?」
「え?」
何言ってるの、この人。
遊女にとって本当の名前を教えるのは、自分が身請けされるときだけなのだという。
それまでは何があっても言ってはいけないのだ。
ここに潜入した時最初におかみさんから言われたことだった。
もっともあたしは二重に偽名を使っているから、華雪はお真なわけだけど…
「私はね、夢があるんだよ。この日本を欧米に負けない近代国家にすることさ。」
「…!」
「そのためには今の腐った幕府では駄目だ。私と一緒に来ないか?華雪、新しい日本を一緒に作ろう。」
桂さんがあたしに向ける笑顔はまっすぐで、まぶしくて、何の偽りもないように見えた。
どこまで本気なんだろう?
罠?
あたしを怪しんでいるのか…
それとも…
ただ、この人の強烈なカリスマと求心力に嫌でも惹かれてしまう自分がいる。
あたしたちの時代の日本の礎を築いた人なんじゃないだろうか。
幕末…桂…桂小五郎?
って、あ、思い出した。木戸孝允!!
いくら日本史に疎いからってさすがにあたしも木戸孝允は聞いたことがある。
この人は開国攘夷派、新撰組の対極にいる人なんだ。
この人を探ることがあたしの仕事だ。
でも…
あたしたちの未来の時代を守るためには、
滅びゆく新撰組じゃなく、新しい時代を開くこの人についていく方がいいんじゃ…?
そんな声が心のどこかで聞こえる気がした。
あたしは、一体何を守りたいの??
何を…
150年後の日本?
歴史?
未来で待ってる家族?
あたしはそのとき新撰組のみんなの顔がふと浮かんだ。
馬鹿だ…
あたしは今こんなにもみんなに会いたい。
家族と同じくらい新撰組が大事になってる。
あたしは新撰組と共にありたい。
これがあたしの真実だ。
人の死に泣いた時も、剣をふるう怖さにおびえたときも、あたしはいつだって、新撰組のみんなと一緒に居たかった。
志とかそんな大それたものじゃない、ただ、みんなが好きだから、あたしにはそれしかない。
だからあたしは、新撰組のために、自分に任せられた仕事をするんだ。
だってそれしかあたしはできないもの。
この世界で何のつながりもなく、何も持ってないそんなあたしが出来るのは。
…危険でも、この誘いは絶好のチャンスなのかもしれない…。
乗ってみるか…。
「桂先生、新しい日本では女子が泣かんようになりますか?」
桂小五郎はふと笑い、目を少年のように輝かせて言った。
「ああ。欧米列強と肩を並べる経済力をつけ、豊かにするんだ。
そうして貧しさに女子が身売りするようなことなど無くす日本を創るのだよ。」
「そんな日本が見たいです。」
「おいで。一緒に行こう。」
桂は力強く言ってあたしを抱きしめた。