第五章 1.密命、あたしにしかできないこと
朝起きたら、季節外れの雪が降っていた。
年が明け暦の上ではもう春なのに、夜明けの薄暗い闇の中、大粒の牡丹雪があとから、あとから降り積もって庭の木々を真白に染めていく。このぶんたとまだまだ降ってかなり積もりそうだ。
「わあ、さっむーい。」
寝巻きに半纏をかけて冷たくなった手に息を吹きかけると白い塊が薄墨色の空へ溶けた。
部屋に戻ると、髪をいつも通りポニーテールに結わえ、紺色の稽古着に身を包む。足も手も冷たすぎて感覚が無いくらい。
衝立の裏に廻ると、総司はまだ布団に頭まですっぽり埋まって丸くなっている。
「総司、起きて!早く起きないと朝稽古始まるって。」
「うーん、さむい。もうちょっと。」
「早くおきなよ。」
こんな押し問答を続けても全然起きる気配がないので、布団を引っペがして丸くなっている総司の首にニヤリと笑って氷みたいに冷たくなったあたしの手を押し当てる。
「う”わっ!!」
総司は飛び起きてあたしに恨めしそうな視線を向ける。
「毎朝やめてよ。心臓が止まっちまうよ。私は朝は苦手なんだ。
それに、男はいろいろ事情があるから…布団を剥がさないでくれって何度も言ってるだろ。」
決まり悪そうに布団戻ろうとする総司の腕をつかみ、ひねり上げる。
「男の事情とやらも承知してるし、あたしは気にしないってば。嫌だったら、毎朝なんでそんなに寝起き悪いの!早く起きて!」
「いだだだ、わかったって。冗談!」
あたしがこちらに来てから早10ヶ月。
年が明けて季節は春になり、文久4年は二カ月足らずでつい先日、元治元年になった。
あたしは21になった。
この時代では年が明けると年齢が一個増える。
おじいちゃんが数え年って言ってたけど、あたしは誕生日が4月なので、なんだか数カ月分早く年をとってしまった。
総司との間にあった気まずさは、斎藤さんから告白された夜に私が大泣きしたことで氷解し、あたしたちは仲良しの兄弟か、喧嘩仲間みたいに毎日こんなやり取りを繰り広げている。
斎藤さんは表面上は何も変わらない。
あの出来事は夢だったんじゃないかっていうくらいいつも通りそっけなくて無口で、そこにはいつもの斎藤さんがいた。
分かっている。
ただ総司も、斎藤さんもあたしに気を使っていてくれて、あたしはそれに甘えているだけだということは。
あたしたちは毎日朝稽古をして、あたしは内向きの雑務をこなし、総司や斎藤さんは隊務をこなし、たまに佐之さんたちと飲みに行ったり、山南さんに勉強を教えてもらったり、総司と甘味屋さんに行ったり、近所の子供たちと遊んだり、すべてが穏やかで、ゆったりと時が流れていた。
現代に帰るということを最近あまり思い出さない。
いつの間にかあたしはここで生きることを現実として受け止め始めていた。
ここは夢でも過去でもない。
あたしにとっては、まさに今起きている現の出来事なのだ。
歴史がどう転んで行くのかは今はあまり考えないようにしている。
その時に自分がどうしたいかまだ想像が全くつかないのだ。
前は歴史を自分のせいで壊すのが怖くて、自分が当事者になりたくなかった。
でも、今もし目の前で大事な人が危険に晒されていたら、それがたとえ歴史を変える行為だったとしても見てみないふりなんて出来ない。
あたし自身の恋も今はなりを潜めている。
むろん土方さんを見たり、話したりするとドキドキしてしまうのはまだ変わらないし、時々、鈍痛がはしるのだけれど。
でも、こんな風に触れても穏やかにだんだん風化していけばいいと思う。
そうしてああ、あたしこんな恋してたんだなあ、と笑いながら話せるようになれたらいい。
*
朝稽古と朝食を終えて後片付けをしていると、土方さんから声をかけられた。
なんでもないように装うけれど、やっぱりドキドキするな。
「水瀬、ちょっと後で、副長室に来い。」
「はい。かしこまりました。」
何なんだろう?
副長室の前に来ると、声をかける。
「水瀬です。失礼します。」
「はいれ。」
副長室に入ると、近藤先生と土方さんが火鉢を囲んで座っていた。
この二人は幼馴染なんだと言うけれど、
こんな風に仲良く寄り添っている姿をみるとそれも納得だ。
「まあ、座れ。」
「はい。」
あたしは居住まいを正して下座に正座して二人に向き直った。
「おまえを呼んだのは新しい任務を命ずるためだ。」
土方さんはキセルを吸いながら言った。
「今まで、小姓になって内向きの雑用をやらせていたが、今回の任務はおまえが適任だから、任せたい。その任務は密偵だ。」
眉間には深くしわが刻まれていて、目は鋭さが増している。
芹沢先生が亡くなってから土方さんはずっとこんな感じだ。
「密偵?」
「ああ、近頃長州の奴らの動きがなりを潜めている。これは何か企んでいる証拠だからな、奴らがよく出入りする島原の置屋に張り込んで探ってもらいたい。」
「トシ、本当に水瀬君に頼むのか。女子にそんな危険な。」
近藤先生がまだ決めかねているように言った。
「女だからいいんだ。島原の置屋まではさすがの山崎でも限界があるからな。
遊女姿で張り込んで、必要があれば、どんな手遣っても構わないから、情報を得ろ。」
”どんな手を使っても”
それはたぶん女にしかできないことなんだろう。
つまり色仕掛けでもその先までも、必要なら何でもやってこいと。
土方さんの口からそれを言われると、少し胸が痛い。、
でも土方さんにとって新撰組はすべて。
新撰組を盛りたて、近藤先生と共に熱い志のために走り抜くことが土方さんの誠だから。
誠とはすなわち志。
自分より、命よりも、大切なモノだから。
だからあたしもここへ来た時決めたように、自分のできることを精一杯するんだ。
自分が正しいと思うことを全力で信じ、尽くすと決めた。
それにあたしにしかできないことだもの。
だからやりたい。やってみたい。
この任務を。
「トシ!」
近藤先生が眉をひそめて言う。
優しい人。
あたしのことを慮って言ってくれてるんだ。
人情家で熱血漢の近藤先生らしい。
「こいつは女だが、新撰組に居る以上、任務に合った適任を選ぶ。
ここはこいつを使うのが妥当だ。当然だろう。」
「だが、「構いません。」」
あたしは二人のやり取りをさえぎって言った。
「やります。」
「水瀬君、」
「私でなければできないことなのでしょう?だったらやらせてください。」
「危険だぞ。」
「もとより承知の上です。」
「近藤さん、これは水瀬が隊士として成長する時だ。これで死ぬなら、こいつの武運がなかっただけの話。」
土方さんは淡々と、けれど少し口の端をあげて皮肉っぽく笑った。
「うむ。だが、水瀬君、重々身の安全には気をつけるんだぞ。」
近藤先生はしぶしぶと言った表情で頷いて、あたしの身を案じてくれた。
まるでお父さんみたいだと思う。
やって見せる。
あたしにしかできないことをやるんだ。
あたしがここで動くことで、歴史が変わるのかもしれない。
でもあたしはあたしでできることをするしかないのだと思う。