第四章 15.片恋、それぞれの想い:斎藤一、沖田総司
未熟者だ。
決して言うまいと決めていたのに結局水瀬に伝えてあのざまだ。
水瀬は相当驚いたような顔をしていた。実際俺が好いているのが自分などとは思いもしなかったのだろう。あの小物屋であのかんざしを選んだのは水瀬に一番似合うと思ったからだ。
派手さはないが精巧な作りで、涼しげな水瀬の顔立ちを可憐にみせるだろう。
それを選んだとき、水瀬の顔がパッと輝き、それを見たときああ、俺が見たかったのはこの笑顔だ、そう思った。
最近、芹沢が死ぬ(あれらは副長や沖田さんの暗殺なのだが)少し前から水瀬の様子はおかしかった。傍目から気付きにくいが、目を腫らして朝食の支度をしている日が何度もあった。芹沢が死んだからという理由だけではなさそうだ。
水瀬の、さほど大きくはないが形の良い切れ長の瞳、通った鼻筋、ふっくらとした唇、驚くほど極めの細かい柔らかそうな白い肌、そのどれもが、ドキリとするほど艶やかに見え、俺はそのたびに冷静ではいられない。どこにいても目で追ってしまい、そんな未熟な自分にいら立ちさえ覚える。
ただ水瀬は微塵も俺の気持ちには気付いてはおらず、それが無性に心をささくれ立たせた。
こいつは存外鈍いのやもしれぬ。
どんなひと?
お前だ。
その場でそう答えてしまいたかった。
想いを伝えて、そののち俺は、何をするつもりだったのだろう。
水瀬は微塵も俺のことを想ってはいないだろうことは分かりきっていることなのに。
水瀬がここに隊士としていることを決めた以上、そんな気持ちは迷惑極まりないだろうに。
なんと愚かなことをしたのだ。この俺は。どれほど未熟者なんだ。
けれども今はまだ想いを断ち切れぬ。
水瀬、お前の心を占めているのは一体何なのだ?
秋の夜は長い。
今夜は眠れそうにない。
*
まことは気付いていると思う。
私がまことを好いていることを。
そして土方さんには言っていないけれど、芹沢先生を暗殺したのが私たちだということにもたぶん気づいている。何故だかはわからないけど。
なんであの宴の夜、あんな風に言ってしまったのだろう。
あんなことを言わなければ、私たちはずっと兄弟みたいに仲良くしていられたのに。
危うい薄氷の上の均衡を崩してしまった。
一度起こってしまったことはもう元には戻らない。
私達はもうこんな風にギクシャクするしかないんだろうか。
前みたいに冗談を言い合ったり笑ったりすることはもう二度とできないのだろうか。
衝立の向こうにまことがいる。でも私たちの間には沈黙の帷しか無くて、まことの姿は遠かった。
「…まこと?ちょっとそっちに行ってもいい?」
「…え?あ、ごめん何?聞いてなかった。」
ゴソゴソ物音がして驚いたような声が聞こえた。
「あ、うん。そっちに行っていい?って。」
「ごめん、ぼんやりしてた。…どうぞ。散らかってるけど。」
私は衝立を越えていくと畳んだ布団の上には風呂敷が広げられていて、中には紺色の着物と白い帯やら赤い帯締めやら女性ものの着物が入っていた。
まことの持ち物だろうか。こんなものを持っているなんて知らなかった。
「こんな着物持ってたの?」
「お梅さんがね…知り合いの人に託して…あたしに遺してくれたの。」
「へぇ、お梅さんって芹沢先生の妾さんでしょう?
まことその人とそんなに仲良かったんだね。」
「ううん。仲いいというほどじゃないよ。
ただあたしたちはすごく通じるころがあって、気にかけていてくれたんだと思う。
もっと仲良くなれていたら、って思う。死んでから気づいても遅いんだけど。」
「それで着物をくれたんだ。きっとまことのこと身内みたいに想ってたんだろうね。」
「身内?」
「着物を遺すっていうのは、母親から娘に…娘から孫に…って自分の家族や身内、すごく近しいと思う人にすることでしょう?
だからお梅さんもそんな風に想ったと思うよ。」
私はお梅さんの最期の姿がふと脳裏に浮かんだ。
”あの子を頼む”そう言って芹沢先生の後を追ったあの人はきっとまことのことを本当に大切に想っていたんだろう。
私はその人の命を奪ったんだ。
私は武士だ。
主君の命令の前には私心など持たない。
だから芹沢先生を斬ったことは後悔などない。
でも自分の心を殺す、それはひどく孤独で、時に心が引き裂かれそうになるのを感じる。
「お梅さん、あたしのこと、そんな風に思っていてくれたんだ。」
「…まことにその着物、すごく似合うと思うよ。」
私は心の闇を打ち消すように言った。
「お宮さん、あ、お梅さんの知り合いなんだけど、その人にもそう言ってもらえて嬉しかった。」
まことは伏し目がちに小さく花が咲いたように微笑んだ。
そんな顔をするとどんな格好をしていても、どんなに髪が短くても可憐な一人の女性にしか見えなくて、私は自分でもおかしくなるくらい動揺した。
なんなんだ、この衝動は…!
未熟者!
私は平常心ではいられなくてまことからそっと目を離すと文机の上の銀細工のかんざしが目に入った。銀の透かし彫りが施された本体から細い同じように銀の板が鎖状に何本も出ていて、髪に挿せば揺れて涼やかな音を響かせる様が想像できた。
きっと凛としたまことの美しさをぐっと引き立てることだろう。
「これもお梅さんからもらったの?」
私は場を繋ぐためにそのかんざしを指差して言った。
「それは…その…斎藤さんから貰ったの。」
「斎藤さん?」
嫌な予感がする。口の中がざらつくような。
「あ…、今日買い物に付き合ったんだけど、そのお礼に貰ったの。」
まことは嘘が下手だ。
…斎藤さんがきっと想いを伝えるために渡したものなのだろう。
斎藤さん、まことのことよく見ているんですね。
女髪に結いあげて、これを挿したらハッと目の覚めるような涼やかな美人になるだろう。
まるで完成された一枚の絵のように。
近頃まことが妙に女子に見えてしまうのは、私が変わったからなのだろうか。
それともまことが変わったからなのだろうか。
斎藤さんが想いを伝えるとは思わなかった。
そこまで想っているとは思わなかった。
私はバツの悪い気分になる。
斎藤さんの行動はどこまでも男らしいのに比べ自分はどうだ?
ただぐだぐだと守りたいはずのまことを傷つけて。
「まこと、斎藤さんに好きって言われたんでしょう?」
「な…!」
「まことは嘘が下手だから。」
ほんとに分かりやすい。
顔を真っ赤にして、こんなの肯定したと同じだよ。
「でも…あたしは…応えられないの。誰も好きにならないって決めてるから。」
まことは目を伏せて言った。
「それは、新撰組に隊士としているため?」
「…うん。」
「…土方さんのことはいいの?」
「…!」
「好きでしょう?」
こんなこと聞いてどうする?
こんな風に逃げ道のないように追い詰めて、私はどうしたいんだ。
まことは誰のものでもない。
なのに独占欲が、嫉妬が、猜疑心が止められない。
己の心を支配する。
ちがう!こんなことが言いたいのではない!
この人には笑っていて欲しいのに。
「この前私が言ったことなら気にしなくていいんだ。もしまことが誰かと恋仲になるなら、屯所の傍に別宅に住まうことだってできるんだから。だから…」
なんて自分は臆病で愚かなんだ。
そんなことしか言えない自分が情けない。
不甲斐なくて苦しい。
自分の気持ちを伝えようとは思わない。
だって、まことは土方さんのことが好きだって気付いてしまったから。
絶対に自分に振り向かない人に想いを伝えるなんてできるはずがない。
「…総司は、世の中に結ばれてはいけない恋ってあると思う?」
まことは斎藤さんかんざしをくるくるいじりながら、私の方を横目で見ながら唐突に言った。
私は少し面食らいながらも、答える。
「不義密通とか、血縁とか?
倫理的にいけなくても、絶対に結ばれてはいけないなんていないと思うけどな。」
「…あたしはね、結ばれてはいけない恋ってあると思う。
その人との恋が叶ったら、自分の予想もつかないくらいのたくさんの人の生死にさえ影響を与えてしまう。まるで歴史を根本から変えてしまうような…。」
まことは静かに笑ってたけれど、それは同時に全身で泣いているようにも見えた。
どうもまことの言っていることはよくわからない。
不義密通や血縁とかそういう倫理的なことではどうやらなさそうではあるものの、私の想像では思いも付かないような次元で、話していて…
それはひどく儚げで苦しそうだった。
私は時折分からなくなる。
この水瀬真実という人間が。
女子なのに、女子らしくなく、
なのに誰よりも私の心を乱し、周りの人を惹きつけてやまない。
まことの目が潤んでいるのを見てしまい、私は思わずまことの手をとって自分の胸の中に引きよせ、背中に手をまわした。小さな手も、華奢な肩も、その柔らかな体を抱きよせていると愛おしさと共に鈍痛が胸の奥にじわじわ広がり、つんと鼻の奥が痛くなり、不覚にも私のほうが涙ぐみそうになった。
一瞬まことの肩が震えているのを感じて体を離そうとしたのだけど、まことが泣いているのを感じて背中を撫でた。
「ごめん…、本当に、ごめんなさい…」
まことは声を震わせて、嗚咽をこらえながら謝り続けた。
まことは苦しんでいる、ただ守りたくて、泣かないでほしくて私はずっと背中をさすり続けた。
「総司。ありがと、慰めてくれて。
ごめんね。着物汚しちゃった。」
そのままどれくらい時間がたったのだろう。
まことは鼻をすすりながら、私の胸を手で押しやって私のほうをしっかり見据えた。
泣きはらしたその瞳にもう、揺らぎや弱さはない。
凛とした一条の光が宿っていた。
「あたし、土方さんが好きだよ。でも、この恋は結ばれてはいけない恋だから、自分の気持ちを伝えることはしない。まだ時間はかかるかもしれないけど、いつかこの恋をしてよかったって思えるように、自分に胸を張れるような恋にする。」
まことは静かな、沁みいるような静謐なほほ笑みを浮かべた。
どこまでも清らかで、温かくて、でもせつなくて、
まるで穏やかな秋の日だまりの黄金色の光の中のような、何かを悟ったような笑顔だった。
その笑顔を見たとき、
私の心の中にあるドロドロした嫉妬や独占欲といった醜いモノが一瞬にして洗い流されたような気がした。
ああ、私はこの笑顔が見たいんだ。
だから、何があってもきっとまことを見守ろう。
今はまだ完全に想いきることはできないし、強がりだけれど、
でも、この子の幸せを守ろう。
それを私の恋のあり方にしよう。
わたしも自分の恋に胸を張れるようにするんだ。
武士として、一人の男としてこの誠を貫こう。
秋の夜は長い。
そのことに感謝した。
きっとこんな風にまことに向き合えたのはこんな穏やかな夜だからだとおもった。