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虹に届くまで  作者: 爽風
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第一章 3.2010年京都:桐生家

あたしたちがおじいちゃんちに着いた時には既に日が傾きかけていた。

ここは母方のおじいちゃんとおばあちゃんが住んでいる。

平屋の築50年の純日本家屋。


「よおきたなあ。誠一郎君」


ちなみに誠一郎はお父さんの名前。おじいちゃんはにこにこしてお父さんを出迎えている。

おじいちゃん、桐生源次郎きりゅうげんじろうは、居合の達人で、その世界では知らぬものはいないと言われているほどの重鎮なのだ。

もちろん剣道も鬼のように強い。

ちなみに鬼のようにとは比喩でもなんでもなくて、普段はニコニコした白髪のご老人なのに、道場に入った瞬間に二重人格かと思わせる変貌を遂げるのだ。


「よおきはったなあ。東京からやと遠かったやろ。はよあがり。」


おばあちゃん桐生きよは優しい優しい笑顔をあたしたちに向けてくれる。

それは日向の縁側みたいであったかくて幸せな気分になる笑顔だった。

おばあちゃんとお母さんも似ていて、あたしとお母さんは瓜二つ、ってことは将来あたしはおばあちゃんみたいに可愛いおばあちゃんになれるのかな。

だったらなんか嬉しいと思う。

だってこんなおひさまみたいにほっこりした笑顔を人に向けられる人って素敵だもの。


「まこちゃんおおきゅうなって別嬪さんになったなあ。ほんまに若い時の有子にそっくりや。」


あたしの頬をしわしわの手で挟んでニコニコ笑うおばあちゃん。

「べっぴんさん」だなんて完全に身内の欲目だけど、すごくくすぐったい気分だ。

なによりお母さんにそっくりはあたしにとってなによりうれしい。

あたしはお母さんのことをおぼろげにしか覚えていないから、あたしの中にお母さんがいてくれる気がしてほっとするから。


あたしたちは荷物を客間に置き、一通り挨拶とつー兄の結婚報告を終えて居間でくつろいでいると、おじいちゃんに声をかけられた。


「じゃあ4人とも、道着に着替えて、一人ずつ道場に来んさい。」


((((きた))))


そう、これはおじいちゃんちに来た時の恒例行事。

もともとあたしたちが剣道や、合気道、柔道なんかの武道を習いだしたのはおじいちゃんの影響だ。

おじいちゃんちに行くたびに手合わせをしてもらうのが恒例になっていた。

手合わせというのはもちろん控え目な言い方で、実際はおじいちゃんに一方的に、あるいは気を抜けば一瞬でボコられるわだけど、それでも手合わせするたびにあたしたちの成長を感じられるらしい。


「手合わせをすればどんな生き方をしてきたのか大体分かる」なんて正直信じられないけど、でもおじいちゃんと木刀を手に向かい合うとすべてを見透かされているようなそんな気持ちになるからあながち大げさでもないのかもしれない。


なぜかあたしは兄弟の中でも、剣道が性に合っていたのか最近ではおじいちゃんと打ち合えるまでになっていた。

もちろんまだおじいちゃんから一本をとったことはないのだけれど。



桐生道場


古びて黒くなった木の板に墨でかなりの達筆で書かれている。

これはおじいちゃんの師匠である先代の師範が書いたものらしい。


道場の横には枝垂れ桜の大木があって、暗闇に満開の桜がぼんやりと白く浮かび上がっている。

地面に向かって滝の流れのように垂れる枝が夜風に揺れて、花弁が雪のように舞う。

その様子は儚くて、幻想的でこの世のものとも思えぬ妖しい美しさがあった。


道場の敷居をまたぎ、一礼をして道場に入る。

板張りの床はひんやりとしていて、はだしの足には少し冷たい。

あたしは深呼吸をして道場に端座した。

道場に入ると空気が変わる。

皮膚に突き刺さるような清冽な空気は、私の心を静かに落ち着かせる。

どこまでも清浄な空気があたりに満ちていて、その空気に自分が洗われていくような気分になる。


防具をつけ木刀を手にすると一礼しておじいちゃんに向き合う。


剣を持つおじいちゃんは一分の隙もなく、向き合っているだけで鳥肌が立つ。

それは冴え凍る月。

一分の隙もないその構えに鳥肌がたつ。

揺らがないその姿に畏怖を覚え、しりごみしそうしなるほどだ。


ゆらいだ心のままでは一瞬でやられる。

先を急ぐな。

待て。

一瞬の隙を見逃すな。

心を統一して、動揺を悟られるな。


おじいちゃんが動く。


速っ!


その速さは、80近い老人とは思えない。

あたしはその剣をかろうじて受け、流しながらおじいちゃんの懐に飛び込む。

おじいちゃんはそれを予測して、難なくかわし、あたしの肩に剣を振り下ろす。

それをギリギリでうちかえし、後ろに下がり間合いを取る。


そんな攻防を、攻防と言うより、あたしが一方的に挑んでいるのだが、どれだけ続けただろう、あたしはいい加減息が上がっているが、おじいちゃんは少しの乱れもない。

手のしびれも、防具の息苦しさも、ただこの冴え凍る月に触れて一瞬にして何も感じなくなる。

ただ、あるのは、己の息遣いと、木刀の重みのみ。

それすらもこのどこまでも清冽な空気に溶け合って、自分を感じなくなる。

ただ剣と己が一体になり、この神聖な夜の空気に溶けゆく。

おじいちゃんに木刀を振り下ろすたびに、おじいちゃんがそれを受け止めるたびに、ただ心だけが溶け出して、剥がれ落ち、あたしの心があらわになっていく。

時間の感覚さえ無くなり、永遠に続くような錯覚さえ覚える。

ただ木刀がぶつかる音のみが響くこの空間は、言葉よりもなお雄弁にあたしの心を語り、流れ出していく。


おじいちゃん、あたしはね、今の生活に何の不満もないよ。

大学に通い、友達とおしゃべりして、勉強して、遊んで…

道場では剣道や合気道や柔道をして、

家ではお父さんたちに怒りながら、毎日家事をして、

もしかしたらこの先恋とかするのかもしれない、

今は全然想像できないけどね。

でも、この満たされ無さは何なのかな。

何かが足りないの。

心の一部が足りないようなそんな空虚感。

欠けたものを取り戻したくて、剣道に必死に打ち込んで、でも焦燥は一層強まるばっかりなんだよ。

あたしはすごく焦ってる。


一瞬だった。

目に汗が入り、瞬きをしたその刹那。


「隙あり!」


おじいちゃんの木刀が胴に入り、立ち合いの終わりを告げたことを知った。

一瞬の衝撃のあとには鈍い痛みがジリジリと広がって行く。

防具をつけているとはいえこれはかなり痛い。

明日には綺麗に青あざになっていることだろう。


「だいぶ腕上げたなあ。」


防具をとりながらおじいちゃんが言う。

手合わせをあとはもうニコニコのおじいちゃんだ。


「そうかな。嬉しい。

道場でちびっこに教えたりしてるしね。」


あたしも防具を取りながらおじいちゃんに照れながら返す。上気した頰に冷んやりとした空気が気持ちいい。




「だが、まだまだや。

心が不安定やなあ。心技体一体になって初めて剣道はその意味をもつんや。いまの真実は技におぼれとる。なんにあせってんのや。焦りはなあんもいいことあらへんで。」


自分の焦燥を言い当てられたことであたしは少しムキになって言い返した。


「わかんないよ。それが分かってたら苦労しないって。

今が不満なわけじゃない、でも満たされないみたいな。」


「若さゆえやなあ。

己に悩むんは若いがゆえやで。

でもこれは人として成長する助走期間みたいなものなんやで

悩んで悩んで悩みぬきや。

そんとき真実が大きくなってくれたらうれしいわ。

ゆっくり考えたらええ。いろんなことを。

自分の心も、先のことも、

ああ、男のこともな。

いろんな人に逢って、惑って、回り道、道草、いっぱいして、いろんなこと経験したらええわ。

人生は悩んだもん勝ちやで。まあ気張りや。」


「なにそれ、てか男って生々しすぎだって。

ちょっと外歩いてくるから、おばあちゃんに言っといて。」


くすくす笑いながらおじいちゃんを見る。

おじいちゃんは剣を握った時の険しさは微塵もなく、ただ静かに笑っていた。


つっかけを履いて、道場を出ると、外は激しい雨が降っていた。

立ち合いでほてった体に雨が降りしきり、急激に熱を冷ましていくの気持ちいい。

あたしは濡れるのも構わず、桐生家の敷地を出ると、近所の壬生寺のほうへ歩いて行った。

紺色の道着はみるみるうちに闇色に変わっていく。


やっぱおじいちゃん強いなあ。

まだまだ全然かなわない。

でも、やっぱり剣道って好き。

完全に集中しきった時のあの体を感じなくなるあの感じがすごくいい。

ただ自分の余計な部分が全部剥がれ落ちて、何者でもない己になる感じが。

いくら女らしくないなんて言われても、やっぱりあたし、剣道が好きだわ。


体の中にはまだ熱いものが駆け巡っているようで、肌にあたる雨を蒸発させ、自分から湯気が出てるんじゃないかとさえ思う。

疲労感と体の中の熱いものが織り火のようにくすぶっている感じが心地よい。


悩んだらいいんだね、お母さん。

あたしを見守っててね。


あたしはチェーンに通したお母さんの形見の結婚指輪をぎゅっと握りしめた。

お母さんがいなくなってからのあたしのお守りだ。

顔もおぼろげにしか知らないお母さんの痕跡。

大丈夫。

あたしは。

きっと。


壬生寺の桜にも雨は容赦なくたたきつけていて、花びらを次から次へと散らしていく。


あーあ桜散っちゃうじゃん。

なんだか損した気分。


木の下に歩み寄って何気なく花を見上げたその刹那。



一瞬あたりに閃光が走り


次の瞬間には


すさまじい轟音があたりに響いた。


やばい!!雷だ!


そう思いあたしは頭を手で守りしゃがみこんだ。


その瞬間体中に激しい衝撃が走り、

何も分からなくなった。



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