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虹に届くまで  作者: 爽風
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第四章 12.芹沢鴨暗殺:土方歳三

雨が降っている。

絹糸のような雨が、音もなくただ闇に溶けるように、永遠にも似た静寂の中、降りしきっていた。


ふと震えが全身を走る。

これは武者震いなのだと己に言い聞かせた。


ついにやるのか…。

芹沢鴨を暗殺する。

つい先日、近藤と自分が呼ばれ、会津の肥後守様から密命を受けた時には、ついに来るべくして来た、そんな風にも思ったが、曲がりなりにも筆頭局長として立ってきた者を暗殺することに一抹の後ろめたさを感じている自分がいた。

今更何言ってやがる。

新見を切腹に追い込み、これから芹沢を殺すのに、正義感ぶってんじゃねえ。

迷うな!

迷えばこれは失敗する。

すなわち死だ。

むろん暗殺要員として選んだ総司、山南さん、佐之、源さんも。

皆を引き込むのだ。

俺が動揺してどうする!

鬼になれ!



これは踏み絵だ。

会津の御偉方が自分たちを幕臣としてふさわしいのか、百姓が武士になれるのか

、それを試そうとして踏み絵を踏ませようとしているのだ。

やってやろうじゃねえか。

上等だ!

踏んでやらあ。


武士になる


この雲をつかむような、虹に届くような途方もない夢のため、

俺と勝ちゃんは血反吐を吐く思いでここまで来たのだ。

あと一歩、あと一歩でかなうかもしれない夢

そのためなら、鬼にでも修羅にでもなってやる。


ここより先は修羅の道。

進めば二度とは戻れぬ。

新見を切腹させ、芹沢を殺す。

行ってやろうじゃねえか。

おもしれえ。

甘さや優しさなんざ犬にくれちまえ!!





文久3年9月18日

昨日から降り続いている雨は今日未明になってさらに強まった。

島原・角屋

「珍しいのう。土方が酒席におるとは。」

「先日の新撰組の拝命は芹沢先生の働きあってのこと。

その祝いの席に同席させていただけるとは恐縮にござる。」

「何とも殊勝な態度じゃ。この雨が明日には雪に変わる。」

どっと笑いが生まれ、少し安堵する。

俺はいつもどおりにふるまえているか?

俺は口に笑みを張り付けたまま杯を傾ける。

苦さと甘さの混じった独特の酒の味に内心舌打ちをしながらそれを流し込む。


意外に思われることが多いが、俺は酒が苦手だ。

普段からほとんど飲まないし、飲めねえ。

だが、あの日、前川邸で行われた祝賀会では柄にもなく杯を重ねてしまい、廊下で酔いを覚まそうとして眠ってしまった。


水瀬に起こされるまで、全く気付かなかったが、まったくざまあねえな。

あの時、俺は懐かしい夢を見ていた。

まだ俺が多摩の田舎にいたときの許婚でお琴と言う、きりりとした涼しげな器量よしの女の夢だ。

上洛するときに別れてきたが、あいつは穏やかでこちらまで柔らかな気分にさせる女だった。

この血のにおいに満ちた京や武士の道をあいつに見せるのは耐えられねえ。

武士になる、この果てしない夢をかなえるための険しい道にお琴という女を巻き込みたくなかった。

そしてまた、この修羅の道に甘さや柔さを持ち込むわけには行かなかった。

きっと土壇場で俺は弱くなってしまうだろう。

だからお琴と共に在ることはできねえ、そう思った。

お琴は沁みいるようなほほ笑みをたたえ「夢をかなえられるのですね。どうぞご無事で。」そう言って俺を送りだした。

ただ、風のうわさにあいつは江戸の商家に嫁いだことがしばらくたって知れた。

胸にかすかな寂寥感がよぎるものの、お琴はきっと嫁ぎ先で幸せに暮らしているだろう、そう思うと俺も幸せな気分になれる。

あれは恋か。

そう人に聞かれれば俺は「そんなんじゃねえ。親同士の決めた許婚だ」と全力で否定するだろう。

けれどあの穏やかで、どこまでも柔らかな気持ちは照れくさくはあるものの、不快ではなくて、あの気持ちを人は恋と呼ぶのやもしれぬ。

ただあんな気持ちを持つことはもう二度とできないだろうと漠然と感じていた。


俺はもう戻れない。

あの頃には。

地獄の釜があいてやがる。

さあ、行こうじゃねえか、修羅の道へ。



島原での酒宴は五つ半にいったんお開きにさせ、

芹沢、平山、平間を八木邸に帰らせた。

この時点で、芹沢はかなり正体を失っていたのだが、用心に越したことはない。

八木邸でも酒宴の続きと言うことで、芹沢にしこたま酒を飲ませた。

完全に千鳥足になって、妾の女と一緒に屋敷の自室に消えていった。



夜九つ。

土砂降りの雨はやむことを知らずただ暗闇に雨音だけが響いていた。

「源さん、山南さん、佐之は、平山、平間を。俺と総司は芹沢をやる。やったらすぐに屋敷を出ろ。

八木邸の人間にみられんじゃねえぞ。」

俺は緊張でかすれそうになり、咳払いをして指示をした。

「では。」

俺たちは季節外れの土砂降りの雨の中闇にまぎれて八木邸に侵入した。



黒の袴も着物も雨を瞬く間に吸い、ぐっしょり濡れていて、歩くたびに不快に体にまとわりつく。

芹沢の居室である離れの障子に手をかけ、総司と目くばせして一気に障子を開け放つ。



泥酔して眠りこけてばかりいるであろうとふんでいたが、なんと、芹沢は暗闇でもわかるくらい不敵な笑みを浮かべて布団の上に端座していた。

「待っておった。」

ちっ、予想外だ。

芹沢は北辰一刀流の使い手。

真剣を持たせれば、総司でも危ないかもしれねえ。

だが、やるしかない。

もう後戻りはできぬ。


芹沢が動いた。

と思った瞬間目の前に奴の刃があった。

俺は反射的に刀を払い、奴の胴を狙って突く。

総司も目にもとまらぬ速さで足を払おうとした。

芹沢はあの恰幅の良い体のどこにそんな俊敏性を秘めているのかと思われるほど、身のこなしが早く、無駄がなかった。

芹沢は、俺たちの剣を受けながら隣の部屋へ移動すると、不意に笑った。


「そんなに動揺していては間合いがずれる。

ましてこの闇。目で見るな。感じろ。その程度では俺は斬れん」

「!」


なんてやつ。

これが芹沢鴨と言う男か。

と、その時、芹沢が暗闇の中の何かに足を取られ不意に体勢を崩した。

その一瞬の隙に総司の剣が真一文字に闇を斬り裂いた。


ザシュ


生温かいモノが飛び散り頬や腕を濡らし、芹沢の体躯が闇の中で揺らいだ気配を感じていた。

やったのか…


「…ひじか…た」

「!」

「しん、せんぐみと、み…なせの、こと…たの…むぞ。

鬼に…なれ。しん、せんぐみの…鬼に…なれ…。」


芹沢はそれきり動かなくなった。

この人は知っていたのだ。

自分が俺たちに殺されることを。

そのうえで、この結末を選んだのだ。


畜生!

最期までなんて野郎だ!


カタン


物音がして思わず刀を構えてそちらを向くと、芹沢の妾、お梅とか言ったか、その女が呆然とした様子で立っていた。

そして芹沢の体に近づき膝をついて愛おしそうにその体をさすった。

「死んだんだね。」

「…」

「馬鹿な人。」

こんな血のにおいに満ちた修羅場に似つかわしくないような凄艶な笑みを浮かべて思わず鳥肌が立った。

とその刹那、刀を引く暇もなく、女は抜き身を素手でつかみそのままそれを喉に突き刺した。

「!!」

女は刃をためらいもなく引きぬくと、血が吹き出し、むせかえるような鉄錆のにおいが部屋に充満し、それは闇に解けた。

「…あんたたち…あの、子の…こと…頼むよ…。

どうか…しあわ…せ…に…。」

声を出すたびに女の喉からひゅうひゅうと隙間風のような音がでた。

「…承知。」

俺が絞り出すようにかすれた声を出すと…

女はふうと一息吐いて、小さくほほ笑んだ。

月も星もないこんな暗闇なのに、わかった。

女は少女のようなあどけないほほ笑みを浮かべたと。

そして女の喉から風音は聞こえなくなった。


俺と総司は何も言わず八木邸を後にした。

ただこの土砂降りの雨が俺たちについた血を洗い落としてくれる。

でもどんなに雨に打たれても、俺の手は血で真っ赤に染まっているような錯覚を覚えた。



芹沢の暗殺は成功した。


暗闇にきらめく白刃。

刃を合わせる音。

その中で芹沢鴨は死んだ。享年34歳。


雨はやまない。

暗闇にふる季節外れのこの土砂降り雨はまるで弔い雨のようだと俺は感じていた。

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