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虹に届くまで  作者: 爽風
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第四章 4.梅の香

島原の一件からふた月あまり、あたしの髪は少し伸びて、だけどやっぱりまだ結いあげるには十分ではなかった。

もう季節は夏で、少し動いただけで汗ばむようなそんな季節になっていた。


買い出しの帰りに八木邸の前を通りかかるときれいな女の人とすれ違った。

少しつり目気味で大きな瞳はキリリとしていて勝ち気な印象を与える。真っ赤な口紅をさした口元はぞくりとするほど艶やかで、深紅の大輪のバラみたいなひとだと思った。


きれいなひと。


あたしはぺこりと会釈をするとその場を通りすぎようとしたのだけれど、すれ違いざまにその人に話しかけられた。


「あんた、芹沢先生に啖呵きってみせた子だろう?噂どおりバッサリいったんだねぇ。」

その人は意地悪そうに、けれどさばさばしていて笑って言った。

あたしの髪の毛の短さは目立つから知っててもおかしくはないのだけれど、こんな風に話しかけられたのは初めてだ。


「っと、あなたのお名前は?」

「菱屋のお梅さ。芹沢先生とはちょいとした知り合いでね。」


何かを含んだような意地悪なくすくす笑いは悔しいくらい艶っぽくて、でもちょっと感じ悪い。


「菱屋のお梅さんが私に何かご用で?」

「そんなに警戒しなくてもとって食やしないさ。それにしてもあんた、先生の言ってた通りいい目してんね。あと2、3年すりゃあいい女になるよ?」


さも面白いとでも言うようにそのセクシーな口元をにいっと歪めて不敵な笑みを浮かべた。


「芹沢先生があたしのことなんか、言ってたんですか?」

「自分に噛みついてくる小生意気なガキがいるってね、でもまっすぐで言葉に嘘がないって。」

「芹沢先生がそんな風に?」


あの人がそんな風にあたしのこと話すなんて意外だ。


「あんたと少し話がしたいんだけどいいかい?」

「お話ですか?あたしあんまり時間が無いんです。」

「小半時もとらせやしないさ、女同士ちょいと話したいだけさ。」

「…じゃあ…少しだけ。」


あんまり八木邸に近づくなって言われてるけど女のひとだし、少しなら大丈夫だろう。



お梅さんはあたしの手をひいて八木邸に連れて行った。

お梅さんは六畳くらいの部屋にあたしを案内すると、お茶をもってくると言って部屋を後にした。


なんだか落ち着かずに部屋をキョロキョロ見回していると、お梅さんがお茶をもって部屋にもどってきた。湯飲みの載ったお盆を畳の上に置いたその瞬間だった。


急に体が反転したと思うと、呼吸ができなくなる。

お梅さんがあたしに馬乗りになって首をものすごい力で絞め上げたのだ。


!!

何?!

苦しいっ!


あたしはとっさのことに何がなんだかわからない。

ただその手をはなそうともがくのだけれど、女のひととは思えない力でぐいぐい締め上げてくる。


「バカだねぇ、隙だらけの甘ちゃんだ、おだてられてのこのこ付いて来るなんて。

芹沢先生もこんな薄汚い小娘の何がそんなに良かったんだろうねえ。」

「っく、んん!」

頭がガンガンいって痛い。苦しくてだんだん視界がぼやけてくる。

「渡さないよ。芹沢先生は。」


知らない!

なんのことよ!


あたしは無我夢中で手足をばたつかせ、偶然つかんだお梅さんの帯を横に思い切り引いた。

ふいのことでこらえきれなかったのか、お梅さんはあたしから離れ畳の上に転がる。


「ごほっごほっ!!」


急に空気が気管にを通ったもんだから涙目になりながら咳き込む。

あたしは喉を押さえながら、呼吸を整えお梅さんを睨み付ける。

相当あたしが暴れたからお梅さんの髪も乱れて、ほつれた髪が藍色に白の絣の柄が入った着物にかかっている。白い手には引っ掻き傷がついていてかすかに血がにじんでいた。

お梅さんはさして動揺することもなく、むしろ開き直ったような尊大な態度で、ほつれた髪を撫で付けていた。


「何、すんのよ!!」


喉が締め付けられたせいで喋るとヒリヒリする。


「芹沢先生が惚れた女がどんな奴なのかと思ってね、そいつを殺してやったときのあの人を見たいと思ったのさ。」

「なにいってんの?!惚れたって意味わかんない!!芹沢先生となんて何かあるわけないでしょ!むしろあげるって言われても要らないから、変な勘繰りで首絞めるってどういう神経してんのよ!」

「あの人は…あんたに惚れてるよ。」


さきほどの激情が嘘みたいに静かに、悲しくもない、ただ事実を言っているのだとでも言うように妙に確信めいて言った。


「なにいって…」

「あんたは普通の女じゃない、度胸も潔さもそこらの男以上だ、

でも何よりまっすぐで嘘がなくて全力であの人にぶつかっていけるから、あの人みたいな不器用な人は落ちるのさ。」


嘘がないなんて、あたしがここにいること自体が嘘で塗り固められてるのに。


「…お梅さんは芹沢先生と、その、恋仲なの?」

「恋仲?そんなんじゃないさ、あたしは菱屋の…女房だからね、

旦那を一番愛してるさ。

あたしは…芹沢を憎んでるよ。」


お梅さんは静かに目を伏せてあきらめたように言った。


憎んでる?

嘘…

だって渡さないって

あんな激しい独占欲好きでないとできないもの。


「渡さないなんて言って殺そうとするくらいだから、あたしが芹沢さんを死ぬほど好きだと思ったかい?」


おかしそうに笑うお梅さんに図星をつかれてあたしは素直に頷く。


「あんた青いね。あたしは世の中で芹沢先生を一番憎んでいるさ。

ただそれでもあたしはあの人から離れられない。

そうしないと生きて行けないからね。だから渡したくないと思ったのさ。」


なんだかよくわからない。


「菱屋のご主人がいちばん好きなのに、芹沢先生のことも好きなの?」

「…心がね、呼んでるのさ。」

「呼んでる?」

「あたしたちはね、欠けた心を埋めあって生きてるから、憎くても離れられないのさ。」

「…うーん。なんか良くわかんないけど。」


でもお梅さんにとっても、芹沢先生にとっても、

お互いに切っても切り離せない存在なんだろうな。

まるで長恨歌のなかの、比翼と連理の約束みたいだ。


「まるで比翼と連理の約束みたい。」

あたしは無意識に呟いていたようだ。

「え?なんだい?」

「長恨歌の中の有名な一説だよ。天にありては比翼の鳥となり、地にありては連理の枝とならん…って。

宋の玄宗皇帝が楊貴妃に来世でも必ず一緒にいようって贈った歌。どちらもかたっぽだけじゃ生きていけないもののたとえだよ。」

「博学だねえ、あんたは。そんな御大層なものじゃあないさ。

あんたも恋をすりゃあ、きっとわかるようになるよ。きれいなばかりじゃない、むしろ裏切ったり駆け引きだったり…生臭くて汚いことばかりさ。

そうさねえ、旦那の一番はあたしじゃないけどあたしはそれでもいいと思ってる。でもそのせいで無理しなきゃいけないことも多くてねえ、虚勢はってんのさ。でも芹沢先生は…あたしのすべてを受け入れてくれる。汚いところも弱いところも、だから離れられないのさ。どんなに憎くてもね。」


だれに言うでもなく、自分に言い聞かせるようにお梅さんは言った。


「あんたに頼みがある。」

「え?」

「本当のあの人を見てあげてほしい。」

「どういう意味?」

「あんたから見てあの人はどう見える?」

「傍若無人だし、暴力的だし、はっきり言って無茶苦茶な人。

でも不器用で孤独な人だと思う。

人と距離を縮めたいのに腫れものみたいに扱われて、見えない壁で固められてて、そのやりきれなさを、暴力とかでしか表現できないでいるみたいにみえる。」


お梅さんは目を伏せて哀しそうに諦めたように笑った。


「だから…あんたに落ちたんだ。あの人は。

そうやってあんたはあの人の脆さを、真実を、見つめ続けてくれればいい。」


意地悪で妖艶で悔しいくらい美人で悪女なんだと思ってた。

人のこと殺そうとするし、意味わかんないし、正直あんまり関わりたくないと。

なのに今目の前にいるお梅さんは、どこまでも一途で、傷だらけの少女のようで、

なぜかすごく泣きたくなった。


「それは、お梅さんがすることだよ。

あたしがすることじゃない。

あたしは理解はできても一緒に分かち合うことはできないもの。」

「あたしじゃあ、一緒に堕ちてくことしかできないのさ。」


お梅さんの言うことは謎かけみたいで、わからないことだらけだ。


「あたしはあたしの信じる道に進むだけだよ。」

「それでいいさ。そのほんの端で、一瞬、芹沢という人間を見てくれればいい。」

「…うん。」

「あんたと話せてよかった。」


お梅さんの笑顔は晴れ晴れとしていて、なのにどこまでも儚げで消えてしまいそうだった。



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