第三章 8.守りたいひと:沖田総司
自分が恋をするなんて考えもしなかった。
水瀬真実という人間に出会うまで。
知れば知るほど彼女は不思議な子で、つかみどころがなくて、これまでのどんな女子とも違う。
ただまっすぐで凛として、純真で、時に驚くほど強靭で、そして眩しいくらいに輝いていた。
毎日同じ部屋で、寝起きして、くだらないことで笑いあって、一緒に剣術の稽古をして…
そしてごく自然に好きだという気待ちを自覚した。
それこそ水が高いところから低いところへ流れ落ちるように、四季が移り変わるように、ごく自然に当り前のように好きだと実感して、そんな感情を何の抵抗もなく自分が持つことに驚きと戸惑いさえ感じた。
恋いなんぞ武士の志の前にはそんなもの邪魔になるだけだと思っていた。
それは2年前の出来事を境に私の中で大きくなっていった。
試衛館で、住み込みで働いていた女中さんが私のことが好きだと告白してきたのだ。
その頃は恋とか、そういうものが全く理解できなくて、剣術を極めることこそが自分の使命だと信じて疑わなかったから、思いを受け止めることはできないと断った。
そして彼女は命を断とうとした。
目の前で喉を短剣で突いたのだ。
幸い命は取り留め、けがが治ると彼女は他家に嫁いでいった。
恋とは何故かようにも人を狂わせ、狂気に走らせるのか。
理解ができず、そして嫌悪した。
私は決してそんな狂気を孕んだ女子になんぞ関わるまい、そして自分も恋なんぞ一生することはないだろう。
そう思ってずっと女子とは関わらずに生きてきたのに。
だからまことが女だと知った時、落胆と拒絶の気持ちがすぐに湧いた。
女子というめんどくさくて、正体の知れぬ不安定な生き物がこの壬生浪士組に入るなんて冗談じゃない、と。
それなのになぜなのだろう。
今は彼女が女だとかそんなことはどうでもよく、ただ水瀬真実という一人の人間が大事で、彼女とともにいる時間が幸せで輝いていて、泣きたくなるくらいに優しい気持ちになれる。
守りたい、ただひとえにそう思う。
一番近い場所で守ることを自分は望んでいる。
なのに最近どこかこの子との間に壁が出来てしまったように感じるのはやはり仕方のないことなのだろうか。
たぶんまことは人を斬るのを初めて見たのだろう。
そのせいで私のことを、浪士組のみんなを怖いと思うのも仕方のないことだと思う。
剣術に優れているとはいえ、やはり女子。
血に濡れ、いつ死ぬともしれないそんな世界に身を置くのは、憚られることだろう。
もしそうならば、ここを抜け、どこか違うところで、幸せに暮らせばよいのだ。
人を斬る痛みも、斬られる恐怖も、何も知らぬまま、ただ安全な場所で幸せに過ごしてくれればいい。
それは当然といえば当然で仕方のないことなのかもしれないけれど、ほんの少しだけ胸が痛んだ。
それは私が彼女にここにいてほしいと望んでいるからであり、とどのつまり彼女のことが好きだからだ。
自分がこの気持ちにはっきりと気付いてしまったのは、つい数日前のことである。
寝ぼけてまことを抱きしめてしまい、目が覚めた時はかなり動揺した。
怪我をしたまことを寝かせて付き添っているうちに自分も寝てしまって、夢を見ていたのだ。
なんだか温かくて幸せな気分で、起きてみたら私はまことを抱きしめていた。
今思って見ても恥ずかしくて申し訳なくて、穴があれば入りたいくらいだ。
佐之さんはそんな私の動揺を見てあえて茶化してくれたのだと思う。
あの人は昔から、どこまでも能天気に見せて、誰よりも情に厚く優しい人だから。
佐之さんが茶化してくれなかったら、まことと向き合えなかったと思う。
柔らかい華奢な体と甘い香りは妙に記憶に残っていて、なんだか落ち着かない。
抱きしめたい、自分が生まれてこのかた感じたことのない
不思議な衝動が生まれ、私を動揺させた。
そして…
私は、水瀬真実を愛おしいと思っている、と気付いた。
あの後結局まことは「友達なんだから全然気にしてない」と笑って許してくれたわけだけど。
”友達”その言葉には正直ちょっと傷ついた。
少なくとも私ほどは、このことに関して何のわだかまりも持っていないということだ。
わだかまりを持ってほしいわけではないのだけれど、私は悔しくてつい、まことが結婚しているかもしれないなどと、話を持ち出してしまった。でももし本当に夫がいて探していたらと思うと胸が締め付けられるように苦しくなった。
私は嫉妬していたんだと思う。
見たこともない存在に。
いるかいないかもわからぬ存在に。
まことは少し困ったように自分は跳ねっ返りだから結婚なんてしてないと思うなんて、笑っていたけど、その表情があまりにもせつなそうなものだからつい言ってしまったのだ。
「もしまことが嫁にいけないのなら自分がもらう」と。
まことは驚いていたようだけれど、すぐに冗談だと受け止めて「ありがとう」と笑いながら言った。
だから私も冗談にするしかなかった。
いつものように、つかみどころのない飄々とした自分になるしかなかった。
少しさみしかったけれどそれで良かったと思う。
私が変に先走って言った言葉で、変なわだかまりを残して困らせたくなかったから。
困らせるくらいなら冗談でいい。
まことが笑ってくれたなら、それでいい。いや、それがいい…
ただ願わくば、まことの一番近い場所で、一緒に笑っていたい、
そう思う。
あのあと長州浪士に会って、不覚にも怪我をしてしまった。
まことを人質に取られたことで刀を置くなんて自分でも馬鹿な選択をしたと思う。
もっとやりようはあったはずなのに。
まことが囚われた、その事実以外は何も見えなくなった。
まことは斬り合いにかわいそうなくらい動揺していて、私がどんなに茶化しても笑わなかった。
その日からずっと見えない壁がある。
言葉をかければ笑って返すものの、
ぼんやりとすることが多くなった。
夜も眠れていないようだ。
でも、私にはどうすることもできない。
私がいくら言葉をかけたところで、まことが自分自身で乗り越えない限り、
根本的な解決にはならないだろうということはわかりきっていたから。
まことはここを出ていくかもしれないな。
漠然とそう思った。
それは寂しいけれど、それで怪我することもなく、幸せに暮らしてくれるのならそれでもいいのかもしれないな。
夕飯の後、まことはなかなか帰ってこなかった。
私と顔を合わせ辛いと思ってるのかな。
早めに布団を敷いてごろりと横になって取り留めもないことを考えていた。
「開けるよ」
まことの声がして障子が開いた。
「ねえ、総司。起きてる?
そっちに行ってもいいかな?」
「起きてるよ。どうぞ。」
私は身体を起こしてまことのほうに体を向けて座った。
まことは衝立を越えてきて、私の布団の横にちょこんと座ると、頭をぺこりと下げて言った。
「総司、あのね、この前のこと、ごめんなさい。」
「なんのこと?」
私はなんのことか、つかめずに首をかしげる。
「総司は逃げろって言ったのにそうしなくて、挙句の果てに怪我させて本当にごめんなさい。」
「それは、もういいよ。わたしにも原因はあるから。」
「それから、ありがとう。」
まことは静かに、けれど染み入るような優しい笑顔で言った。
「え?」
私は何の事だかわからずに聞き返す。
「守ってくれて、本当にありがとう。」
「当然だよ。」
何を言いだすかと思えば。
当たり前のことだ。
まことは女子で、私は武士なのだから。
「ううん、当然じゃない。
あたし総司や土方さんのおかげで今ここに生きて居られるんだもの。」
まことはつきものが落ちたようなすっきりとした顔で言った。
「なにかあったの?」
まことが悩みから抜け出せたのは喜ばしいことの筈なのに、あまりに晴れ晴れとした様子なものだから何かあったのか知りたくなった。
誰がまことにこの笑顔をもたらしたのだろう。
私は自分が小さな嫉妬をしていることに気付いた。
「今日、山南先生に話を聞いてもらったの。
ずっと自分がここにいる意味がわかんなくて、みんなの迷惑にしかなれないことに悩んでた。
でも山南先生がここに居たいと思うことだけで、十分ここにいていい理由になるんだって教えてくれたから。迷惑だって悩んでる暇があるんだったら、自分ができることを、できそうなことを探してすることのほうがずっと大切だって気付いたから、だからあたしは強くなる。ここにいるために。総司にもうあんな怪我させないように覚悟を決めたい。」
凛としていて、覚悟と本気を感じさせるまなざしだった。
山南先生に嫉妬をした自分が恥ずかしくなる程に真っ直ぐとしたものだった。
「…まことは私が怖いと思ってたんじゃないの?」
「怖い?」
まことが形の良い瞳を見開く。
「私たちは人を斬って、時には殺したりしてるんだよ。
人殺し、壬生狼と後ろ指さされることもあるし。」
「正直、目の前で人が斬られて、血が流れて、死んで行くのはすごく怖かった。
なんで平気なのって思ったよ。
でも、だからあたしは今生きていられる。
総司は平気なんじゃなくて、あたしの分まで、人を斬って痛みを請け負って守ってくれてるんだってわかったから、総司を怖いと一瞬でも思った自分が恥ずかしい。」
まことは唇をかんで俯いた。
「まこと…」
私は言葉が続かなかった。
こんな風に自分たちのことを見ていてくれたのか。
世の中の大義のために自分たちは闘っている、そう言い聞かせても、心のどこかで人を斬ることに苦しさを感じ、後ろめたさが私たちの中にはあった。
ただおびえたものが斬られ、命を散らすのだ。
だから人斬りとさげすまれても、揺らぎを見せることは許されなかった。
揺らげば自分が、仲間が死ぬ。
そう言い聞かせて自分を律し、人々に人斬りと、鬼と蔑まれることも撥ね退けてきた。
平気だと思っていた。
でも、ただ一人でも、こんな風に私たちの誠を理解して見ていてくれる、その事実がたまらなくうれしい。
「総司にお願いがあるの。」
まことが顔をあげて真剣な目をして言う。
「何?」
「あたしに真剣の扱いを教えてほしい。」
私は瞠目して驚いた。
「真剣を持つということは、唯の剣術の稽古とは違うよ。
人を斬り、自分もまた斬られるかもしれない、その覚悟をもつことだよ。
そんな中に身を置けるの?」
この華奢な手で剣を振るい、自ら白刃と血の修羅の道に身を投じようというのか。
「今すぐにはできないかもしれない。
でも何かあった時、あたしは自分の身を自分で守らないといけないの。
ここに居たいから。」
「今のままでも、みんなまことを守ろうとするよ。
まことが一生懸命なのは分かってるから。
それでもだめなの?」
「うん、それはだめなの。
わたしもここにいる以上、みんなと同じものを背負いたいから。
たとえば、目の前で仲間の身に何かあった時、ただ震えて逃げることしか出来ないのは嫌なの。
もし、自分が刀でその命を救えるなら、あたしはそれを選びたい。」
まことの目に一分の揺らぎも見られない。
その眼は凛と澄んでいて、その覚悟の深さを映し出していた。
「…辛い思いもきっとするよ。」
「それでも。」
「分かった。私が教える。
でも、厳しくするよ。」
「うん、お願いします。」
まことはぱっと花が咲いたような笑顔で大きく頷いた。
その瞳は一点の曇りもなく、強い光を宿していた。
ああ、これが私が惹かれた理由なのかもしれないな、
どこまでもまっすぐで、壁にあたるたびに強くなる、それが水瀬真実という人間なのだ。