第十七章 1.走ること、生きること
土方さんが北へ旅立った翌日から、総司は目に見えて体が悪くなっていった。
ほとんど蒲団から起き上がれなくなり、眠っていることがほとんどだった。
起きていても、ほとんど話さない、ぼんやりと宙を見つめているだけの総司を見ているのはつらかった。
痩せて骨ばった手。
こけた頬。
青白い顔。
でもそんな総司の枕元にはいつもずっと愛用の刀が置かれていて…。
もう総司は刀を握れない。
自分の体の一部だと言っていた武士の命を。
それでも目が覚めると、あんなに澄んだ笑顔をあたしに向ける総司の優しさが暖かくて…うれしくて。
どうか神さま、お願いします。
奇跡を起こして。
近藤先生に、総司に…。
命を助けて。
どうか、もう一度、総司に剣を握らせてあげてください。
そしてもういちど、近藤先生に合わせてあげてください。
ただ祈るだけしかできなかった。
*
四月の半ば。
あたしは町で思いもしない人に会った。
買い物帰りに近道の裏路地を歩いていたときのこと、すれ違いざまに、あたしの荷物が笠を目深にかぶった男とぶつかった。
どん!
「あ、ごめんなさい!」
「いいえ、こちらこそ」
そういって顔をあげたその時。
「!」
あたしは自分の目が信じられなかった。
そこにいたのは…
桂小五郎だった。
桂とは京で別れて以来一切会っていなかったから、もう二度と会わないだろうと思っていた。
大政奉還をした幕府と新政府。
新撰組と桂小五郎…。
分かたれた道はこんなにも隔たれている。
だからこそ、もう二度と会わないだろうと思っていた。
「驚いた…。
まさか江戸にいるとは…。」
桂も狼狽を隠せないらしい。
細い目を大きく見開く。
「総司が…いるから…」
あたしは目を伏せて言う。
「…ああ、聞いている。労咳だと…。本当に…心から見舞い申し上げる。」
桂は静かに、けれど誠実に答えた。
それはあたしの知っている、皮肉屋でとらえどころのない人には見えなかった。
「…うれしいでしょう。あなたたちがのぞむ世界が来て。」
ふと零れ落ちたのはそんな言葉。
負け惜しみみたいなやつあたり。
こんなこと言うべきじゃないのはわかっている。
なのにこのどうすることもできないこのやりきれなさに、悲しみに泥沼の状況に、誰かを攻撃していなければ立っていられなかったのだ。
「君は変わったな。私の知っている水瀬という女はどんな状況でもそんなひがみっぽいことは言わなかった。」
桂は皮肉気に口を歪める。
「…ごめんなさい。」
声が震え、不意に涙がこぼれる。
総司の前では泣くまいと思っていた。
左之さんや永倉さんを送り出すときも、土方さんと決別する時も、最後は、やっぱり泣かないで笑おうと思っていた。それしか自分にはできないと思っていたから。
でも本当はいっぱい泣きたかった。
いっぱい引き止めたかった。
すがって、もう戦になんか行かないでと、
どこでもいいから、みんなで一緒に暮らそうと、
そういいたかった。
あの京の八木邸での楽しい、幸せな時をもう一度、取り戻したかった。
「素直なところはそのままだ。」
桂は小さく笑ってあたしの頭を一度撫でた。
それは小さな子供をあやすお父さんみたいで、あたしは涙を止めようとするのをやめて泣き続けた。
*
あたしはしばらく泣き続けた後、桂の屋敷に連れて行かれた。
奥さんと思しき人が出迎えてくれて、泣きはらしているあたしを見て驚いているようだったけれど、穏やかに笑って奥に案内してくれた。
きれいな優しそうなひとで、その笑顔を見れば、桂が大切にしている様子が見て取れた。
「落ち着いたか?」
だしてもらったお茶を一口飲むと、いくらか気分が落ち着いてくる。
「はい。」
桂が不意に膝を詰めてあたしの目をまっすぐに見つめる。
その鋭さにあたしはたじろいだ。
「時に、水瀬。近藤勇が板橋にて斬首される話は君も知っているだろう。」
「!…はい…。」
知っている。
辛くて辛くて自分を支えていられないくらいに…。
「勝さんが明日、板橋の詰所に行くらしい。」
「え、それはどういう…。」
桂が何を意図するのかわからず、あたしは口ごもった。
「私は教えられることは教えた。あとは君しだいだ。」
不敵な笑みを浮かべて言った。
「あたししだい…」
あたしは桂の言葉を反芻する。
その瞬間、脳裏に閃光が走る。
そう、
まだ終わっていない。
あきらめるのか。
諦められるのか。
否。
絶対に。
このまま手をこまねいてここにいるだけなんていやだ。
走ろう。
できる限り。
精一杯に。
あたしの大好きな人たちがそうしているように。
何かが変わるかもしれない。
でも、変わらないかもしれない。
でもやらなければ絶対に変わらない。
「さあ、もう暗いから送ろう…。」
「大丈夫です。独りでも。
奥様にお茶御馳走様でしたと、突然お邪魔して申し訳ありませんでしたと、お伝えください。」
あたしは立ち上がって桂をまっすぐに見据えた。
そして小さく頭を下げる。
「ふふ、大分目に光が戻った。
それでこそ、新撰組の水瀬真実だ。」
桂は満足そうに笑った。
きっとこんな時代じゃなかったらこの人とはいい友達になっていた。
でもそれを敵味方に隔てる時代で出逢ってしまった。
けれど、だからこそ、こんなふうにぶつかったり、まっすぐに向き合ったりできるのかもしれない。
あたしは薄暗くなった道を歩く。
暗い空からは突然大粒の雨が落ちてくる。
冷たい雨は髪や顔を濡らすけれど、それがかえって心地よい。
目が熱かった。
そして胸の中を熱い塊が暴れているようだった。
助けよう。
近藤先生を。
どんな手段を使ってでも。
だから走ろう。
雨はいっそう強くなるけれど、あたしはただ前を見て歩き続けた。