第十六章 7.さらば愛しき人よ
かたん…
扉の音が聞こえてあたしは玄関へ、急ぐ。
土方さんが外に出ようとしているところだった。
「土方さん!」
あたしは思わず声をかける。
夕日の逆光で土方さんの顔がうまくみえない。
「…邪魔したな。」
徐々に目が慣れてくると、土方さんがブーツを履いて、こちらを向いて小さく笑った。
短く切った髪をかきあげて鮮やかに笑う土方さんは、平成のあの八木邸で見た「土方歳三」だった。
土方さんはやっぱりおしゃれであか抜けている。
あたしは顔が熱くなるのを抑えながら、聞く。
「もう、行くのですか?」
「ああ、俺は会津へ行く。」
不意に泣きたくなるのを感じた。
土方さんの目が遠くて、それは死へ向かうものの目。
それは山南先生の切腹の時になぜか似ていて、落ち着かなくさせた。
「…何か、あったんですか?帰ってきますよね。」
「…水瀬、近藤さんが新政府軍につかまった。」
!!
あたしは息をのむ。
全身の血が引くのがわかった。
「勝海舟に身柄を開放するように説得したが、だめだった。
今度の25日に斬首が決まった。」
「っ!!」
斬首…
なんてこと!!
近藤先生が、あの優しい近藤先生が…!どうして!
地面が揺らぐように感じる。
あたしはふらつく体を支えきれずに思わず、よろめくと、土方さんがあたしの腕をつかんで、その広い胸の中に閉じ込めた。
ふわりと香る煙草とお日様の香り。
服の上からでもわかる厚い胸板。
「ひじ…」
あたしは何かを言おうとしたけれど、何も言えなかった。
土方さんの腕も震えていることに気付いてしまったから。
「…すまねえ…!」
土方さんは手負いの獣みたいだった。
この人は自分の無力さを誰よりも悔いている。
自分を殺したいくらいに後悔している。
心底惚れぬいた親友いや、真友を救えなかったことを。
「土方さんのせいじゃない」なんてありきたりな慰めなんて口にできるはずもない。
あたしはただ彼の大きな背中に手を回し、一度だけ抱きしめた。
腕の力が緩み、手が離れていく。
あたしたちの間を風が通り抜け、うらさみしい気分にさせた。
「水瀬、総司には言わないでくれ。」
言えるわけない。あんなに近藤先生に会いたがっているんだもの。
「それから、万が一のことがあった時には日野の佐藤家を訪ねてくれ。お前のことは話してあるから。」
誰に「万が一」?
そんな哀しいもしもなんて聞きたくない。
それを聞いた瞬間、「ああ、この人は死ぬつもりなんだ」と思った。
もう二度と戻らない。
近藤先生を助けられなかった自分を罰するみたいに、
どこまでも戦場を駆け抜けて、そして戦場で死ぬつもりなんだ…と。
そんな幻にも似た場景が浮かび、胸がちぎれるような痛みが突き上げる。
あたしは「はい」とは言えなかった。
なんで
なんで
なんで!
神さま、もうこれ以上みんなを苦しめるのはやめて!
近藤先生を、総司を、土方さんを助けて!!!
目の前がみるみるうちにゆがむ。
「…そんな悲しいこと言わないでください。
もうこれ以上誰かが死ぬのは嫌なんです…!」
平助君の時も、源さんの時も、山崎さんの時も…
こらえようとした。
みんな誠を貫いたのだからと。
でももう限界だった。
涙があふれて地面に滲みを作る。
「嫌です…!」
「水瀬…!」
静かだけれど、有無を言わせない声色。
「頼む…。」
「っ」
あたしは一瞬息をのみ、目を伏せる。
「頼む」だなんて…土方さんがあたしに頼みごとなんてきっとこれが最初で最後だ。
ずるい…、そんな風に言われたら、「はい」というしかなくなってしまう。
「はい…。」
「ありがとう…。」
ああ、お別れだ。
ここで別れればもう二度とは逢えない。
あたしはこんなふうにこの人を送り出すために、時を越えてこの時代に来たの?
土方さんは踵を返して去っていく。
死ににいく男たちを、女たちはただ笑って送り出す。
引きちぎられるほどの胸の痛みをかかえながら、それでも精一杯の最高の笑顔をはなむけにする。
そうしなければ、あたしも「御武運を」って言って笑わなきゃ。
なのに、なのに、浮かんでくるのは涙ばかり。
いっちゃう、土方さんが。
もう会えない。
これでいいの?まこと?
こんな終わりでいいの?
あたしは思わず裸足で駆け出した。
土方さんはすでに豆のように小さな陰しか見えなかった。
「土方さん!!!」
声の限りに叫ぶと、その声に反応して土方さんが振り返るのがわかった。
あたしは全力で走ってその陰に追いつく。
「どうした?」
「はあ、はあ…」
あたしは膝に手をつき、息を整えると、土方さんに向き直る。
まっすぐと。
あたしはずっと首からかけていたお母さんの形見の結婚指輪のネックレスを外した。
以前は壬生寺に隠していたのだけれど、江戸に来るときにこれだけは、と思って持ってきていたものだった。
「これ、お守りです。」
怪訝そうにしている土方さんに渡す。
「なんだ、この輪っかは?」
結婚指輪ってまだ文化ないんだね。
当たり前か。
でもそれすらも愛おしい。
文化も、価値観も、時代すらも違う。
そんな中で、貴方に逢えたこと、貴方に恋をしたこと、この奇跡が泣きたいくらいにうれしい。
だから、笑うの。
「母の形見です。あたしをいつも守ってくれてました。だから今度は土方さんを守ってくれるように…守って、御武運を…あげられるように…。」
最後まで言えなかった。
土方さんがあたしを抱きしめたから。
きつく、きつく。
いっそこのままくっついてしまえばいいのに。
「水瀬…」
耳元に聞こえる愛おしい人の声。
かすれたような、低い、甘い声。
「ありがたく受け取る、
お前は…健勝で、必ず幸せになれ。」
「…はい。」
土方さん、もうとっっくの昔からあたしは幸せですよ。
やっぱり女心、全然わかってない。
あたしはくすりと笑う。
でもいい。
この運命の人とのこの別れに、後悔の無いように、この人に巡り合えた幸せを想い、最大の笑顔を贈ろう。
どうか、あたしの笑顔だけを覚えていて。
土方さんは腕の力を緩めると、お守りのネックレスを首にかけ、つないであった馬に乗る。
「土方さん、御武運を。」
あたしは最大の笑顔を土方さんに向ける。
土方さんは「ああ」と短くいい、あたしに顔を向け凄艶な笑みを浮かべた。
女の人でもこの笑顔にはかなわないと思うくらいに、鳥肌が立つくらいに美しい笑顔だった。
死へ向かう男の顔。武士の顔。
「さらばだ。」
一言そういうと馬の向きを変えて去っていく。
少しも振り返らずに。
夕日の中、あたしは自分の恋が遠くなっていくのをいつまでもいつまでも、その影が見えなくなっても見送り続けた。