第十四章 2.風に舞う:沖田総司
「ゴホゴホっ」
手のひらに付く不吉な朱。
手拭いを出してぬぐう。
じわじわと忍び寄る死の影。
立っていることが辛くて部屋の壁に背を預けて座ると目を伏せた。
見知った自分の部屋。
なのにこんなにも裏寒い。
まこととくだらないことで笑いあい、あの柔らかな笑顔に毎朝包まれて起きていたことがはるか遠い昔に思える。
あの頃私は確かに幸せだったと言える。
幸せとは遠くにあるものではないのだ。
ただそこに、見えぬ場所に転がっているものなのだと思い知る。
過ぎ去った日々はあんなにも美しく輝いている。
山南さんも、平助や、斉藤さんもみんないて…
そして笑顔の中心にはまことがいた。
幸せとはあんな風に輝く過去の何気ない一瞬一瞬に内包されているのだ。
目を閉じればまことの笑顔が瞼の裏に浮かぶ。
太陽みたいにキラキラしていて、
春の日差しのように暖かい。
桜の花のように潔くて、美しく、
百合のように凛としていて、
そして
風のように自由で優しくて決して届かない存在だった。
泣き虫で、でも驚くほどしなやかで強靭な芯の強さを持っていて、
誰よりも愛おしい人。
別の人を想っていても
それでも大好きだった。
土方さんと今度こそ夫婦になるのだと、幸せになるのだと思っていた。
なのに、別に好きな人間がいると、
裏切られたような気がした。
土方さんは去る女性を追うことはしない。
きっと自分の人生から切り離して決して振り返らないだろう。
二人はきっと魂の約束で結び付けられている。
なのにどうしても結ばれようとしない。
それがもどかしくて苦しい。
自分のことのように。
まこととはもう会えない。
私は傷つけすぎたから。
ひどいことを言って、泣かせたから。
土方さんのためじゃない。
ただ自分がこの恋情を思い切りたかっただけなのだ。
死にゆく自分の生への執着を断ち切るために、まことを傷つけたのだ。
知っている。
こんなことは何にもならないと。
私は何をしているのだ…
駄々っ子の子供のように。
ただ己の状況すら受け入れることができずに
愛おしい女性を傷つけ、遠ざけた。
私は弱くなった。
すべてを遠ざけて死地へ向かえば何も怖くはないと思っていた。
でもそうではないのだ。
手から砂が零れ落ちるように大切な自分の生きていた証たちが無くなっていく。
次に目を覚ますとき、私の目に映るものはなんなんだろう?
無事に朝日を見られるだろうか?
自分がこんなにも生に執着しているなんて思えなかった。
生きたい
ただ生きたい。
そう思った。
「沖田組長、巡察の時間です。」
「今いきます。」
一番隊の隊士の呼びかけに、静かに答えて立ち上がる。
生きている実感、
今となってはそれを感じられる場所は白刃ひらめく闇の中でしかないのかもしれない。
それこそが私の生きる意味。
生きる場所だから。
屯所の門をくぐった瞬間
春の風が吹き渡った。
風よ。
この動かぬ体を、もうしばらく舞い上げてくれ。
そして自由におおらかに何にもとらわれることなくどこまでも飛んでいきたい。
私は重い体を引きずって夜の闇に向かっていった。