第十三章 5.還る場所、もう二度と:土方歳三
目の前の光景が信じられなかった。
魂の底から逢いたかった女がそこにいる。
水瀬は大きな目を見開き、そして見る見るうちにその眼に膜が張ったと思ったら大粒の涙が零れ落ちた。
畳に落ちる涙の音がよく聞こえる。
水瀬は最後に会った時よりも少しやせていた。
でも、薄い藤色に蝶が描かれた美しい着物をまとい、上品に髪をまとめたその姿はたおやかで、そして凛としていて、非の打ちどころのないほどに完成された美しさを湛えていた。
「まあ、感動の再会のところ悪いが、話を聞け。」
一橋公が突然沈黙を破る。
「水瀬は特命のために今まで借りていた。敵を欺くにはまず味方からというように、任務は極秘ゆえ局長の近藤も知らぬこと。無事に任務が終了した故に今日をもってこの任務を解き、新撰組預とする。この娘は一橋家と、ここにいる肥後の守が後見の娘故、新撰組で、しっかり面倒を見てくれ。」
一橋公はいたずらっぽく言う。
俺はただ頭を下げ続けた。
ただこの奇跡が起きたことに感謝しながら。
一橋公は今はまだごたごたしてはいるものの次期将軍最有力候補。
その有力者と、新撰組のとりまとめである肥後の守様に特命と言われたのであれば、俺たちは是とすることしかできぬ。
水瀬を受け入れることは何の障害もなく、むしろ死なせることなど言語道断なのだ。
そのつもりで、水瀬と俺たちをここで引き合わせたのだろう。
「お待ちください。」
水瀬は澄んだ声で、一橋公を呼び止める。
「なんだ。」
「私は、新撰組を…」
「水瀬、お前は生きることを命じられたのだ。
武士は主君への忠義に篤く、誠を貫くもの。
お前の主君はこの歴史だ。
お前は時代を見極め、人の生きざまを見届けるのだ。
だから簡単に生きることをあきらめるな。」
「でも…」
「水瀬、自ら死をえらぶことが潔いのではない。
本物の武士は決して己のためには死なぬものだ。
己のくだらない虚栄や外聞などではなく、自分の信じる誠のために死してこそ、誠の武士だ。
お前が死ぬべき時は今ではない。
何があっても生き延びろ。
これは俺からの最初で最後の命令だ。いいか?」
一橋公は笑って、けれど圧倒的な君主の器をもって言った。一橋公はやはり稀代の名君なのだ。
”武士はけして己のためには死なない”
死に際は潔くありたい、そう思っていた。
ぐだぐだ生き恥をさらすのはまっぴらだと思っていた。
だが…どんな姿になっても、最期のその瞬間まで、己の信ずるもののために、守るべきもののために泥をかぶるその覚悟のほうがよほど尊い。
俺もそのようにあろう。
俺の誠、近藤勇のために、何があっても最期のその一瞬まで俺は俺として走り続けよう。
「承知しました。」
水瀬は声を震わせて頭を下げる。
*
そのあと、一橋公も、肥後の守様も出て行って、部屋には俺たち4人が残された。
沈黙が転がっている。
総司も俺も何も言えなかった。
あまりに突然で、劇的だったから。
「水瀬君…」
不意に勝ちゃんが水瀬に近づくとその肩を抱く。
水瀬はピクリと肩を震わせ、見上げる。
「近藤先生…」
「…おかえり…。」
「良いのですか…?」
「何のことだい?密命のことは先ほど肥後の守様にも聞いた。
その任務が終わったなら、君が帰る場所はここだろう?」
勝ちゃんは穏やかに笑って言う。
「近藤先生!あたしは…新撰組に帰りたいです。」
「帰っておいで。いつでも。」
水瀬は堰を切ったように泣き続けた。
俺たちは身分という因習に縛られ、水瀬を犠牲にして走らざるを得ない状況に追い込まれた。
斉藤からの報告を聞いたとき、あの時ほど、俺は自分の無力さを呪ったことはない。
敵陣に仲間であり、惚れた女を差し出してまで貫きたいこととはなんだろうかと、迷い、そして揺らいだ。
だが、俺が走るは修羅の道。
人間らしい感情を持つには俺の手は血に染まりすぎた。
行く先が地獄でも、修羅の道に足を踏み入れたその瞬間から、もはや引き返すことはできぬ。
何があっても揺らぐことは許されぬ。
最期のその瞬間まで。
そうしなければ、俺の手にかかって死んだ奴らに顔向けできねえ。
だが、それをもう一度取り戻すことができた、それは水瀬という人間が人を変え、運命すらも変えて、水瀬の力でこの困難を越えたのだろう。
「…水瀬。」
俺はかすれそうになる声をどうにか抑えて声をかける。
水瀬は真っ赤な目を見開き俺を見据えた。
「…よく戻った。」
「…土方さん…」
俺たちはただ何も言わずに見つめ合っていた。
否言えなかった。
水瀬の黒い双眸に俺の顔が写っている。
俺は今どんなに情けねえ顔をしているだろう。
だが、それすらどうでもよかった。
ただ一つの想いを除いては。
ただこいつに逢いたかった。
魂の底から。
死ぬほど逢いたかったのだ。
もう迷わねえ。
俺にとってこいつは魂の記憶で、出逢うように定められ、時の理すらも超えて結び付けられた女だから。
もう手放さねえ。
二度と。
俺は水瀬をきつく抱きしめた。
目頭が熱くなって、鼻の奥がつんと痛くなってくる。
俺が、女一人のことで泣いている。
この鬼の副長の俺が…。
俺も焼が回ったもんだぜ。
水瀬はためらいがちに俺の背中に手を回した。
耳元に水瀬のかすれた息遣いが聞こえる。
「土方さん…、泣いてるんですか…?」
「泣いてねえよ。」
震える声は何の説得力も持たない。
ただこの瞬間を俺は永遠に忘れないだろうと思った。