第十三章 3.一橋慶喜
慶応2年八月、あたしは勝さんと一緒に下阪し、大阪であたしに逢いたいという人物についに対面することになった。
その人物とは、一橋慶喜。
平成の世でも、徳川最後の十五代将軍、大政奉還を成し遂げ、江戸城を無血開城した彼はあまりにも有名だった。
そんな彼があたしに逢いたいとはどういうことだろう?
彼もまさか、倒幕派とつながっているんだろうか?
「そんなに緊張するな。」
珍しくきっちりとまげを結い、裃までつけた勝さんが言う。
「ええ、大丈夫です。
もうここまできたら何があっても驚きませんよ。」
あたしはというと、さすがにきっちりと上品な女らしい薄い水色の夏らしい着物を着てしっかりと髪結いに日本髪を結ってもらった。
「一橋公は桂君のことは何もご存じではない。君が桂君のところの行くに至った経緯も、私が桂君と懇意なのも何もね。
公武合体をお望みなのは間違いがないがね。」
あたしの言わんとすることを察するように勝さんが言った。
大阪の上品な屋敷の一室、華美を抑えて造ってはあるものの、調度品やら何らがすべて上品なものだった。
畳も張り替えたばかりなのか、爽やかない草の香りが部屋を満たしている。
その時、ふすまが静かに開いて、執事みたいなおじいさんが畳に手をついて頭を下げる。
「勝どの、お待たせいたしました。いらっしゃいましてございます。」
そして衣擦れの音がすると背の高い男の人が入ってきた。
あたしは隣の勝さんに倣いあわてて頭を下げる。
「勝か。久しぶりだな。
堅苦しい挨拶は抜きだ。面を上げよ。」
高くも低くもないよく通る声でその人は言った。
あたしと勝さんはゆっくりと頭をあげると、そこには切れ長の目に、整った顔立ちの「お殿様」がいた。
年は土方さんくらいだろうか?
男盛りの色気があった。
「一橋公におかれましてはご機嫌麗しく…「ああ、やめやめ。」」
勝さんの挨拶を遮って一橋公が言う。
「まどろっこしい挨拶は抜きだ。
お前の文に書いてあった女子の件だろう。
そのほうが未来からきたとかいう例の女子か?」
あたしのほうに急に話を振られるものだからあたしはとっさにびっくりして声が出せなかった。
「はい。水瀬と申す女子にございます。」
勝さんがあたしを紹介したのであたしももう一度畳に手をついて頭を下げる。
「水瀬とやら、顔を上げよ。」
いかにもな感じで、一橋慶喜はあたしにいう。
あたしはゆっくりと顔をあげて打ち合わせ通りに挨拶をした。
「水瀬まことと申します。お目通り叶い、恐悦至極にございます。」
一橋慶喜は形の良い口元をふっとゆるめて目を細めて笑う。
「ふうん、なかなかいい目をする女子だ。
水瀬、お前はこの国の未来を知っているんだろう。
どうだ、徳川は滅びるか?」
「!!」
「上様!何をおっしゃいます!」
勝さんがさすがにあわてて言う。
そりゃあそうだろう、いくらまだ将軍になっていないとはいえ、徳川の中枢を担う御三家の人間がこんなこと言えば大問題だし。
「勝、今更だろう?お前もわかっているはずだ。徳川がいかに腐敗しきっているか…。
今外国が日本を鵜の目タカの目で狙っているんだ。こんな時に幕府だ攘夷だ言っていられないだろうよ。」
さも当然のように慶喜は笑って言う。
桂や、坂本さん、勝さんと同じことを言う。
この人もまた日本の未来を想う真の武士なのだ。
「…俺はな、この幕府の最後の将軍になるだろうよ。なあ、水瀬そうだろう?」
あたしは答えることができない。
だってそれを答えてなんになるというんだろう。
「それは…上様は、もう決めておられるのでしょう。」
「徳川家康公は、神とあがめられる。俺はきっと幕府をつぶした能無しとのちの世に遺される。
だが、それでいい。
幕引きは俺の仕事だ。それもおもしれえじゃねえか。」
さも面白そうに達観した様子で慶喜は言う。
誰が見ても確かに今の幕府の先行きは暗い。
だから将軍なんて誰もやりたくないはずなんだ。
でも、それを楽しむように笑って自分が幕引きをするという。
「…徳川を…愛しておられるのですね。」
あたしの口から自然に零れ落ちる言葉…。
「さあな。おれはただ面白がりなだけさ。」
慶喜は静かに笑っただけだった。
ただその笑顔は何もかもを知り尽くしているような老成した顔だった。