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虹に届くまで  作者: 爽風
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第十三章 1.予兆:沖田総司

ゴホ、ゴホ


朝餉のあと廊下を歩いていたら不意に苦しくなって立ち止まる。

最近咳が止まらない。

顔色が悪いと皆に言われるのを「甘味の食べすぎで」と笑ってごまかすのももう飽きてしまった。

一月前ほどに夏風邪をひいてからだろうか…。熱は下がったと言うのに。

止まらぬ咳。

体のだるさ。

息苦しさ。

咳のし過ぎで腹が痛い。

私の胸には大きな虫が棲んでいて、ざくざくと肺やら腹の臓腑を食い荒らしているのではないかとさえ思うほどだ。

以前は日に二百できていた素振りが五十で息が切れるようになってしまった。

嫌な予感はしている。

おしなべて私のこの手の予感は当たるのだ。

ただ認めたくなかった。

今はその時期ではない。

まことにもう一度会うまでは、まだ剣を握っていたい。まことを殺すのが避けられない運命ならば、斬らなければならないなら、それは私でいたい。

私には剣しかないから。

ほかには何もないから。

だから今はまだ立ち止まる訳にはいかないのだ。



「総司、おめぇは妙な咳をしやがるな。」

廊下で口を押さえて咳き込んでいたら、土方さんが後ろから私を覗き込んで言った。

覗き込んだというのはもちろん遠慮した表現で、実際はにらんでいるに近い。

小さな子どもだったら泣き出してしまっているだろう。

この人は見目がいいのに怖い顔しかできない不器用な人間なのだ。

珍しく心配している様子が見てとれて心が暖まる。

「鬼の副長が私の心配ですか?真夏なのに雪が降りそうですね。」

わざと茶化して笑ってみる。

「総司、お前、今日は休みとって松本法眼のところへ行け。」

土方さんが怖い顔をして言う。

松本法眼とは幕府の御殿医で西洋医学に通じながらも、武士のような豪傑で、新撰組を何かと気にかけてくださる。ついひと月前まで大阪で家茂公についてその治療に尽力していらっしゃったらしいが、上様が亡くなり京へもどってみえたらしいのだ。


「ただの風邪ですよ。」

私は下を向いて笑いながら言った。感情を隠すのは得意だ。いつも通り笑えばよい。

それなのにまことの前では上手く感情を制御できない、未熟だと思う。

そんな自分を自嘲する笑みだった。

「だったら早く治して来やがれ。これは副長命令だ。」

土方さんは引かない。

この人はきっと気付いているのだ。この咳がただの風邪などではないことを。

この人は嫌になるくらい勘がいいから。

「わかりました。」

私はふっと笑みを浮かべて頷いた。

行くつもりなどない。

この病は命をむしばむ病だから。

「お前は隊の戦力なんだ。くだらねえ風邪なんざ早く治しちまえ。」

わざと怖い顔をすると土方さんはそれ以上何も言わずに踵を返して去っていった。


土方さんが見えなくなったその時、不意に血の味が込み上げてきた。

「ゴホ、ゴホ、ゲホッ!」

思わず激しく咳き込んで口を覆っていた手を見てみる

と掌には赤黒い血がべっとりと付いている。

「!」

全身に震えが走った。

…吐血。

昔、まだ私が試衛館に弟子入りするまえ、日野の五軒隣の優しいおばさんが同じように咳から血を吐いて、やがて亡くなった。

あのおばさんは労咳に冒されていたと、ミツ姉さんは悲しそうな顔で言っていた。

子供心には病というものが理解できず、労咳というものはお化けか何かだと思っていたが、人を死に至らしめる恐ろしいものだという恐怖だけは植え付けられた。

そして今、私は同じように咳が止まらず血を吐いた。これまでも痰に血が混じることはあったが、咳のし過ぎで喉が切れただけだと思っていた、思い込んでいた。

だが今回の明らかな吐血。無学な私でも分かる。

…労咳…。

気付いていた。

ただ気づかぬふりをしていた。


血を吐けば必ず死ぬ、それが労咳だ。

ああ、私は死ぬのだ…。

なのに何故こんなにも心が静かなのだろう。

隊務であまりにも死に近づきすぎて慣れてしまったのか?

死に対する恐怖など微塵も浮かばない…。

ただそこに当然のように存在する未来。

でも、まことにもう一度会うまでは死ねない、そう思うだけだ。

だからまだ死ねない。

彼女を斬るのは私だから。

それを残酷で苦しい運命だと絶望する、しかし同時に私が惚れた女性の最期を私の手で独占できることにゆがんだ残虐な悦びも自分の中にあることに私は気が付いていた。


どうやら本当に鬼になってしまったようだ。

ふと笑みが浮かぶ。

口についた血が私を人食い鬼のように見せているだろうと思うと無性におかしくてたまらなくなる。

私は腹を抱えて笑った。

何がおかしいのかわからぬ。

ただこのばかばかしいほどの運命には笑うことしかできなかったのだ。

自分の死に場所は戦場だと思っていた。

なのに…私は病に侵されてきっと苦しんで苦しんで死んでいくのだろう。

真綿で首を絞めるようにじわじわと少しずつ近づく死の恐怖を味わいながら。

皮肉なものだ。

鬼になった自分への罰なのだろうか。


まことがそばにいたとき、私は人間らしい喜びがあった。

彼女の太陽のような笑みに心は温まり、それは私に泣きたくなるほどの優しさと幸せをもたらした。

それは、恋であり、愛であり、そして生きるということだった。

だから、今の私は鬼でしかない。


“総司は鬼なんかじゃないよ”

不意にまことの声が脳裏によみがえる。

“でももし総司が鬼なら世界で一番優しい鬼だね。守るべきもののために悲しいことも辛いこともすべてを背負って飲み込んで優しい鬼になってるんだよね。”

あれはいつのことだっただろう?

まことに深い意味はきっとなかった。

でもその言葉は優しくて心に染みて、不覚にも私は泣きそうになったことを思い出した。


ふと気づくと頬が濡れている。

ああ、私は泣いていたのだ。

まだ私にも涙を流せる心が備わっていたのか。


逢いたい…。

ただまことに逢いたかった。

あの笑顔が見たい、そう思った。



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