第十二章 5.優しい未来
母屋の客間にたどり着くと、そこにはつり目の切れ長な一重まぶたで、きっちりと羽織はかまを着付けたいかにも官僚みたいなみたいな人と、対照的に、永倉さんみたいな無頼姿にぼさぼさな髪をした人がいてあたしは思わず眉をひそめた。
何?この人たち?
「桂先生、久しぶりやのう?」
ぼさぼさの人は頬にえくぼを作って満面の笑顔をして見せた。
見ているこっちまで笑いたくなるような素敵な笑顔で、あたしは最初に胡散臭いと思った自分を恥じた。
「ああ、坂本さんも、勝さんも変わりないようで、何よりだ。」
「!」
あたしは思わず息をのんだ。
この人たちは…坂本竜馬と勝海舟…?
あたしは全身総毛立つのを感じた。
明治維新の英傑たちが今生きてあたしの目の前にいるのだ。
「幾松は、この二人が誰なのかわかったようだね。」
桂はあたしの反応を見て満足そうに言った。
目の前で、桂と、勝海舟と、坂本竜馬は酒を酌み交わしている。
あたしはただ呆然と感激にも似た思いでその様子を見つめていた。
この人たちには言い知れぬオーラがあって、人を引き付ける。
「幾松、お二人に君を紹介しよう。
勝さん、坂本さん、この娘は幾松というもので、先日私がお話しした例の女です。
幾松にはもうこの二人が誰だかわかっているようだが。」
桂が悠々とあたしを紹介し、あたしはぺこりと頭を下げた。
「幾松です。どうぞよろしくお願いします。」
この圧倒的なオーラの前についつい及び腰になる。
「幾松とやらは、われらのことをどう聞き及んでいるのですか?」
「そうじゃ、わしらが名乗らんうちにわしらを見極めたっちゅうことは、未来から来たゆうんはホンマ何んか。」
矢継ぎ早に言う二人を見ながらあたしは不思議な気分に陥った。
新撰組、桂小五郎、勝海舟、坂本竜馬…歴史の偉人達もこうして目の前に確かに生きているのだと知る。
でもあたしはこの人たちに話すことなんて何もない。
「あたしは何も話しません。未来のことなんて語れることは何もありません。」
「幾松!」
桂があたしを厳しい声で制する。
「まあまあ桂さん。幾松は新撰組に身を置いていたそうじゃないか。言ってみれば桂君は敵だ。そうそう手の内を語れるものじゃないさ。」
勝さんはつり目を下げてあたしに向き直り続けた。
この人は近藤先生みたいなどっしりとした風格を感じさせる。
「君は俺がどういう人間か知っているだろう。幕府に身を置きながら倒幕派とも通じる裏切り者だ。先の世に私のことがどう伝わっているのかはわからない。だが、私も、桂君も、坂本君も信念のために動いている、君が信じる新撰組と同じように。すべては日本のために。
今は幕府だ、攘夷だと小さなことで悩む場合ではないのだ。アメリカ、フランス、日本を虎視眈々と狙っている国はごまんとある。日本が外国の植民地になるかどうか今はその正念場だ。
それなのに当の日本の国内ではいまだに古い因習に囚われ大局を見ようともしない。
俺の意見を言おう。俺は幕府は存続すべきではないと思う。そして無駄な血を流さぬように、少しでも外交に体力を蓄えて、外国に向かっていくことがこれからの俺たちには必要なのだ。」
だから桂はなりふり構っていられないのだ。
もうそんな猶予はないということだろう。
「まったく勝先生の言うとおりじゃき。日本は今変わり目にきちょる。今は日本人同士が争うとる場合じゃないが。」
坂本さんが屈託のないまっすぐなまなざしであたしをみた。
その瞳はきっとどこまでも遠い未来を見つめているのだと実感した。
勝海舟が、桂小五郎が、坂本竜馬が後世に語り継がれていくその意味が分かる気がした。
まぶしいくらいに未来を語る。
そしてその志は少しもぶれない。
この人たちがいたから、あたしたちは目覚ましい近代技術革新の恩恵を受けた150年後の世界にいられるのだろう。
あたしは気が付くと泣いていた。
頬に伝う涙の意味はあたし自身にもわからない。
ただ、次から次へと流れる涙はとめどなくあふれてきてあたしはただ俯くことしかできなかった。
それぞれに、それぞれの誠がある。
その先にあるものはより良い日本の未来なのに、どうしてこんなにも血が流れるんだろう。
「少しいろいろ言い過ぎたかな。」
桂はあたしを見て苦笑して言った。
「幾松、私たちが君をこちらに招いたのは君の出自を利用しようと思っただけではない。
君はまた怒るかもしれないが君の幸せを考えた末のことだ。
新之助が言っていた。
君は何度も危ない目にあってきていると。
内部に君をよく思わないものが君を貶めようとしていると。
だからこれはよい機会だと思ったのだよ。
君は信じないかもしれないが、私は君を良く思っている。意志の高い、同じ未来を見られる人間として、女性としてもね。だからどうしても手元に置きたかったのだよ。」
桂は土方さんと似ているようで似ていない。
土方さんはそんなふうに歯の浮くようなセリフ言わないし。
あたしは思わず笑ってしまった。
「キザな人…。」
「博愛主義者なんだ。」
桂はおどけたように言う。
あたしが今ここでこうして桂たちと向き合っていることは新撰組とっての裏切りなのかもしれない。
でも、敵かもしれなくても、あたしはこの人たちが嫌いになれない。
日本の未来を真剣に思うこの姿はあたしの大好きな人たちと同じだったから。
あたしはそれまで意地になって言えなかった言葉を口にした。
意地でも協力したくないと思っていたのに、この人たちの誠に触れてしまったら、そんな風に意固地になっていることがひどく小さなことのように思えた。
「あたし、本当に詳しい歴史は知らないんです。
だからいつどんな未来が待っているかなんてわからない。
でもこれだけは言える。
貴方たちの考えが、思想が次の日本を創る。
日本の未来を切り拓く。
でも、それは幕府も新撰組も攘夷派も全部があってその未来が来ることを忘れないでほしいです。
皆それぞれの誠があって譲れないものがあって、でもそれは方法は違うかもしれないけど、すべては日本の未来を思ってのことなんです。だから、きっと150年先の未来につなげてください。」
これが今言えるあたしの精一杯のことだから。
桂が沈黙を破ってあたしに向き直った。
「これだけは聞かせてくれ。幾松…未来はやさしいか?」
あたしはふと考える。
優しいかどうかなんて考えたこともなかった。
自分の世界に疑問を持つこともなかった。
戦争や腐敗政治、税金、経済…
すべてが遠くて恥ずかしながらそんなことを考えることすらあたしは150年後の世界でしなかった。
でも、それを考えずに生きていられたことは紛れもなく幸せだったのだろう。
それが正しいかどうかと言われれば否だと思うけれど、この時代から考えれば豊かさや人の生死の面においては間違いなく「優しい」だろう。
「はい。日本は飢えることも、病気で早死にすることも、戦争もなくなりました。日本は豊かで、長生きできる世界でも有数の経済大国になっています。未来では月にだって行けるんです。」
平成の日本には本当はたくさんの問題が山積みだ。
この人たちが目指す優しい未来とは違っているかもしれない。
でも今この人たちにそれを言う必要はない。
それは150年後のあたしたちが考えて解決していくべき問題だから。
だから、たとえ敵でもこの人たちが走って行けるように後押しができたらいいと思う。
「月に行けるだなんてそんな夢みたいな世界が来るがか?そんなこと聞いたら力が湧いてくるようじゃな。」
坂本さんは笑って言った。
屈託がなくて子供みたいに無邪気で澄んだ笑顔だった。
「俺たちがやろうとしていることは間違っちゃいない。ただ幾松の言うとおり、俺たちだけが正義じゃないってことを胸に止めとかないといけないな。」
勝さんは静かに笑ってしみじみと言った。
あたしはここにきて今までになく静かな気分でいられた。
あたしが新撰組を裏切ってもあたしはみんなが好きだ。
でもそれでも、あたしは桂や、勝さん、坂本さんの思う未来を応援したいと思う。
これは裏切りかもしれない。
でも、それでも、あの人たちの誠と新撰組の誠はあたしにとってはどちらも優しい未来につながるものだと信じたかった。