第十二章 1.裏切りの真実、仲間:土方歳三、沖田総司、斉藤一
水瀬がいなくなった。
山崎と共に住む屋敷の水瀬の自室に「思うところがあり隊を抜けます。お世話になりました。」と書かれた書置きを残していなくなっていたのだという。
それはまさに青天の霹靂、天地が逆転するほどの衝撃だった。
しかし同時にあの夜の水瀬の様子はもしかしたらこれを暗示していたのやもしれないと思い直した。
あの夜確かに水瀬は何かを隠し何かに思い悩んでいた。
それはこのことだったのだ。
なぜだ?
あの夜無理にでも聞き出していればこんなことにはならなかったか?
あの夜は人生の中でも最も優しくて幸せな時間だった。
初めは泣いている水瀬を慰めたいと思う、ただそれだけだった。
ただ涙で潤んだ水瀬の黒い双眸が俺を射抜いた瞬間俺は考えるより先に口づけしていた。
ただ水瀬が愛おしくて懐かしくてそれ以外のことは何も考えられなかった。
太古の昔から魂に刻み込まれた記憶でこいつと結ばれたいと渇望していたのだ。
そして水瀬もそれに応えた。
水瀬の華奢で柔らかな体は俺の理性を霞ませた。
水瀬は緊張していたが俺自身も不覚にも泣きそうだった。
愛おしすぎて、こいつを壊しそうで怖かった。
自分にこんな激しい感情が存在していることに驚いた。
でも結局は最後まではしなかった、いやできなかった。
途中水瀬が迷っているのを感じてしまったから。
そして俺自身もそれを見てこのまま中途半端に激情をぶつけてしまうことはよくないと思ったから。
恋だの愛だの、そんなものは自分にとって邪魔にしかならないと思っていた。
修羅の道を歩む自分には永遠に享受できぬものだと。
だから今までかたくなにすべてを遠ざけていたが、水瀬と飯を囲み、水瀬と笑いあい、そして抱きしめ…そういう優しい時間は、俺を走らせる原動力なのだと気付いた。
俺はこの笑顔を守るために、こいつが生きた平成という未来へつなげるために、修羅の道を走るのだと。
志と新撰組のためだけに走っていると、戦っていると信じていた。
だがそれだけではないのだ。
水瀬を愛おしく思うことと、俺が戦うことは決して相反する道ではない。
だから、約束をしたのだ。
未来に向かって、俺が走り続けるために。
次に逢った時に水瀬のすべてをくれと。
あいつはいつか俺たちの前から消えるのかもしれない。
だからこんなふうに結ばれようとするのは間違っているのかもしれない。
でも…あいつの笑顔を見ているうちに思った。
これは決まっていたことなのだと。
俺がこいつに出逢うことも、
俺がこいつに惚れることも。
これは抗い様のない魂の宿命なのだとそう思った。
なのに…
水瀬、お前はなんでいなくなったんだ?
お前は決めてたんだろ?
だったらなんであんな約束したんだ!?
次に会うとき、俺は…お前を殺すんだぞ。
監察方のお前が隊を抜けるとき、それは死しかありえない。
なのになんでわざわざ書置きなんて残していなくなったりしたんだ?!
お前は絶対に俺らのそばからいなくなるなんて考えてもみなかった。
でもお前は脱走した。
お前だってわかってるはずだ。
これは裏切り。
裏切りには死しかありえぬ。
俺は副長としてお前を斬る命を下す。
畜生、畜生!
お前は何を思って隊を抜けたんだ?
なあ、水瀬…
お前、残酷なことさせる…。
俺はお前を殺して、そのあとどんな風に生きていけばいい?
教えてくれ…。頼む。
***
まことがいなくなった。
山崎さんの家から書置きを残して急にいなくなったらしい。
覚悟の失踪…
私はそれを聞いたとき、地が揺らぐと思うほどに、動揺し、そして血が逆流するほどの怒りを覚えた。
あんなに新撰組と共に生きると言っていたではないか!
それなのになぜ私たちを裏切った?
山南先生を私たちが処断しなければいけなかったとき、あんなに泣いて苦しんでいたのに、私たちにその思いを再びさせてでも、隊を抜ける必要があったということなのか!?
なぜ何も言わなかった?
どこにいる?
私たちは、君を斬らねばならない。
昨日までかけがえのない仲間だと、そう思っていた君を、明日にでも裏切り者として斬らねばならない。
それすらも覚悟の上で、君はいなくなったのか?
まこと、不思議だね。
誰よりも愛おしいと思っていたのに、今私はこんなにも君が憎い。
人は愛おしいと思えば思うほどに、裏切られたときに憎む心が強くなるのかもしれないね。
土方さんにこの選択をさせてまでしたかったことってなんだよ?
あんなに想っていたじゃないか!?
思いあっていたじゃないか?
あんなに私たちを見守るといったじゃないか?
なのに…なんでなんだよ!?
次に逢った時、私はまことを殺すよ。
私は…武士だから。
***
水瀬が消えた。
ただ書置きを残して…。
水瀬…お前はなぜこんな残酷な選択をしたんだ?
俺らにお前を斬らせるのか?
水瀬がいなくなってから、幹部たちの様子は傍目には平常と変わらなかったが、みな心に深く傷を負って動揺していた。
沖田さんは目に昏い光を宿し、まるで、京に出てきたばかりの頃のように冷たい冴え凍る月のようにただ隊務に没頭した。
副長は「裏切り者には死しかない」そう言い、俺らに追捕の命を下した。
なんの揺らぎも見せずに。
ただそれが血を吐くほどの無理の上に成り立っているものだということを気付けるくらいには俺もあの人との付き合いが長くなっていた。
永倉さんも、原田さんも、藤堂さんも、それぞれに動揺し、副長の命に食ってかかったのは藤堂さんだった。藤堂さんはまっすぐな熱血漢だから、彼の誠が許さなかったのだろう。
藤堂さんは山南総長の時も人知れず泣いて、総長に取りすがって逃げるように最後まで説得しようとしていた。あんな風にまっすぐに感情を出して生きることができる藤堂さんに少しうらやましさすら感じた。
次にお前に逢った時、俺はお前を斬れるだろうか?
俺はきっと斬るだろうよ。
俺はそれを武士の誠と思い自分を奮い立たせ、きっと斬るだろう。
だがそれをしたとき、俺はもう人ではいられなくなる気がする。
否、もうすでに鬼なのか。
お前を斬った後、俺は涙を流せるだろうか?
*
「…う、斉藤!聞いておるのか?」
「!
申し訳ありません。」
不覚だ。
今、俺は黒谷の会津肥後守様のところに報告に来ていた。
「いや、よい。水瀬は余も何度か逢っておる。まっすぐないい目をする女子だった。
女子にするにはもったいないほどの潔さと度胸を兼ね備えた人物だった。新撰組の中でも慕われていたことだろう。皆が動揺するのも無理はない」
この方の聡明さには頭が下がる。
俺は肥後の守様に平伏した。
「恐れ入ります。申し訳ありません。」
「時に斉藤。これは他言無用のことなのだが。」
「はっ。」
「以前新撰組に解散の命が下されるという命が内々にあったのだ。」
「なんと!?」
なんだと?
そんな命があってなぜ俺たちは無事なのだ?
「猶予をということで、余が上の方と掛け合っているうちにいつの間にか立ち消えたのだが、それがうやむやになった頃と水瀬が失踪した時期が重なっているのだ。」
「…そんな…。」
どういうことだ?
水瀬がまさか、新撰組解散を止めるために動くためにいなくなったとしたら?
「これは余の推測でしかない。だが水瀬は取引したのではないだろうか?
新撰組解散の命を止めるために。通常ではいったん決まったことが覆されるなどありえぬ。
よほどの重役が命じぬ限り。
つまり誰かの思惑が働いたのだ。
だが仮に水瀬が命を退けるために動いたのだとしたら、そんな重役とどこでつながりを持ったのか、わからぬことばかりだ。」
なんということだ!
符号が合いすぎる。
水瀬…お前は仲間に自分を斬らせる覚悟で裏切ってまで新撰組を守ろうとした?
そういうことなのか?
俺は雷に打たれたような衝撃が体中を駆け抜けた。
こうしてはおれぬ。
事実を調べねば!!
「肥後の守様、水瀬の真実を突き止めて、報告に参ります。」
「うむ。頼んだぞ。」
「承知!」
俺は黒谷を飛び出して足早に屯所へ戻った。