第十一章 14.叶わぬ約束、さよならの夜
泣きたいくらいに幸せだった。
土方さんと向き合ってご飯を食べ、冗談を言って笑いあう。
まるで夫婦みたいで、少しくすぐったくて甘くて優しいそんな気分にさせられた。
時間が止まってしまえばいい。
夜が明けなければいい。
このまま、誰も知らないところに行ってしまいたい。
幸せな思いだけを胸にひっそりとここで生きていきたい。
でもそれはできない。
あたしは選んでしまったから。
裏切る道を。
もうこの先二度とこの人とこんなふうに向き合うことなんかできない。
笑いあうことはできない。
次に会うときあたしたちは敵同志だから。
次に会うときはきっとあたしの最期の時だから。
あたしは笑いながら不覚にも涙ぐみそうになる。
だからはしゃいだ。
土方さんに呆れて「しょうがない奴だな」、そういわれて笑われて、それにほっとした。
よかった。
笑ってくれて。
よかった。
笑えて。
ただ今だけは笑って過ごさなければいけないと思った。
*
パタン、パタン…
雨の音が聞こえる。
灯を落としてどのくらい経っただろう。
隣には土方さんがいて、ドキドキして眠れない。
夕食のあと土方さんは盆屋のご主人に蒲団をもう一組持ってくるように頼みあたしたちは別々の蒲団に入って土方さんはすぐに眠ったようだった。
あたしからは背中しか見えない。
広くて大きな背中だと思う。
いろんなものを背負う大人の男の背中…。
あたしはこの人の背中ばかり見ている気がする。
向き合うことはない。
でも、あたしはこの背中を守りたい。
未来に向けて。
みんなが走って行けるように。
だから覚悟を決めなければいけないんだ。
自分の選択に。
不意に胸の奥が痛くなり、目頭が熱くなる。
あたしは寝返りを打って土方さんに背を向け口を覆った。
引きつむった目から熱い涙があふれてきて頬を伝って枕に滲みた。
大好きだった。
ううん、今もまだ大好き、これからもきっと大好き。
土方さん。
土方さんにあえて本当によかった。
好きになれて本当に幸せでした。
「っ…。」
あたしは口を覆って嗚咽をこらえた。
いったん流れ出した涙は止まらない。
「…水瀬?」
土方さんの声。
あたしは答えることができずに背を向けて丸まっていた。
「どうした?」
土方さんがあたしに近づいて、抱き起すと顔を覗き込んだ。
「…。」
「無理すんな。ばか。」
黙ったままのあたしの肩を抱いて土方さんは小さな子供をあやすようにあたしの頭の後ろにぽんと優しく手を置いた。
その拍子に涙が零れ落ちあたしの膝に落ちた。
「…ごめ…さい。」
あたしは言葉をのどから絞り出す。
ごめんなさい。
あたしはあなたを、新撰組を裏切ります。
本当ならもっと気付かれないようにうまくやるべきなのに、弱い私を許してください。
「なんだ?」
「ごめんなさい…。」
「何謝ってんだよ。」
「…ごめんなさい。」
あたしは謝ることしかできなかった。
「まったく…しょうがねえな。」
土方さんは呆れたように苦笑すると土方さんの着物の袖で、あたしの瞼を乱暴にこすった。
そっけなくて不器用で、でもすごく暖かい土方さんの優しさが手のひらを通して伝わってきた。
涙をぬぐわれて目を開けると土方さんの形の良い瞳があたしを射抜いた。
こんなに間近でこの人と静かに向き合ったことが過去にあっただろうか。
あたしたちは何も話さなかった。
ただ静かにお互いに視線を外すこともせずただじっと見つめあっていた。
雨の音が妙に大きく耳に届く。
パタン、パタン…
先に動いたのは土方さんだった。
ごつごつとした厚い手のひらがあたしの頬を挟む。
手は熱くて剣だこがあたしの頬にかする。
その刹那
あたしの唇は土方さんのそれで覆われた。
「!」
あたしは突然のことに目を見開いたけれどすぐにその甘美で柔らかな感覚に痺れていった。
初めて土方さんとキスしたのは土方さんが酔っぱらって寝ぼけてしたキスだった。
あの時はあたしと別の女性を間違えていて、胸がちぎれるくらいつらくて嫉妬していた。
それで、自分が恋をしていることに気付いた。
二度目は敵を欺くためだった。
あたしは遊女で土方さんは客だった。
だから演出としてのキスにすぎなかった。
それでもすごく幸せで、そんな自分が切なくなった。
じゃあ、三度目は?
なんのためのキスなんですか?
土方さんの舌があたしの口内を侵食していく。
それは怖いくらいに、優しくて甘くて痺れるくらい幸せだった。
「んっ…」
あたしは苦しくなって息を漏らした。
土方さんは唇を離した。
あたしは苦しくて肩で息をして呼吸を整えた。
顔も熱くて赤くなっていたと思う。
息を整えていくうちに動揺が広がってあたしはテンパった。
なんであたしキス…!
自分のしていることが信じられなくてあたしは口を手で覆うと一気に顔が熱くなった。
「水瀬…。」
土方さんは低くかすれた声であたしの肩をつかんだ。
怖いくらい真剣な目をしていた。
「!」
ビクン
あたしは土方さんの視線から目が離せなくなった。
「…嫌か?」
土方さんは小さく言った。
でもあたしの耳には空気を震わせて十分に届いた。
「っ!」
あたしははっと息をのんだ。
その経験はないけれど、それを知らないふりをするほどあたしはもう子供じゃないし、鈍くもなかった。
ここで、それをすればこの先、土方さんはあたしの裏切りにもっと傷を深くする。
だからするべきではない。
自分を律するべきなのだ。
でもあたしは結局自分の心にわがままになってしまった。
嫌か?という問いに首を一度だけ振った。
土方さんはそれを見て一瞬目を開き、そして次の瞬間あたしを蒲団の上に倒してもう一度、今度は強引に奪うように唇を重ねた。
どうしよう…あたし、今死ぬほど幸せだ。
土方さんはキスをしながら大きな固い手のひらであたしの着物の裾を割って足を撫でた。
一瞬昔の悪夢が蘇りそうになり、体がこわばったけれど、すぐにその甘い感覚に意識が奪われた。
シュッ
衣擦れがしてあたしの腰ひもが解かれる。
胸元のあわせが緩み、あたしの小さな貧相な胸があらわになった。
昔、土方さんに胸も色気もないと言われたことを思い出し思わず横を向いた。
あたしは死ぬほど恥ずかしくて思わず体をこわばらせて着物の胸元を合わせた。
土方さんは首筋にキスを一つ落とすとそれは徐々に胸元へと下がって行った。
土方さんに触れられた部分が熱く熱を持った。
「やっ…あ…」
あたしは我慢できなくなって吐息を漏らす。
「そんなに煽るんじゃねえよ…」
土方さんは切れ長の目を細めてかすれた低い声で甘い声で言った。
その声は頭の先から震えが走るほど甘美で優しくてあたしはその幸せに酔った。
ごめんなさい、ごめんなさい。
あたしは今死ぬほど幸せです。
そして同時に自分の今犯そうとしている罪に心が暗くなった。
あたしはこの人を、新撰組のみんなを裏切るんだ。
なのにこんなことをする資格があるの?
あたしは徐々に冷えていく心を感じた。
そして目から一粒涙がこぼれた。
あたしはこの幸せに身を置きたいと思っている…。
それは許されないことなのに…。
不意にあたしから土方さんが体を離した。
あたしははっと目を開いた。
そこには意地悪そうに口の端をあげて笑う土方さんがいた。
「え?」
あっけにとられているあたしを前に土方さんは笑いながら何も言わずにあたしと自分の着物を整えて向き直った。
「馬鹿だなあ、無理してんじゃねーよ。」
「…。」
「まだ迷ってんだろ。ならやめとけ。」
「土方さん、あたしは…「水瀬」」
「その先は次に逢ったとき聞かせてくれ。
その時は俺も覚悟を決める。
だからお前もそん時覚悟が決まったらお前の全部を俺にくれ。」
あたしは小さく頷いた。
次なんて来ない。
来るはずもない。
だってあたしは死よりも遠いところに行くのだから。
でも、この約束が叶うことがなくても、それでも、夢を見たかった。
土方さんはそんなあたしを見て満足したのか、静かに笑って言った。
「俺もさ、まだお前を抱く覚悟がねえんだ。この先のこと、とか、新撰組のこと考えたら中途半端にお前を抱いて不幸にしたくねえんだ。すまねえな、俺に意気地がなくて。」
こんな穏やかな土方さんは初めて見る。
でも、きっと土方さんの本当の姿はこんな風に優しくて穏やかなんだと思う。
そしてそのあと、あたしたちはただ抱きしめあって眠った。
お互いの心臓の音を聞きながら…
お互いの体温を感じながら…
こんな夜はもう二度と来ないだろうことは十分にわかっていたから、あたしは空が白んで朝が来るまで土方さんのきれいな寝顔をずっと見ていた。
この大好きな人の顔を心に焼き付けておきたくて。
この泣きたくなるくらいに幸せな時間を少しでも多く感じていたくて。
土方さん、
いつだってあたしは貴方の背中を追いかけてました。
この恋は虹を追いかける恋だって思ってました。
でももう届いていたんです。
あたしたちは出逢えるはずがなかったんですから。
それなのに時の理を歪めるくらいにあたしの魂が貴方を求めて出逢えた、これは泣きたくなるくらい、途方もない奇跡なんですよね。
あたし贅沢すぎたんです。
貴方に出会えただけでも奇跡なのに、こんなふうに同じ時を過ごせて、貴方と同じ夢を見て、貴方の寝顔を心に刻めて…本当に幸せです。
だからあたしはこの一瞬の幸せを糧にこのさきの永遠にも続くような修羅の道を歩いていきます。
たとえ、道がそこで分かたれていても、進むべき方向が違ってしまっていても、心だけはあなたを想うことをどうか許してください。
こんな選択しかできないあたしをどうか憎んでください。
さようなら。
あたしは眠る土方さんを起こさないようにそっと蒲団から滑り出ると盆屋を後にした。
最後に一度だけ振りかえると、涙で歪んで愛しい人の姿は見えなかった。
雨上がりの世界は静謐。
そして信じられないくらいにきらきらしていた。
それはもう戻れない愛おしい世界の光景だった。