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虹に届くまで  作者: 爽風
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第十一章13.夢、来ない未来:土方歳三

あの時水瀬は確かに泣いていた。

壬生寺の境内で、雨に濡れて膝を抱えている水瀬は迷子の子供の様に頼りなく途方に暮れたような顔をしていた。

ただ一年ぶりに会った水瀬は薄い水浅葱の着物に身を包んでいてたおやかで美しくもうどうやっても男なんかには見えなかった。

俺は胸の奥に走る鈍痛に気付かぬふりをした。

俺を見た水瀬の目は赤くて泣いていたことが分かった。

何があった?

俺はとにかくあいつを休ませようと思った。

あいつの手首は折れそうなほどに細くて華奢で、濡れた髪から柔らかな甘い香りがかすかに俺の鼓動を速めた。

近くにはあいにく貸座敷の名をかたった盆屋しかなくて俺は心の中で舌打ちした。

だが、この雨の中冷え切った水瀬を連れて歩くには気が引けて俺は何でもない事のように言ったが、内心は穏やかではない。

山崎と、西本願寺に飛脚をやり、俺が部屋に戻った時、水瀬は髪を解いて、盆屋の主人に借りた着物に着替えていた。

薄紅の春を思わせる桜の着物は水瀬によく似合っていた。


畜生。

こいつと今夜一晩過ごすのかよ。

何が何でも、山崎んとこに送り返すべきだった。

俺は自分の行動を悔やんだ。





今水瀬は風呂に行っている。

まったくどんな顔してあいつに逢えばいいんだ。

「ああ、畜生!」

俺は悪態をつくとごろりと部屋の端に寝転がり、天井の木目を何ともなしに見た。


考えることは山ほどあるのに。

幕府の行く先、俺たちのこれから、伊東の策略…

それなのに、水瀬を見た瞬間そんなことはどうでもよくなった。

ただ、あいつが泣いている姿は儚くて、どうしようもないほどに心を揺さぶったから。

総司の言うことは本当だ。

俺は言い訳して逃げてるだけだな。

惚れた女と向き合うことから、自分の気持ちと向き合うことから。

まったく情けねえ男に成り下がったもんだぜ。

俺は自嘲気味に口の端をゆがめた。


「土方さん、ただいま戻りました。」

ふすまが静かに開くと風呂から帰ってきた水瀬がそこに立っていた。

温まったせいか血色がよくなり、頬が桜色に染まっている。

首元からちらりと白い肌がのぞき、髪を洗ったのか、濡れた髪からも湯気が出ていて、湯の柔らかな香りが鼻孔をくすぐり俺はあわてて下を向いた。

あほくせえ。

なんでこの俺が、女を知らないガキみてえに動揺しなきゃいけねえんだ。

「ああ、俺も風呂行ってくるから、先に飯食ってろ。」

俺は水瀬から目をそらして部屋を出た。



ザバン


勢いよく湯につかると俺は息を深く吐いた。

「ちくしょう…」

なんだってあいつはあんなに無防備なんだ。

上気した肌も、うるんだ瞳も馬鹿みたいに俺の心を乱す。

少し前に総司とともに密偵にやったが、総司のやつにもあんな表情を見せたのか。

総司も心穏やかではなかったろうな。

俺は困ったような総司の顔が脳裏に浮かび思わず笑みがこぼれた。

奥手な弟分の顔を思い浮かべたら少し心が落ち着いていくようだった。



風呂から上がって部屋に戻ると、水瀬は夕餉の膳に手も付けずにおとなしく座って待っていた。

「なんだよ。先に食ってろって言っただろ。」

俺の言葉に水瀬は小さく笑って茶化して答えた。

「そんな、鬼の副長より先にいただけませんよ。」

先ほど泣いていた奴の言葉とは思えない。

いったいどうしたんだ?

俺は怪訝に思いながらも、特にそれには答えずに鼻を鳴らして水瀬と向き合う形で膳の前に座った。

「食うぞ。」

「いただきます。」

俺たちは夕餉の膳に手を付け始めた。

水瀬はゆっくりかみしめるように飯を食っていた。

俺は味噌汁を飲みながら、箸できんぴらごぼうの人参をよける。

水瀬はそれを見て突然噴出した。

「なんだよ?」

俺は眉をしかめて言った。

「土方さん人参嫌いなんですか?」

水瀬はいたずらっぽく目を輝かせて言った。

「悪いかよ。」

「うふふ、だって子供みたい。」

「水瀬!てめ!」

顔を真っ赤にして笑う水瀬を俺は睨み付けた。

「あははは、土方さん顔真っ赤。」

そんな俺を見て笑う水瀬を見ていたら俺はどうでもよくなった。

なんだよ、この優しいくすぐったいような状況は。

なんでこいつが泣いていたのか、聞こうと思っていたが、どうでもよくなってしまう。

水瀬がここにいる、ただ笑っている。

それだけでこんなにも俺は救われる。


俺はころころ笑い続ける水瀬の膳から、卵焼きを一切れつかんで口に放りこんだ。

「あ、あたしの卵焼き!」

「ふん、上司を笑った罰だ。」

「パワハラ!!せっかくとっておいたのに!」

「ぱわはらってなんだよ?隙を見せたほうが負けなんだよ。」

「職権乱用ってことです!」



こんなふうに水瀬と話したことが今迄であっただろうか?

なんて柔らかで腹が立つくらい穏やかな時間。

まるで夫婦じゃねえか。

俺はこのくすぐったくてこそばゆいような時間を悪くないと感じていた。

俺はずっと修羅の道を歩いてきたしこれからもそうだろう。

俺の死に場所は戦場だ。

そう俺の魂が確信している。

死ぬその瞬間まで俺は走り続けるだろう。

そのことに何の迷いもない。

でも…なんだ?

この気持ちは。

水瀬を思うとき、俺は狂おしいほどの想いに駆られる、そして同時に柔らかで優しい泣きたくなるような気分にさせられる。

夫婦としてともに老い、共に死ぬ。

それはこんな風に一緒に飯を食ったり、笑いあったりする先に存在する未来なのだと思う。

今俺は、そんな泣きたくなるくらいに幸せな夢を見ているようだった。

それは決して訪れることはない切ないくらい幸せなもう一つの未来の姿だった。


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