第十一章 8.選択、捨てる覚悟
年が明け、慶応二年になるとあたしは23になった。
この冬は特に寒くて、ようやく寒さが緩みだしたのは弥生に入ってからのことだった。
今日は珍しく小春日和で、ストールもいらないくらいに暖かかった。
あたしはいつものように黒谷へ手紙を届けた後、少し時間があるので市場で、夕食の材料を見ていた。
「お倫ちゃん、今日は小松菜が安いで。」
八百屋のおじさんはもうすっかり顔見知りだ。
「ありがとう、じゃあ、もらおうかな。」
あたしは小松菜を大根と、豆腐屋さんで油揚げを買うと品物を受け取った。
こんな風に買い物するのも今では何の違和感もない。
わかっている。
これがいつまでも続かないことは。
でも、みんなが元気で、少しでも長く生きてほしいと思うから。
あたしは顔をあげて家路につこうと振り返ったその時、誰かにぶつかった。
どん
「ふぎゅ、ごめんなさい。」
「すまない。」
おかしな声が出て、あたしは鼻を押さえて顔をあげた。
同時にその人も顔をあげ、お互いに絶句した。
「「!!」」
そこにいたのは、桂小五郎だった。
「桂…「やあ」」
桂はあたしを遮ると憎らしいくらいに取り澄ました笑顔で言った。
「久しぶりだね。ここではなんだからこちらへおいで。君に伝えたいことがあった。」
「誰があんたとなんか…!」
あたしは桂の手を振り払って間合をとる。
「君と取引がしたい。こちらにおいで。」
桂はあたしの手をとらえるとその笑顔からは考えられない力でぎりぎりとあたしの腕を締め上げた。
「いっ…!」
「女性に手荒な真似はしたくない。こちらにおいで。」
あたしはなすすべもなく桂に手を引かれて路地に入ると近くの貸座敷に連れて行かれた。
そこは奥まっていて表通りの喧騒がうそのように静かだった。
「離して、よ!なんなの?ここであたしを殺すの?」
あたしは桂の手を振りほどくと向き直って見据えた。
「せっかちだね、華雪。君は殺さないよ。利用価値があるからね。」
桂は口の端をあげて笑ったけれどそれはぞくりとするくらい底冷えのするものだった。
「利用って何?あたしには何の価値もない。あんたに協力できることなんてない」
あたしは桂の整った顔をにらみあげた。
「君にとっていい情報だと思うよ。」
「何なの?」
「新選組を解散させる動きが幕府の中で出ている。局長の近藤勇、副長の土方を切腹、隊士たちは禁固、なのだそうだ。」
「なっ…!」
「幕府の老中御用取次松岡祐衛門に、なんでも新選組の隊士が公衆の面前で無礼を働いたとか。」
「そんなことあるはずがない。」
「信じるかどうかは君しだいだ。事実かどうかなんて関係ないのさ。幕府にとっては。幕府の中にも討幕の動きがあるのを知っているかい?邪魔な新選組を消すための材料ならなんでもいい。たとえねつ造あってもね。要するにそんな隙を作った人間の負けなのだよ。
何が自分にとっての誠なのか、それ以外を切り捨てる勇気がないものに武士を名乗る資格はない。君の仲間はそれを見誤ったのだ。どんな理由があったにせよ、この結果を導き出したのは軽率、自覚の欠如以外の何物でもない。」
まさか…。
あの時の左之さんと平助君のあの行動のことを言っているんだろうか?
あの行動がこんなに重い意味を持つものなんだろうか。
あの人を助けたことは人として当然だと思う。
あんなことで人が殺されるなんておかしいもの。
でも、身分が、悪しき因習があたしたちを呪縛する。
「…」
「幕府は腐っている。こんな汚い手を使って身内同士のつぶしあい。大局を見られぬ愚か者ばかりだ…。華雪、いや、水瀬といったか、われらとともに来なさい。君はこの古い因習の中で幕府とともに、新選組とともに沈むべき人間ではないだろう。
以前、君がわれらの中にもぐりこんだとき、君が新たな時代に必要だといったのは本当だ。時代感覚、大胆さと繊細さ、潔さ、そのどれをとっても幕府の下らぬ役人に引けを取らぬほどの外交感覚を持っていると思っている。
…そして先の世が見える不思議な力がある。
新たな時代がどうなるか君は知っているのだろう?
なぜならこの世のものではないから。
聡明な君ならどうするべきかわかっているだろう?」
一瞬すべての音が消えた。
何を言っているのか…
あたしは目を見開いたまま何も言うことができなかった。
「…!」
この人がなんで…!!!
「その顔は図星かな?なぜ知っているかって?
君達のことはよく知っているさ。いい情報を流してくれるネズミをもぐりこませているからね。」
スパイ!!
でも誰が?
あたしのことを知ってるのは試衛館の幹部たちだけなのに。
まって、禁門の変のときに怪我をして、あたしのことがばれたとき、あたしの世話をしてくれてたのは…
新之助君…。
まさか、そんな彼が…スパイ?
そんな…!!
「!」
「ふふ、気づいたかい?人を簡単に信用してはいけないよ。清水新之助、彼はなかなかいい仕事をした。君とおあいこだ。」
さも楽しそうに笑う桂が憎たらしい。
「それでも…行きません。あたしは新選組とともに生きるとそう決めてるから。」
あたしはまっすぐに桂を見て言った。
「…君が来ることで彼らの命が助かるといっても?」
「!」
「君をほしがったのは私だけではないんだ。勝海舟という男を知っているかい?幕府の人間だが非常にこちらとも話の合う人間でね。君がこちらに来るのなら、新選組解散の命は取り消すと約束してくださった。
これは取引だよ。水瀬真実、私は約束は破らぬ。」
これは体のいい脅しだ。
それに乗れば新撰組をこの先窮地に追い込むかもしれない。
でも…それでも…
「仮にあたしがそっちに行ったところで、あたしはあなたたちのプラスになることは何一つ何も話さない。何の利用もできないでしょう?」
「君は真実を見極める人間だから、どこにいようとも正しい方向を見極めてすすむだろう?」
「…」
この人は見ぬいている。
あたしが桂の考えや思想にひかれていることを。
この人の言うことは論理的で、現代に通じる思想をしている。
だから平成で育ったあたしはこの人の考えに否が応でも共鳴してしまうのだ。
「すぐには決められないだろうから、猶予をあげよう。
だからこのような形で君を脅しているかもしれぬが、誠意は尽くす。
君が首を縦に振ればすぐにも命を解く。それを確認したら君はこちらに来ればよい。」
こんなの脅しにあたしは従うしかできないのか。
あたしは選ぶことすらできない。
あたしはその時が来たらどうするんだろう?
あたしはただ、呆然と立ち尽くすしかなかった。