第十章 7.氷雨
雨が降って来た。
音もなく氷みたいに冷たい雨が枯れ草に落ちてカサカサ音を立てる。
あたしは薄暗くなった天を仰ぐと目に雨粒が当たって痛かった。
山南先生、逝ってしまわれたのですね。
これはきっと天が代わりに泣いているのだと思う。
この屯所の中にいる多くの泣けない武士たちの代わりに。
土方さんも、総司もきっと静かに、心の内に全てを飲み込んでこの時を受け入れたのだ。
「水瀬!」
あたしは振り向くといつの間に近くまで来て居たのか、土手の上に斎藤さんが傘をもって立っていた。
「斎藤さん…。」
ザクザク
枯れ草を掻き分けながら斎藤さんが近づいて来てあたしに傘を差しかけた。
「見事な最期だった。」
ぱた、ぱた…
番傘に当たる雨音が妙に大きく耳に響く。
「そうですか…明里さんは…どうされてますか?」
あたしは一人残す事になった明里さんの様子が心配になった。
自分の自己満足で連れて来てしまったけどそれは果たして良かったのだろうか…。
「大丈夫だ。あの女はきちんと総長と別れを済ませる事が出来た。もうしばらくやすませてから永倉さんが送る。だから案ずるな。」
「きちんとお別れが出来たなら…良かったんでしょうか。」
「なにも知らずに後で知らされれば、後悔が深まる。なぜ何も言わずに逝ったと行き場の無い恨みを持たねばならぬやもしれぬ。俺なら大事な人の最期を見届けたいと思うし、見届けて欲しいと思う。」
斎藤さんはしっかりと頷いて言った。
「あたし…なんで止められなかったんだろう…」
あたしは歴史を知っていて、みんなが死んで行くのを黙ってやり過ごす事しか出来ないのだろうか、今更ながらそれが重くのしかかる。
どんなに先を知っていても、あたしは未来を変えられない。
大事な人の死を止められない。
以前は歴史を変える事の方が怖かった。
でも今は歴史が歴史通り進む事の方が怖い。
歴史は連綿と続く過去の一瞬一瞬の積み重ね。
だから誰かの死もいろいろな一瞬の積み重ねの結果。
気づいた時にはもう抗いようのないほどにその死は決まってしまっている。
いつから…?
悩んでいる予兆はあったのに、それを見過ごしたが為にこんな事になってしまったのだ。
あたしはこんな風にこの先やりきれない思いを抱えて生きて行くんだ。
「…水瀬にとっては…俺たちの事は過去の事かもしれぬが、俺たちにとっては総長の事もまだ起きていない未来の出来事だった。だから"もしあの時"という概念は存在せぬのだ。お前の時代にどう伝わっているかは知らぬが、今己がここにいること、己が生き抜いて来たこと、それが全てなのだと思う。
だからその時の最善を尽くし、一瞬を精一杯に生きることしか出来ぬ。
その上で死が訪れるのならば、それもまた運命。
それに総長は幸せだったと思う。
己の誠を貫き、己の死に方を己で決めたのだ。
そして武士として見事に逝った 、これ以上の幸せはあるまい。」
「斎藤さん…そうですよね、あたし思い上がってました。」
人の生き死にを自分がどうにかできるなて、思い上がりもいいとこだ。
あたしはあたしの最善を尽くすしか無いんだもの。
ぱた、ぱた…
「水瀬、お前はそのままで良い。お前は泣きたい時に泣いて、あとは笑っていろ。
感情を殺さねばならぬ武士の代わりに、たくさん泣いてたくさん笑え。
ただそれだけで良い。もっともお前はそんなタマじゃないだろうがな。男に守らせない、武士の様に潔い。漢の中の漢。」
斎藤さんはそう言って呆れたように笑った。
「酷い!」
あたしは大げさに目を見開いてみたけど、斎藤さんがこんな風に茶化すなんて信じたれない気分だった。
気遣ってもらってるんだな。
そう思ったら、元気が出て来た。
「もう暗い。送ろう。」
「はい」
あたしたちは薄墨色の氷雨の中を歩き出した。