第9話 隣国の噂
「リリア。お前は隣国の、アルディナ王国についてどれほどのことを知っている?」
父、アルヴェルト辺境伯の低く響く声が、書斎の空気を震わせた。
彼は壁に掛けられた地図の東側、我が国の領土に比肩する、
あるいはそれ以上の面積を持つ広大な国土を指差した。
そこは、軍事至上主義を掲げる我がアルヴァレード王国と、
古くから国境を接し、緊張と均衡を保ち続けてきた大国である。
「……商業の要衝であり、魔道具などの技術革新を重視する国。
伝統よりも実利を重んじる気風がある、とは聞き及んでおりますが」
私が記憶の底から知識を拾い上げて答えると、父は重厚に頷いた。
「その通りだ。アルディナ王国は、あらゆる面で我が国とは正反対の道を歩んでいる。
彼らは軍事魔法の単発的な破壊力に固執するのではなく、
魔法を組み込んだ道具の発明や、それによる産業の自動化、
物流の効率化といった『国力の底上げ』に重きを置いているのだよ」
父は地図を見つめ、どこか羨望の混じった、深い溜息をついた。
「あちらでは、魔法を単なる『破壊の道具』としてではなく、
『人々の生活を根底から豊かにする技術』として評価する土壌があるという。
画期的な発明品には国から多額の報奨金が支払われ、
たとえ平民の出であっても、優れた技術者は貴族並みに優遇されるそうだ」
それは、軍事魔法の威力こそが人間の価値を決めると信じ込まされている
このアルヴァレード王国では、天地が引っくり返ってもあり得ない価値観だった。
「リリア。お前が心血を注いできた魔法は、この国では『役立たず』と嘲笑われた。
だが、合理性を尊ぶアルディナ王国ならばどうだ?
魔力消費量0.01%以下という、物理法則を疑うほどの高効率魔法を、
誰もが喉から手が出るほど欲しがるはずだ」
父の言葉が、氷のように固まっていた私の胸の奥に、
小さな、しかし確かな希望の灯火を宿した。
「私の……あんなにも蔑まれた生活魔法が、
評価される可能性があるというのですか? 本当に……?」
「ああ。あちらの国には、優れた発明を他者が盗むのを防ぎ、
開発者が正当な富を得られる『魔法特許』という概念さえ芽生えつつある。
お前の精密な魔力制御と、あの『保存魔法』の術式があれば、
向こうの国の産業構造を文字通り根底から変えてしまうだろうな」
父は私の肩に節くれ立った大きな手を置き、
逸らしようのない真っ直ぐな眼差しで、私の心に訴えかけるように告げた。
「この国に留まれば、お前の才能はあの無知な王太子によって、
価値のない石ころとして押し潰されるのを待つだけだ。
だが、一歩外の世界へ飛び出せば、お前は世界を救い、
時代を塗り替える天才として迎えられることになるだろう」
隣国、アルディナ王国。
そこには、私の魔法を「お冷」と笑わない人々がいるかもしれない。
軍事魔法の殺傷能力ではなく、その技術が人々の生活を、
どれだけ健やかに、どれだけ豊かにしたかを競い合う世界。
私は、アルヴァレード王国の軍靴の音が絶えない冷たい空気の中で、
ずっと胸を締め付けられるような、息苦しい思いをして生きてきた。
しかし今、隣国の噂という「未知の可能性」を聞き、
人生で初めて、新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込めたような気がしたのだ。
「リリア。決めるのは、他の誰でもないお前自身だ」
父の重みのある言葉を受け、私は静かに瞳を閉じ、自らの内面に問いかける。
脳裏に浮かぶのは、私を無能と呼び、婚約破棄を突きつけた王太子の歪んだ顔。
私の努力を嘲笑った貴族たちの、浅薄な笑い声。
そして、その背後に広がる……。
生活という土台を軽視し、徐々に疲弊し、
砂上の楼閣のように衰退していくアルヴァレード王国の、救いようのない未来。
私はもう、この国に尽くすべき義理も、愛すべき理由も持ち合わせていない。
「お父様。私……アルディナ王国へ行きたいです。
この技術が、本当に人を幸せにできるのかどうか、確かめさせてください」
私の決断に、迷いはなかった。
たとえそれが、生まれ育った故郷を捨てることになろうとも。
しかし、その先に待つ運命が、
一人の若き孤高の宰相エリオットとの出会いから始まり、
大陸全土を揺るがす壮大な「産業革命」へと繋がっていくことなど。
この時の私は、まだ夢想することすらできていなかった。




