第18話 国境越え
アルヴァレード王国の最東端。
隣国へと続く最後の関門である国境の街「バンダル」に、私は到着した。
父、アルヴェルト辺境伯から授けられた、
元王国騎士グランツ率いる五名の精鋭護衛と共に、私は静かに馬車を降りた。
そこは、故郷を捨てる者と新天地を求める者、
そして莫大な物資が交差する、熱気と混沌に満ちた場所であった。
しかし、街の見かけの活気とは裏腹に、
そこには言葉にしがたい不穏な「停滞」が澱みのように漂っていた。
軍事国家であるアルヴァレード王国の末端に位置するこの街では、
利用可能なすべての魔導資源が「国境警備の巨大結界」と、
「軍用魔道具」の維持に最優先で配分されている。
その結果、民衆の日常を支えるべき基盤は、
今や音を立てて崩壊する寸前の危機に瀕していた。
「……ひどい。これが、軍事魔法至上主義が辿り着く果てなのね」
私は、広場の中心に鎮座する、無惨に枯れ果てた巨大な井戸と、
その周りで力なくうなだれる人々を見て、胸を締め付けられる思いで呟いた。
街には深刻な水不足が蔓延し、さらに物流の滞りから、
貴重な食料が次々と腐敗するという、救いようのない二次被害が発生している。
本来、この街を、そして民を救うべき「生活の知恵」としての魔法は、
王都にふんぞり返る貴族たちによって「役立たずの児戯」と切り捨てられてきた。
彼らは敵を穿つ破壊の力に全予算を投じ、
民が明日を生きるための水一杯すら、魔法で用意することを「卑俗」だと軽視したのだ。
私は、懐にある『生活魔法カタログ80』のずっしりとした重みを確認し、
迷うことなく、乾いた石畳を踏みしめて歩き出した。
「お嬢様、どちらへ? 国境の入国審査まではまだ時間がありますが」
護衛のグランツが不審そうに尋ねるが、私は答えずに井戸の前に立った。
瞳を閉じ、自身の内側にある魔力を、
産毛よりも細く、しかしダイヤモンドよりも高密度に練り始める。
私の魔法が持つ基本スペックは、もはやこの国の常識の外にある。
・魔力消費量:0.01%以下
・精密制御 :誤差0.01度以内
「生活魔法カタログ第2番『水生成魔法』、
および第1番『清浄水生成』――同時、多重発動」
軍事用の雨生成魔法のように、広範囲に魔力を散布して大気をかき乱すような、
そんな野蛮で無駄な真似はしない。
私は空気中の水分を分子レベルで直接捉えて収束させ、
それを井戸の底という一点に、物理的に固定した。
魔力消費量は、軍事用魔法の百分の一にも満たない。
ゴゴ……という、大地が震えるような低い鳴動。
次の瞬間、干上がっていた井戸の底から、
水晶のように透き通った清らかな水が、あふれんばかりに湧き出した。
「なっ、なんだ!? 水が出たぞ、水が!」
「軍事魔導師様でもないのに、これほど短時間で、
しかもこれほど大量の水を生成するなんて……あり得ん!」
集まってきた人々から、割れんばかりの驚愕の叫びが上がる。
しかし、私の介入は、これだけでは終わらない。
次に私は、広場の隅で、腐敗し始めた食材の山を前に、
絶望に暮れている商人たちの元へ、静かに歩み寄った。
「カタログ第9番『殺菌魔法』、および第62番『保存輸送魔法』を適用します」
指先から放たれた微細な光の粒子が、食材を包み込む。
私は腐敗の根本原因となる細菌を瞬時に分子レベルで消滅させ、
同時に食材の温度を、誤差なく0.01度単位で「冬の冷気」へと固定した。
さっきまで鼻を突く異臭を放っていた野菜や肉が、
まるで今さっき収穫されたばかりのような、瑞々しい鮮度を取り戻していく。
商人は腰を抜かし、私の指先を、神の奇跡でも見るかのように凝視した。
「……信じられない。保存魔法など、王宮に納められる超高級魔道具でしか、
不可能だと言われていたはずだ。それを、ただの詠唱一つで……
しかも、これほどの精度で成し遂げるなんて……!」
私は驚きに震える彼らに小さく微笑みかけ、静かにその場を立ち去ろうとした。
「お嬢様、今の魔法は、一体……」
背後から追いかけてきたグランツの問いに、私は短く、誇りを持って答えた。
「生活魔法よ。王都の皆さんが、『お冷を運ぶだけの無価値な魔法』と呼んで、
ゴミのように捨て去った、あの魔法よ」
グランツは絶句した。
彼は元王国騎士として、軍事魔法がもたらす膨大な魔力消費と、
その果てにある凄惨な「破壊」の現場を数多く見てきた男だ。
だが今、彼の目の前にあるのは、わずか0.01%の魔力で人々の生活を救い、
死に体だった街の機能を一瞬で再生させる「創造」の力であった。
この国境の街で起きた小さな「革命」は、瞬く間に人々の間に広がった。
彼らが「無価値だ」と教育され、信じ込んできた常識が、
私の魔法という現実の前に、脆くも崩れ去ったのだ。
私は、アルヴァレード王国との最後の境界線である、
天を突くような巨大な石造りの門を、静かに見上げた。
「さようなら、アルヴァレード王国」
脳裏に浮かぶのは、自分を否定し続け、
「軍事魔法を使えない女は相応しくない」と私を追い出した王太子、
アルドリックの傲慢な顔だ。
しかし、彼のそのあまりにも浅薄な独断が、
どれほどの莫大な「富」と、かけがえのない「国力」を捨て去ったのか。
彼はまだ、その重大さを理解すらしていないだろう。
国境の向こう側には、隣国アルディナ王国が、
その広大な大地を横たえて私を待っている。
そこには、私の生活魔法カタログ80を「産業」として迎え入れる、
先進的な準備が整っているのだ。
魔法特許制度。技術者への手厚い優遇。
そして、発明家が貴族並みに尊重される、知的な文化。
私は、ゆっくりと馬車に乗り込み、新しい世界へと第一歩を踏み出した。
「生活魔法は、本当に無価値なのか」
その問いに対する答えは、既に、この国境の街の人々の、
太陽のような笑顔の中にあった。
私の魔法が、やがてこの世界に真の産業革命をもたらし、
力に溺れた旧き王国を、経済という圧倒的な力で屈服させる。
その予感は、国境を越えた瞬間に吹き抜けた、心地よい風と共に、
揺るぎない確信へと変わった。
私は、馬車の窓から遠ざかる故郷を、一度として振り返ることはなかった。
ただ、東へと続く、光り輝く道だけを見つめていた。
そこには、魔法特許都市ルミエールの礎となる、私の輝かしい未来が待っている。
第2章の幕引きは、私という「至宝」を自ら捨て去った、
アルヴァレード王国の、長き終わりの始まりでもあったのだ。




