第12話 辺境伯の怒り
「――あの愚か者が、そこまで増長していたとはな。
若さゆえの過ちという言葉では、到底片付けられん暴挙だ」
重厚な黒檀の執務机が、父の硬く握りしめられた拳によって激しく叩かれた。
その衝撃でインク瓶が小さく跳ね、室内には重苦しい振動が走る。
アルヴェルト辺境伯の顔は、かつて戦場で鬼神と恐れられた時のような、
静かな、しかし凄まじい怒りによって赤黒く染まっていた。
「お父様、申し訳ありません。私に、軍事魔法の才能があれば……。
王太子殿下の期待に応えられず、家門の名を汚すような形になり……」
私が俯き、謝罪の言葉を口にしようとすると、
父は鋭く、それでいて深い慈しみを湛えた声でそれを遮った。
「謝るな、リリア。お前が謝る必要など、この世界のどこにも存在しない。
非があるのは、恩義も道理も忘れたあの若造の側だ」
父は椅子から立ち上がり、窓の外に広がる厳しい北方の台地をじっと見つめた。
そこには、吹き荒れる吹雪と魔物の脅威にさらされながらも、
限られた資源と魔力を極限までやりくりして領民を守り抜いてきた、
辺境伯としての矜持と、現場を支える者としての冷徹な視線があった。
「国王陛下と王妃殿下が、国家の未来を賭けた外交のために不在にされている……。
その隙を狙い、己の独断だけで王室が定めた婚約を破棄するだと?」
「あまつさえ、公衆の面前でお前を『役立たず』と嘲笑い、
自らの身勝手な欲望のままに、新しい婚約者を発表したというのか」
父の言葉一つ一つには、もはや隠しようのない破壊的な怒気がこもっている。
これは単なる若者同士の心変わりや、男女の別れという次元の話ではない。
王家が、代々にわたって北の盾となり国を支えてきた重鎮を、
公衆の面前で真っ向から踏みにじり、侮辱したに等しい政治的暴挙だった。
「リリア。お前がこの数年間、寝食を忘れて磨き抜いてきた生活魔法の価値。
その真髄を、あの甘やかされた若造は、露ほども理解していない」
父はゆっくりと私に向き直ると、その節くれ立った大きな手で私の肩を掴んだ。
その温もりと力強さに、王都で凍りついていた私の心が少しずつ解けていく。
「魔力消費量わずか0.01%以下。その極小の負荷で、
完璧な温度管理と水の浄化を、持続的に、かつ広範囲に行う。
それがどれほど領地の、いや、この国家全体の寿命を延ばすことになるか」
父の瞳には、冷徹な戦略家としての分析と、
娘の類稀なる才能を誇る親としての慈愛が、複雑に混ざり合っていた。
「軍事魔法の、目に見える破壊の威力だけに目を奪われ、
国を内側から、そして底辺から支え続ける『基盤』を役立たずと切り捨てる……。
そんな浅はかな男に、この国を導く資格などあろうはずもない」
父は窓の外の荒野を指差し、吐き捨てるように最後の一言を口にした。
「……アルヴァレード王国は、狂ったな。
力に溺れ、理を捨てた国に、もはや守るべき価値などない」
それは、建国以来、幾多の危機から王国を救ってきたアルヴェルト家が、
現王権に対して完全に見切りをつけた、歴史的な瞬間だった。
私の中に微かに残っていた王都への未練や、自分への不甲斐なさは、
父のその力強い言葉によって、跡形もなく消え去った。
冷たい風が吹き抜ける辺境の地で、私の心には、
今までになく静かで、燃えるような確信が宿っていた。




