032.二重生活の代償
氷の聖域の静寂を守るためには、莫大な「対価」が必要だった。
数百人が飢えることなく、凍えることなく生きるための食料、医療品、そして地下区画の維持に必要な魔導具の部品。
それらはどれも、祈るだけで空から降ってくるものではない。
すべては「金」と「資源」という生々しい現実に直結していた。
「……また、行ってくる。 ノエル、後は頼んだぞ」
俺は氷のドームの境界に立ち、ノエルに背を向けて告げた。
彼女は何も言わず、ただ俺のボロボロになったマントを優しく整えてくれる。
その瞳には、俺がこれから「何」をしに行くのか、すべてを察した上での痛切な献身が宿っていた。
ノエルは、俺が地上で手を汚していることを知っている。
そして俺も、彼女がそれを承知で待っていることを知っている。
この共犯関係だけが、俺の支えだった。
地上へと続く鉄の梯子を昇れば、そこは欲望と計算が支配する摩天楼の街だ。
俺はフードを深く被り、レオンが指定した裏通りの古い時計店へと足を運んだ。
「おや、時間ぴったりだ。
仕事熱心なことで助かるよ、ガルシア君」
レオンは優雅に椅子に腰掛け、一枚の羊皮紙を差し出した。
これまでに数回の依頼をこなす中で、俺とレオンの間には、言葉にせずとも通じ合う「歪な理解」が成立していた。
俺が『掃除』したはずの人間を地下に囲い込んでいることなど、この男の耳に入っていないはずがない。
それでもレオンはそれを議会に売らず、あえて俺を利用し続けている。
「今回の掃除対象は、北西の第四ドックを占拠している武装密輸団だ。
彼らは議会の許可なく禁制品を扱っていてね。
君の『冷徹な掃除』で、跡形もなく消し去ってほしい」
「……分かった。
対価は、先週頼んだ小麦と抗生剤だ。
地下の指定場所に運び込ませておけ。
……お前が何を企んでいようと、物資さえ届けば文句はねえ」
俺が突き放すように言うと、レオンは愉快そうに目を細めた。
「契約成立だ。
……それにしても君も奇特な男だ。
私の『犬』として泥を被り、その報酬でドブネズミたちを養うとは。
君が地下に築いている『箱庭』が、いつまで議会の目を盗んでいられるか……
非常に興味深い投資対象だよ」
レオンの嘲弄を無視し、俺は店を後にした。
その夜、第四ドックは音のない極寒に包まれた。
俺の放つ氷は、もはや純白ではない。
どす黒い魔力を帯びたそれは、標的となった密輸団の男たちを慈悲もなく凍てつかせていく。
密輸団たちは氷の塵となり、宙を舞う。
しかし、全員を殺すわけではない。
密輸団たちに奴隷とされていた者たちを、混乱に乗じて地下へと「回収」する。
俺が地下で「救世主」としての顔を保つたびに、地上の俺の手は逃れようのない罪の冷たさに染まっていった。
聖域を守るために、俺は自ら修羅へと堕ちる。
地下の子供たちが笑うたびに、俺の心の中にある「何か」が、腐った氷のように崩れ落ちていく感覚があった。
◇◇◇
時を同じくして、シトラス王国の辺境。
カイルは王命に従い、かつてないほどに過酷な「魔物討伐の旅」を続けていた。
そこは、切り立った岩壁が続く死の谷。
巨大な甲殻を持つ魔物の群れを、カイルの放つ聖剣の輝きが一閃のもとに両断する。
周囲には、カイルを援護するはずだった騎士たちの姿はなかった。
魔物のあまりの強大さに、彼らはカイル一人を囮にして、さっさと後退したのだ。
勇者なら死なない、勇者なら勝てる。
そんな傲慢な「信頼」が、カイルを戦場に孤立させていた。
「……ハァ、ハァ……っ」
最後の一体を仕留め、カイルは血飛沫の中で膝をついた。
その顔には、かつての温厚な笑みなど欠片も残っていない。
ただ、任務を完遂するためだけの、精巧に作られた人形のような無表情。
クロス共和国で味わった「入国拒否」という拒絶。
そして、自分を救世主という「象徴」としてしか扱わず、消耗品のように戦場へ投げ出す自国への不信感が、彼の心を内側から削り取っていた。
「勇者様! お見事です! さすがは我が国の誇り!!」
安全な場所から戻ってきた騎士たちが、白々しい賞賛の声を上げる。
カイルは彼らを一瞥もせず、ただ左手の「太陽のあざ」をじっと見つめていた。
かつてガルシアとこの力について語り合った時は、希望に満ちていたはずだった。
だが今、このあざから放たれる輝きは、カイルにとって自分を縛り付ける鎖そのものだった。
「……次の場所は、どこだ」
カイルの声は、感情を失い、ひび割れた石のように冷たかった。
民の期待、王の野心。
それらを一身に背負い、大陸中にその名を轟かせるたびに、彼は「カイル・シーカー」という一個の人間を殺し続けていた。
地下で汚れ仕事を請け負う英雄。
地上で心を殺し続ける勇者。
二人の距離は、同じ大陸にいながらにして、もはや交わることのない天と地の差ほどに開こうとしていた。
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