010.分かたれた道、孤独な背中
喧騒が遠のいていく。
背後で鳴り響く祝祭の鐘の音も、勇者の名を叫ぶ群衆の声も、今の俺にはひどく空虚に聞こえた。
宿屋の扉を開けると、昼間と同じ温かい木の匂いが俺を迎えた。
女将に目配せし、二階の角部屋へ向かう。
ノックを三回。
返事はないが、微かに気配が動いたのが分かった。
「……俺だ。 入るぞ」
鍵を開けて中に入ると、ノエルが窓際の椅子に深く腰掛け外を眺めていた。
テーブルの上には女将が用意した食事が手付かずのまま置かれている。
「……ガルシア、さん」
彼女が静かに俺を呼んだ。
あの檻の中での震えるような拒絶は、今はもうない。
けれど、その瞳に宿る深い翳りは、たった数時間の休息で消えるようなものではなかった。
「気分はどうだ。 ……少しは、眠れたか?」
俺が近づこうとすると、彼女の指先がピクリと跳ねた。
俺は苦笑し、適度な距離を保って壁に背を預ける。
この手に宿った理不尽な氷の熱を、彼女は本能で嗅ぎ取っているのかもしれない。
「……外が、騒がしいですね。
勇者様が、悪党を倒したって…… みんなが言っています」
彼女の言葉に、俺は胸の奥を小さな棘で刺されたような感覚を覚えた。
勇者が悪を討ち、王都に平和をもたらした。
それが表向きの真実だ。
「ああ。カイル……
あいつは勇者だからな。
これからはもっと有名になるだろうさ」
俺が投げやりに答えると、ノエルがゆっくりと俺の方を向いた。
その大きな瞳が、まっすぐに俺を見据える。
「……でも、私を助けてくれたのは、あなたです」
その一言に、喉の奥が詰まった。
誰も知らない、箝口令の敷かれた真実。
それを知っているたった一人の少女が、俺の「英雄」としての唯一の証人だった。
「…………。
俺は、勝手に首を突っ込んだだけだ」
照れ隠しの言葉を吐いて、俺は懐からなけなしの銀貨を取り出しテーブルに置いた。
「これからは、どうする。
……故郷に帰るのか? それとも……」
ノエルは置かれた銀貨を見つめ、それから自分の細い手を見つめた。
「……私には、帰る場所なんてありません。
昔から、ずっと……」
彼女の語った過去は、あまりに凄惨だった。
天真爛漫な性格そして、その可愛いらしい容姿ゆえに、幼い頃から幾度も攫われ、三年前には南の大陸で一ヶ月もの間、心を壊されるほどの地獄を味わったこと。
シトラス王国へ逃げてきてもなお、また同じように権力者の欲望という闇に飲み込まれそうになったこと。
「誰も……
信じられなかった。
でも……」
彼女はそっと、俺の方へ手を伸ばした。
触れはしない。けれど、その指先は確かに俺を求めていた。
「あなたが、私を助けてくれた時。
……怪物みたいに怖かったけど、それ以上に……
あなたが、泣きそうな顔をしているように見えたから」
俺は、何も言えなかった。
怪物。
魔王。
そんな風に呼ばれてもおかしくない力を振るいながら、俺は確かにあの子を怯えさせてしまったことに絶望していた。
それを彼女は見抜いていた。
「……俺は、これからも汚れ仕事をすることになるかもしれない。
……カイルみたいに、光の中を歩くような真似はできねえ」
俺は独り言のように呟き、部屋の入り口へと向かった。
「明日、あいつ…… 勇者様のお披露目式典がある。
それが終わったら、俺はこの街を出るつもりだ。
カイルとは…… もう、一緒にはいられない」
親友が光なら、俺は影だ。
カイルに手柄を譲ったのは、あいつを守るためだけじゃない。
俺自身のこの禍々しい力が、あいつの歩む道を汚してはいけないと思ったからだ。
「……ついていっても、いいですか?」
震える声が、背中に届いた。
俺は足を止め、振り返らずに答える。
「……苦労するぞ。
飯だって、毎日美味えもんが食える保証はねえ」
「……それでも、構いません」
俺は少しだけ口角を上げた。
それは、今日初めて浮かべた、本物の笑みだったかもしれない。
「……好きにしろ。
明日、式典が終わったら城門の前で待ってる」
部屋を出て、俺は宿の階段を降りた。
翌日。
王都ガイアは、勇者のパレードに沸き立っていた。
白馬にまたがり、光り輝く礼装を纏ったカイル。
大勢の群衆に囲まれ、微笑みを浮かべながら手を振るその姿は、どこからどう見ても正義の味方そのものだった。
遠く、群衆の隙間からそれを見つめていた俺は、あいつと目が合った気がした。
カイルの表情が、一瞬だけ歪む。
罪悪感か、それとも拒絶か。
俺は、あいつに背を向けた。
勇者は光り輝く王道を往く。
人々の期待という重荷を背負いながら。
俺は、どこまでも続く荒野を往く。
己の欲望と、たった一人の少女の願いだけを道標にして。
『――くふふ。
ついに出発か。
面白くなってきたのう、英雄ガルシアよ』
「……英雄なんかじゃねーよ」
脳裏に響く悪神の声を蹴り飛ばし、俺は一歩を踏み出す。
俺たちの道は、ここから完全に分かたれた。
二度と交わることがないかもしれない。
それでも、俺は俺のやり方でこの理不尽な世界をぶち壊していく。
俺の名は、ガルシア・オルランド。
この先「英雄」と持て囃されるのか。
もしくは「魔王」と世界から蔑まれるのか。
――俺は、俺の信じる正義を貫くだけだ。
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