1.配給所の列
朝の冷たい空気を震わせるように、街の中央広場には長蛇の列が伸びていた。
「配給所」と刻まれた古い建物の前には、数百人にも及ぶ市民が押し寄せている。
老人、病人、母親に抱かれた子ども。痩せこけ、虚ろな眼差しをした人々が、手にした金属の器を握りしめ、黙々と自分の順番を待っていた。
列の脇には、制服に身を包んだ数名の男たちが立っていた。
市民たちは彼らを尊敬と畏怖の入り混じった眼差しで見上げる。
法の下で"力"を使うことを許された者だけが、こうして堂々と街を守ることができる。
「やっぱり、力のある人間は違うな……」
列に並ぶ中年の男がそう呟くと、隣の女が小声で返す。
「でも、私たちにとっては遠い世界さ。配給のスープ一杯で生きていくだけで精一杯なんだから」
配給所の扉が開くたびに、かすかな肉と野菜の匂いが漂い、列の人々の胃袋をさらに刺激する。
だが器に注がれるのは、薄いスープと小さなパン切れ。
これが「平等」をうたう現代社会の現実だった。
同時刻。
神谷悠真は、広場の喧騒から遠く離れた高層ビル群の一角にある「天穀産業」本社に足を踏み入れていた。
冷房の効いたロビーには大理石が敷き詰められ、巨大なモニターには「天穀産業、今期も最高益更新」の文字が踊る。
配給所で人々が飢えに苦しむその同じ時刻に、自分の勤める会社は記録的な利益を叩き出している。
経理部のフロアに着けば、机の上には利益報告書や株価の推移グラフが並び、上司たちは誇らしげに語り合っている。
「今期の配給状況は順調だ。政府からの追加発注も見込めるぞ」
「俺たちもだが、株主は笑いが止まらんだろうな」
彼らの声を聞きながら、悠真は目を伏せた。父の口利きで入社した自分は異を唱える立場にはない。
しかし、あの配給所の列の光景が頭から離れなかった。
その夜。
薄暗い酒場の奥の席で、悠真と佐伯陽介は向かい合っていた。
グラスの中で氷が溶ける音と、隣の席から聞こえる笑い声が交じり合う。
テーブルの上には、酒とともに簡素な料理がいくつか並んでいた。
「こうして飲むのも久しぶりだな」
悠真は疲れを隠すように笑った。陽介も笑みを返すが、どこかぎこちない。
やがて、会計の伝票が机に置かれた。陽介が軽く視線を逸らし、口を開いた。
「悪い、今日は払えそうにない。頼んでもいいか」
その言葉に、悠真は違和感を覚える。国家公務員の陽介が、こんな酒場の支払いをためらうなんて。
悠真が不意に陽介のカバンへ視線を落とした。わずかに開いた隙間から、見慣れぬゼリー状の塊がのぞいていた。包装もなく、濁った色をしたそれを見て、悠真の胸がざわつく。
「それ、まさか疑似食品か?」
陽介の肩がびくりと震えた。
彼は慌ててカバンを閉じようとするが、悠真の視線から逃れることはできなかった。
観念したようにつぶやく。
「ああ。これで明日はもつ」
陽介は苦笑しながら小声で続けた。
「栄養は偏ってるけど、腹は膨れる」
悠真は身を乗り出す。
「馬鹿なことするな! あれは体に悪いって。しかも思考まで鈍るんだぞ」
陽介はグラスを回しながら、虚ろな目をした。
「わかってるさ。でもな、配給だけじゃ足りない。俺は国家公務員だぞ? みんなから“エリート”って言われる。けど実際は、食欲すらまともに満たせないんだ」
彼の声は、疲労と諦めに満ちていた。
「だから、こうするしかないんだ」
悠真は言葉を失った。
裕福な家庭に生まれ、天穀産業の支えで満ち足りた食を当たり前に享受してきた自分。
その隣で、陽介は命を削るように疑似食品に頼っていた。
深夜。
悠真は重い足取りで帰宅した。玄関を開けると、灯りはまだついていた。
リビングに入ると、母が「遅かったわね」と言いながら、温かい料理をテーブルに並べていた。
皿には肉のソテー、湯気を立てるスープ、焼きたてのパン。外食するよりも豪華な食事だ。
そして、外の世界が飢えに苦しんでいることを、まるで忘れさせるほど豊かな食卓だった。
「お父さんは遅くなるって」
母はそう言い、にこやかに椅子を勧める。
悠真は席に着いた。しかし、箸を持ったまま動けなかった。
陽介のカバンから覗いた疑似食品。あの濁ったゼリーの塊。
「国家公務員」という肩書きを持ちながら、彼はまともに食事すらできていない。
一方、自分の目の前には贅沢な料理が並んでいる。
肉を切り分ける香ばしい匂いが、今はただ胸を締めつけた。
「どうしたの? 口に合わなかった?」
母の問いに、悠真は慌てて首を振った。
「いや、疲れてるだけだよ」
裕福な家庭に育ち、「食卓が満たされること」を当然と思ってきた自分。
だが、陽介の虚ろな目と、カバンの奥に隠された疑似食品が脳裏から離れなかった。
食は、本当に平等だろうか。
その問いが、胸の奥で静かに芽吹き始めていた。
答えを見つけることはまだできない。




