私は誰?私は古月真名
私は誰?
私の名は古月真名。世間一般で言うところの「三無少女」というやつだ。
私には、オタクの父と、幼い頃に私を捨てたという母がいる。そして、私に優しく接してくれるものの、些細なことばかり気にする祖父母もいる。
オタクの父は、純粋な「三無少女コン」で、かつては他の多くのオタク同様、こう豪語していた。
「嫁にもらうなら絶対娘を産む。もし息子が生まれたら絞め殺すか、セーブ&ロードだ。美少女育成ゲームのやりすぎか、それとも走火入魔したのか。オタク10人中9人は受け、オタク10人中9人はM、オタク10人中9人は娘を育てたい……」
後に、私は典型的な三無少女の口調で静かに父に尋ねたものだ。
「もし私が男の子だったらどうするの?」
「それならお前に古月雪緒って名前をつける」
父は間髪入れず、『指先ミルクティー』という漫画の典故を引いて答えた。
『指先ミルクティー』とは一体どんな漫画なのか?
聞くところによると、とんでもない代物らしい。
内容紹介:『指先ミルクティー』、別名『少年美眉』。女装癖、幼馴染、学園恋愛、百合、偽百合、ロリコン、熟女好き、姉弟不純愛、隣のおじさん、女装して親友を誘惑、鎖骨フェチなど、あらゆる要素を詰め込んだ無敵の邪道漫画と称されている。主人公のこのケダモノは、ロリを食い、熟女を飲み込み、実の姉に手を出し、さらに百合専門のロリまで食らおうとする。そして、女装した自分に酔いしれ、女装して親友と鎖骨フェチを誘惑する。
どうやら父の執念は筋金入りのようだ。
以前、多くの叔父さん叔母さんに私の名前の由来を尋ねられたことがある。父は、私が将来、素直で大らかな優しい女性になることを願っていると言っていた。
しかし、父の真意を知る者は少ない。
根っからのオタクである彼は、当然、多くのアニメの美少女、特に三無少女に心酔している。聞くところによると、彼は当初、とんでもない名前を私に付けようとしていたらしい。
私の命名時、『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイに影響を受け、「レイ」と名付けようとしたそうだ。ところが、祖父母が反対した。「古月レイに」という名前は「男を惑わす悪女」を連想させ、他の家の男を誘惑するような良くない女のようだ、と。
しかし、私が見た実際の狐は、彼らが言うようなものではなく、隣の三郎おじさんの家の白い犬のようにおとなしかった。父が昔言っていた「大人を信じるな、大人は嘘つきだ」という言葉は真実だったのだ。
少し話が逸れてしまった。
では、なぜ私の名前は「真名」なのだろうか? それはこの典故による。
『新世紀エヴァンゲリオン』の劇場版ゲーム『鋼鉄のガールフレンド』のオリジナルヒロイン。EVAの他のキャラクター設定と比較すると、真名は性格的にアスカの穏やかなバージョンであり、憧れの対象としてより適切であるように思える(笑)。声優は綾波レイと同じ林原めぐみだ。
そして、父のそれらしい大袈裟な説明の末、祖父母はついに納得した。
「真名」とは「一度言ったことは変えない」という意味で、将来、彼の娘は素直で大らかな優しい女性になるだろう、と。
ああ、私の名前の由来はこんな具合だ。
私がなぜ今のような人間になったのかって? すべては、私自身の生来の「良い子」の性質と、「三無少女コン」の趣味を持つ父のせいだ。
オタクの父は、結婚前から言動が破天荒で、よく突拍子もないことを口にしていた。
結婚して間もなく女に捨てられた。周囲の意見では、一生懸命お金を稼がない父は情けない男だということだ。
【情けない男なんていない。ただ長所が他人に認められないだけだ。】
父はよく上の言葉で自己を正当化していた。
父に他人とは違う長所があるとするならば、それは社会に受け入れられないような独特の教育方針だろう。
父の長年の教育と刷り込みの結果、
私にとってはごく当たり前のことでも、他の人には信じられないことだったりする。
私が自分の意見を述べると、皆、私をまるで化け物を見るような目で見る。実際、私は彼らこそ化け物だと思う。些細なことで大騒ぎして泣いたり笑ったりするのだから。
やはり父の言う通り、【沈黙は金】という言葉は歴史に裏打ちされた真理なのだ。
だから私はますます口数が少なくなった。
幼い頃、父は私に、三無少女として、表情は三つあれば十分だと教えた。
【それは、平静、憂鬱、疑惑だ。】
子供の頃の私は、笑顔で父に尋ねた。なぜ笑顔がないの?と。
【三無少女の笑顔は最も貴重なものだ。多すぎると価値がなくなる。】
何度か試した結果、父の言うことは正しいと理解した。
私がいつも笑顔を見せていると、人々は私の笑顔を気に留めなくなる。そして、私が人々の目に「三無少女」と映るようになってから、最高の効果を発揮した笑顔は、多数の死傷者を出す殺人事件を引き起こした。
今、日付の無いこの日記を書いていると、父の言葉は非常に理に適っていると思う。ただ、彼は人生の努力の方向性を誤ったようだ。
オタクの父は、ネット上で三無少女育成論を発表するのが好きだ。
以下は、彼が【大日本帝国自由軍】と名乗り、2chのスレッドに投稿した文章だ。
『各血液型少女を三無少女に育成する可能性について簡単に語る』
三無少女は、少女の一つの特殊な形態である。日本の伝統的な教育モデルでは、三無少女を育成することはほぼ不可能である。しかし、ネットワークの発展と社会の個性の許容により、三無少女を育成することが可能になった。以下では、血液型が三無少女の育成に与える影響について述べる。
なぜなら、血液型によって三無少女の育成の難易度が異なり、育成される三無少女のタイプにも差異が生じるからである。もし血液型と個性が合わない場合、たとえ三無少女を育成してもすぐに変質し、社会に同化されてしまい、我々の努力は水の泡となってしまう。
まず、三無少女育成の基本条件を説明しよう。
1.外見の条件:美女が理想。そうでなければ、少なくとも容姿が著しく劣っていないこと。容姿が劣る場合は育成の価値がなく、社会に受け入れられにくい。育成しても、鬱病患者や自閉症患者と見なされるだけだろう。
2.年齢の条件:人生観が固まった後に育成するのは困難だ。最適な育成年齢は4歳以前、小学校入学前までが望ましい。小学校入学後もギリギリ可能だが、思春期以降の少女は基本的に育成価値がない。
3.教育の条件:教育には十分な時間が必要だ。理想を言えば終日、そうでなくても学校以外の全ての時間を教育に充てることができれば、かなりの効果が見込める。教育時間が彼女と他人との接触時間よりも短い場合、多くは期待できない。彼女が大きなショックを受け、自ら引きこもることを望むなら話は別だが。しかし、そのような方法で育成された「三無少女」は不安定であり、心の問題が解決されれば社会に「染まって」しまうだろう。したがって、十分な教育の下で育成されなかった「三無少女」は、擬似「三無少女」(自己閉鎖型)としか言えない。
4.教育者の条件:「三無少女」について十分、あるいは比較的十分な理解があること。子供を教育する忍耐力があり、人間の心理、特に人間の陰湿な心理について十分な理解があること。知識も豊富で、少なくとも社会の平均レベルを上回っていること。これらの条件を全て満たす人物は、「三無少女」を教育・育成する基本的な能力を備えていると言える。
以下、血液型別に少女の育成特徴を簡単に紹介する。
育成される「三無少女」の特徴は血液型によって異なる。以下、血液型別に論じる(難易度の低い順)。
B型:生まれつき楽観的で活動的なことが多く、魔女としての育成に向いている。魔女の育成に長けた悪友がいるならば、彼女たちを選ぶのも良いだろう。「三無少女」としての育成は非常に難しく、最初から育成対象本人の気質から強い抵抗を受けるだろう。無理に育成しようとすると、能力不足に陥り、育成は失敗に終わる可能性が高い。たとえ試験に合格したとしても、裏表があり、独自の処世術を持っている可能性が高い。これは擬似「三無少女」の一種だ(腹黒型)。なぜなら、「三無少女」の属性は、ほのかな哀愁と寡黙な美しさを持つ存在だからだ。
AB型:このタイプの少女は人口の約1%を占め、通常二面性を持っている。育成の価値はあるが、難易度は非常に高く、教育者には高い能力が求められる。最高の結果を得ることは至難の業だ。AB型の少女は、A型の少女とB型の少女両方の特性を併せ持っているからだ。もし、この二つの特性を精神分裂を起こすことなくうまく分離できれば、A型少女(三無少女)とB型少女(魔女)両方の特性を併せ持つ両面魔女として育成できる。そうでなければ、普通の少女と三無少女両方の特性を併せ持つ擬似「三無少女」(情緒型)にしかならない。教育者のレベルが不足していると、少女の内面のB型少女特性の干渉により、教育が失敗に終わる可能性さえある。
A型とO型:「三無少女」の理想的な血液型だ。ここでは比較しながら紹介する。
A型の特徴:指示に従い、教育者の意向に素直であり、教育者の絶対的な権威を確立しやすい。長期間の教育の後、自己犠牲の精神を持ち、感情的な影響に敏感になる。宗教的な精神的影響を受けやすい。純粋な「三無少女」として教育しやすい。しかし、欠点は社会に馴染みにくく、物事に極端になりやすいことだ。
O型の特徴:自分の意見を持ちながらも教えに従い、社会適応力が高い。教育にはA型よりわずかに時間がかかるが、社会の影響を受けにくい。彼女たちは半ば社会に溶け込んだ「三無少女」だからだ。しかし、彼女たちの「三無少女」属性は一般的にA型少女ほど顕著ではない。これは、社会に溶け込み、適応しやすいことの代償かもしれない。
どうやら、私が今のような人間になったのは、父が早くから計算していたことだったらしい。残念ながら、父は人生の努力の方向性を誤ったようだ。
父は社会的な地位や精神的な欲求において社会に認められなかったから、私がいる。
幼い頃、他の子供たちが幼稚園に通うのを見て、私は他の子供たちとは違うと感じていた。だが、なぜ誰もが同じでなければならないのか、とも思っていた。もし人々が皆同じ顔をして、同じ言葉を話すなら、この社会は機械になってしまうのではないか?
だから、社会には様々な人が存在することを許容しなければならない。口数の少ない私や、意気地なしの父も含めて。
他の子供たちが幼稚園に通っていた頃、父は祖母と一緒に私に文字を教えることが多かった。
「引きこもり」「意気地なし」「ベテランオタク」などと呼ばれていた父が、彼らが言うほど何もできないわけではなかった。父は幼い頃から私に関西弁を教えていた。彼はよくこう言っていた。
【ベテランオタクたるもの、関西弁が話せないのは恥や】
私はそんなことはどうでもよかった。私はずっと、私の父は他の子供たちの父とは違うと思っていた。それは、私が他の子供たちとは違うからかもしれない。
私は4歳の時、眼鏡をかけて部屋の隅で一人で本を読むのが好きだと自覚していた。他の子供たちはいつも外で遊ぶのが好きだった。祖母は私が幼い頃から本好きで、大きくなったらきっと偉くなると言っていた。だが、私がそのことを父に言うと、父はこう言った。
【父も子供の頃から本が好きやった】
「漫画ですか?」私は冷たく尋ねた。
「1980年代に〇〇漫画なんてあるかいな? わしが読んでたんは『十万個なぜ?』や」
「おばあちゃんの言うことが間違いだったのでしょうか?」
「おばあちゃんの言うことは間違ってへん。ただ、わしらがこの世の中をちゃんと理解してへんだけや」
「世の中?」私は本当にこの言葉の意味がわからなかった。
「お前が出世するか、しないかを決める人たちのことや」
「人たち?」私はまだ理解できなかった。
「ほとんど全ての人や。一つの街、一つの国の全ての人や」
最後に父は【おばあちゃんと遊んどき】という言葉で私の疑問を終わらせた。
だが、この問題は長い間私を悩ませ、最終的に私はそれを完全に無視するようになった。