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現代語訳 宮本武蔵  作者: AI Gen Lab
空の巻
97/165

喧嘩河原

 お杉(すぎ)ばばが半瓦(はんがわら)の家に住み始めてから、もう一年半が過ぎていた。最初は居心地が悪いと言っていたが、今ではすっかり江戸(えど)の生活に馴染んでいたようだ。


 その一年半の間、彼女は何をしていたかというと、最初はこの家を出ようと毎日のように言い続けていた。しかし、半瓦弥次兵衛(はんがわら やじべえ)とはめったに顔を合わせることもなく、たまに会うと「まあまあ、そんなに焦らずに、ゆっくり武蔵(むさし)の居場所を探しなさい。うちの若い者も常に心がけているから、そのうち見つけてあげるよ」と優しく言われ、気づけば家を出る気もなくなっていた。


 初めは江戸という土地や風俗が大嫌いだった彼女も、ここで一年半も過ごすうちに「江戸の人たちは親切だ」と感じるようになり、今では「なんと気ままな生活だ」と目を細めて江戸の暮らしを見つめていた。


 特に、半瓦の家は特別だった。ここには、百姓出身の怠け者もいれば、関ヶ原の戦いで敗れた浪人、親の財産を使い果たして逃げてきた悪党、つい昨日牢屋から出てきた刺青者など、さまざまな人物が出入りしていた。だが、皆が半瓦の親分のもとで一つの大家族のように暮らしており、乱暴で自由奔放な暮らしの中にも、彼らの中で独自の秩序と規律があった。そして、そんな生活を「男を磨き上げる場所」として誇りにしていた。


 この「六方者(むほうもの)道場」には、親分の下に兄貴分がいて、その下には子分がいる。さらに、古参と新参の区別が厳しく、客分として訪れる者にも礼儀や作法がしっかりと求められていた。


「遊んでばかりで退屈なら、若い者たちの面倒でも見てくれたら助かるよ」と言われたお杉ばばは、しっかり者として一角に席を与えられ、若い者たちの洗濯や縫い物の世話をしながら、皆の生活を整理していた。


「さすが武士(さむらい)のご隠居だ。本位田(ほんいでん)家というのも、立派な家筋だったのだろう」と、皆が感心して噂するほど、お杉ばばの厳格な生活態度と家事の腕前は見事なものであった。そして、その姿勢は、六方者道場の規律を守るうえでも役に立っていた。


 ちなみに、「六方者」というのは、長い刀を突き出し、二本の足で踏ん張って威勢よく歩く男たちを指す町のあだ名である。


「もし宮本武蔵という侍(さむらい)が現れたら、すぐにばば殿に知らせろ」と、半瓦の家の者たちは心得ていたが、この一年半、武蔵の名前は江戸では一度も聞かれなかった。


 半瓦弥次兵衛は、お杉ばばの話を聞いて、その心情や境遇に深く同情していた。だからこそ、彼の中の「武蔵観(むさしかん)」は、お杉ばばの「武蔵観」そのものであった。


「偉いばば殿だ。憎むべきは武蔵という侍だ」と彼は思い、お杉ばばのために家の裏手に一室を建ててやり、彼女を大切にしていた。時には朝夕の挨拶にまで訪れ、まるで賓客のように扱っていた。


 ある日、子分が彼に尋ねた。「親分、そんなにお客を大切にしてどうしてですか?」


 半瓦はこう答えた。「この頃、他人の親でも年寄りを見ると、親孝行がしたくなるんだ。だからこそ、俺が自分の親にどれほど親不孝だったか思い知らされるんだよ」と。



 町中(まちなか)の野梅(やばい)はすっかり散り、江戸(えど)にはまだ桜(さくら)がほとんどなかった。わずかに山の手(やまのて)の崖(がけ)に山桜(やまざくら)が白く見える程度である。近年、浅草寺(せんそうじ)の前に桜の並木を移植した奇特家(きとくか)がいて、今年(ことし)は若木(わかぎ)ながらも蕾(つぼみ)がだいぶついたという話だ。


「ばば殿、今日は一つ、浅草寺にお供しようと思うが、行く気はないか?」


 半瓦(はんがわら)の誘(さそ)いに、お杉ばばは応(こた)えた。


「おう、観世音(かんぜおん)は、わしも信仰しとる。ぜひ、連れて行っておくれ。」


「では、行きましょう。」


 こうして、お杉ばばも加(くわ)えて、乾児(こぶん)の菰(こも)の十郎(じゅうろう)と、稚児(ちご)の小六(ころく)に弁当(べんとう)を持たせ、京橋堀(きょうばしぼり)から舟(ふね)に乗り込んだ。


「稚児」と聞くと優しげに思うかもしれないが、小六は顔に傷を持つ喧嘩(けんか)早い小男(こおとこ)で、櫓(ろ)の扱いはうまい。舟を堀から隅田川(すみだがわ)へ漕(こ)ぎ出すと、半瓦は重筥(じゅうばこ)を開けて言った。


「ばあさん、今日は俺のおふくろの命日(めいにち)だ。故郷(ふるさと)の墓参りは遠いので、今日は浅草寺に詣(もう)って、何か良いことをして帰ろうと思う。遊山(ゆさん)気分で、一献(いっこん)どうだ?」


 半瓦は杯(さかずき)を舟縁(ふなべり)から川の水で洗い、お杉ばばに注(つ)いだ。


「そうか。それは、それは優しい心がけじゃのう。」


 お杉はふと自分の命日について考え、それが自然にまた息子の又八(またはち)を思い出させた。


「さ、少しは飲めるだろう? 水の上でも俺たちがついているから安心して酔(よ)ってくれ。」


「命日なのに酒を飲むのは、悪いことではないかのう?」


「俺たち六方者(むほうもの)は、嘘(うそ)や形式的な儀式(ぎしき)が嫌いなんだ。それに、俺たちは門徒(もんと)だから、無知(むち)でいいのさ。」


「久しぶりの酒じゃ。……こんなに気ままに飲むのは、なんともいい気分じゃ。」


 お杉は杯を重ねた。


 隅田川(すみだがわ)は広く、流れは満々としていた。下総(しもうさ)寄りの岸辺には、鬱蒼(うっそう)とした森があり、木々の根が川の水に洗われている辺りは、蒼い影となって流れの中に沈(しず)んでいる。


「おお、鶯(うぐいす)が鳴いておる。」


「梅雨(つゆ)頃には昼ほととぎすも鳴くが、まだ少し早いな。」


「返杯(へんぱい)じゃ。親分様、今日は婆(ばば)も良い供養(くよう)の一端に与(あずか)れましたわ。」


「そう言ってくれると、俺もありがたい。さあ、もっと飲んでくれ。」


 すると、櫓を漕(こ)いでいた稚児(ちご)が羨(うらや)ましそうに声をかけた。


「親分、俺にも少し回してくれませんか?」


「お前は櫓がうまいから連れてきたんだ。行きに飲ませたら危ないから、帰りにたっぷり飲め。」


「我慢(がまん)は辛いもんだ。大川の水がみんな酒に見えますよ。」


「お稚児(ちご)、あそこで網を打っている船へ寄せて、肴(さかな)を少し買い込んでくれ。」


 心得た稚児は、漁師(りょうし)の船に寄り、話をつけた。漁師は「なんでも持っていきなされ」と船板を開けて見せた。


 山国(やまぐに)で暮らしてきたお杉ばばにとって、それは目を見張(みは)るほど珍しい光景(こうけい)だった。船底でバチャバチャと跳ねる生きた魚たち――鯉(こい)、鱒(ます)、すずき、鯊(はぜ)、黒鯛(くろだい)、手長えび、そして鯰(なまず)。


 半瓦は白魚(しらうお)をその場で醤油(しょうゆ)につけて食べ、お杉ばばにも勧(すす)めたが、


「生ぐさいものは、よう食べぬ。」


 と首を振り、顔をしかめた。


 舟はまもなく隅田河原(すみだがわら)の西岸(せいがん)に着いた。河原を上がると、波打ち際の森の中に、すぐ浅草観音堂(せんそうかんのんどう)の茅葺(かやぶき)の屋根が見えた。



 人々は河原へ降りた。お杉ばばは少し酔っていて、年のせいか、舟から足を移すときにふらつく様子だった。


「危ない、手を貸そう」と半瓦が手を差し出すが、


「なんの、そんなの要らん」と、ばばは手を振って断った。


 ばばは、昔から年寄り扱いが嫌いなのだ。乾児(こぶん)の菰(こも)の十郎とお稚児(ちご)の小六も、舟をつないで後に続いた。広々とした河原は、見渡す限り、石ころと水ばかりが広がっていた。


 すると、河原の石をひっくり返して、蟹でも捕まえようとしていた子供たちが、見慣れない人影を見つけて、半瓦とお杉ばばの周りに集まってきた。


「おじさん、買ってよ!」「ばばさん、買ってってよ!」と、騒がしくせがんでくる。


 半瓦は子供が好きなようで、嫌がる様子もなく、「なんだ、蟹か? 蟹なんていらねぇよ」と答えたが、子供たちは口々に言い返す。


「蟹じゃないよ!」「矢だよ、矢!」


 子供たちは、着物の裾を袋代わりにしたり、ふところに入れたりして、小さな鏃(やじり)を手に持って見せた。


「浅草寺のそばにある藪に、人や馬を埋めた塚があるんだ。そこにこの鏃を持っていってお祈りするといいことがあるってさ。おじさんも、ばばさんもお祈りしてみてよ!」


「鏃か……要らねえな。でも、銭をやるからいいだろう」と半瓦が銭を渡すと、子供たちはそれに満足した様子で散らばり、また鏃を掘り始めた。すぐに近くの藁屋根の家から子供の親が出てきて、銭だけを回収していった。


「ちぇっ」と、半瓦は舌打ちをし、嫌な気分になったのか、視線をそらした。一方、お杉ばばは広々とした河原の風景に見惚れていた。


「この辺からそんなにたくさん鏃が出てくるとなると、この河原でも戦があったのかもしれんのう」とばばは呟いた。


「そうだな。よくは知らんが、昔の荏土(えど)と呼ばれていた頃、戦いがたびたびあったらしい。遠くは治承(じしょう)の時代、源頼朝(みなもとのよりとも)が伊豆(いず)から渡って、関東の兵を集めたのもこの河原だし――南朝(なんちょう)の頃、新田武蔵守(にったむさしのかみ)が小手指ヶ原(こてさしがはら)の戦いからこの辺りを駆け抜け、足利方(あしかががた)の矢を浴びたのもここだ。そして、近年では、太田道灌(おおたどうかん)の一族や千葉氏(ちばし)の一党が幾度も興(おこ)り、幾度も滅びた跡が、この先の石浜(いしはま)の河原にあるらしいな。」


 話しながら歩いていくと、乾児の十郎とお稚児の小六は先に浅草寺の御堂(みどう)の縁に座っていた。見上げると、そこには茅葺(かやぶき)の簡素な御堂と、僧が住むあばら家しかなかった。


「……なんじゃ、これがあの金龍山浅草寺かいな」と、お杉ばばは失望を隠せなかった。奈良や京都の立派な寺院を見慣れた目には、この粗末な建物はあまりにも原始的に見えた。


 大川(おおかわ)の水は、洪水の時に森の根を洗い、御堂のすぐ側まで流れていた。御堂を囲む木々は、千年も経ったような大木ばかり。遠くで木を切り倒す斧(おの)の音が、まるで怪鳥の鳴き声のように時折コーン、コーンと響いていた。


「やあ、おいでなされ!」


 突然、頭上から挨拶の声が聞こえてきた。驚いたばばが見上げると、御堂の屋根で茅を修繕している坊主たちが座っていた。


 半瓦の弥次兵衛はこの辺りでも知られた人物らしく、下から挨拶を返した。


「ご苦労様。今日は屋根の修繕でござるか?」


「はい、ここの木々には大きな鳥が棲(す)んでおりまして、茅をついばんで巣に持っていくので、いくら修繕してもすぐに雨漏りするのです。……今すぐ降りますので、しばらくお待ちくださいませ。」



 神灯(みあかし)を灯して、堂内に座ってみると、なるほど、屋根からも壁からも昼間の光が星のように漏れてくる有様だった。


 半瓦(はんがわら)と並んで座ったお杉(すぎ)は、袂(たもと)から数珠(じゅず)を取り出し、すっかり無想の状態に入り、**普門品(ふもんぼん)**の経を唱え始めた。最初は低い声だったが、次第に声が高くなり、半瓦や乾児(こぶん)がいることさえ忘れて、顔つきまで変わっていった。


 一巻(いっかん)を読み終えると、震える指で数珠を揉みながら、


「――八万四千の衆生(しゅじょう)、皆、無上の菩提心を発しますように。そして……南無大慈大悲(なむだいじだいひ)観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)……どうか、ばばの一念を哀れんでくだされ。一日も早く、武蔵(むさし)を討たせたまえ。武蔵を討たせたまえ、武蔵を討たせたまえ」


 その後、急に声と体を沈め、ひれ伏して祈り続けた。


「また、又八(またはち)が良い子になりますように。そして、本位田家(ほんいだけ)が栄えますように……」


 お杉ばばの祈りが終わると、堂守の僧が近づいてきた。


「そちらで湯を沸かしておきましたので、渋茶(しぶちゃ)などお召し上がりくださいませ」


 半瓦も乾児たちも、ばばのために長く座り続けていたせいで、しびれをさすりながら立ち上がった。乾児の十郎(じゅうろう)が言う。


「もうここなら、飲んでも良いでしょう」


 許しを得ると、堂裏の僧の住居の縁側に弁当を広げ、舟で買った魚などを焼いてもらった。


「この辺には桜はないが、花見に来たような気分だな」


 お稚児(ちご)の小六(ころく)を相手に、すっかり落ち着き込んでいる。


 その間、半瓦は布施(ふせ)を包んで、


「お屋根代の足しに」といくらかを寄進した。


 ふと壁に貼られた参詣者(さんけいしゃ)の寄進札(きしんふだ)に目を留めると、目を見張る寄進者がいた。


 寄進額の多くは彼が包んだ程度か、それ以下だったが、中にはずば抜けて篤志(とくし)を示す人物がいた。


 黄金十枚

 しなの奈良井宿 大蔵


「お坊さん、ちょっと聞くが、この奈良井の大蔵ってやつはそんな金持ちなのか?」


「よくは存じませんが、昨年の年末にぶらりとお参りに来られまして、『関東一の名刹にこの姿は悲しい、普請(ふしん)の際には材木代の足しにしてくれ』と言って置いていかれました」


「気前のいいやつだな」


「それが、だんだん聞くところによると、天神様へも三枚寄進し、神田の明神へは二十枚も献納したそうです。関東が開けたのも将門(まさかど)公のお力だと言って、献納されたとか……世には奇特な人もおられるものですな」


 その時、突然、河原と寺内の境から、何者かが無謀にも駆け込んでくる狼藉者の足音が聞こえてきた。



「おい、童(わっぱ)ども! 遊ぶなら河原で遊べ、寺内へ入って来て乱暴するんじゃない!」

 番僧(ばんそう)は縁側に立ち、怒鳴った。


 駆け込んで来た子供たちは、まるで目高(めだか)の群れのように集まってきて、口々に叫ぶ。


「たいへんだよ、お坊さん!」

「侍さんが、河原で喧嘩してるんだ!」

「一人と四人で!」

「刀を抜いてる!」

「早く行って見てよ!」


 番僧たちはそれを聞くと、すぐに草履を履いて、


「またか……」

 と、つぶやき、駆け出そうとしたが、半瓦(はんがわら)やお杉(すぎ)たちを振り返り、


「お客様方、少し失礼いたします。この辺の河原は、喧嘩や果し合いの場所になることが多くて、何かあるたびに奉行所から始末書を求められるんですよ。見届けておかねばならんのです」

 と、説明した。


 子供たちは既に河原の森の際(きわ)に走り、興奮して声を上げていた。半瓦とその乾児(こぶん)たちも、斬り合いが嫌いではないらしく、すぐに駆けて行った。


 お杉ばばは、一番後ろからゆっくりと森を抜け、河原の樹の根に立って様子を見渡した。しかし、彼女が到着した頃には、既に喧嘩は終わっているようだった。


 あれほど騒いでいた子供たちや、大人たち、漁村の男女も皆、静まり返り、森の木陰や隙間からじっと見守っていた。


「……?」

 婆は不思議に思ったが、周りの様子に倣い、自らも息をひそめ、じっと河原を見つめた。


 広々とした河原には、石ころと澄んだ水が広がっているだけで、空の色と同じ水面には燕(つばめ)の影が自由に飛び回っていた。


 やがて、遠くから一人の侍が、澄ました顔でこちらに向かって歩いてくるのが見えた。彼の他には、誰もいない。


 その侍はまだ若く、背には大太刀を背負い、牡丹色の武者羽織(むしゃばおり)を纏っていた。その派手な姿が目を引いたが、彼はまるで見物している人々に気付かないかのように、無関心に立ち止まった。


「……ア、ア……」

 誰かが低い声で呟いた。


 婆も、はっとして目を凝らした。牡丹色の武者羽織が立ち止まった場所の十間ほど後ろに、四つの死骸が乱雑に斬り伏せられていた。


 喧嘩の勝敗は既に決しており、四人を相手にしていた若い武者羽織の侍が勝利を収めたようだった。


 しかし、四人のうち一人はまだ薄く息をしていたようで、牡丹色の武者羽織が振り返ると、そのうちの一人が血まみれになりながら立ち上がり、


「まだだ! 勝負はまだ終わっていない! 逃げるな!」

 と、叫びながら追いかけてきた。


 武者羽織の侍は落ち着いて待ち構えていたが、その血まみれの男が斬りかかると、侍は一歩退いて相手を泳がせた。


「これでもまだか!」

 その言葉とともに、侍は背中に負っていた長剣「物干竿(ものほしざお)」を振り下ろし、一瞬のうちに相手の顔を斬り裂いた。


 まるでスイカを割ったように、男の顔が二つに分かれ、彼は倒れた。侍の技は鮮やかで、その動きが一瞬にして終わったため、斬った瞬間は誰にも見えなかった。



 小次郎は、冷静に刀を拭き、流れの水で手を洗っていた。その落ち着きと冷徹さに、見守っていた者たちは嘆息を漏らし、中には蒼白になっている者さえいた。しかし、誰も言葉を発することなく、ただその光景に釘付けになっていた。


 手を拭き終えた小次郎は、ふと身を伸ばして呟いた。


「岩国川の水のようだ……。故郷を思い出すなあ。」


 彼はしばらく、隅田川の広がりや、水面を舞う燕の白い腹を見送っていた。しかし、突然彼は足を早めた。既に死骸が追いかけてくる心配はなかったが、後始末の面倒を考えたのだろう。


 河原の水辺に、一艘の小舟を見つけると、小次郎はそれに乗り、繋がれている綱を解き始めた。


「やいっ、侍!」

 木々の間から聞こえたのは、菰(こもの)十郎とお稚児(ちご)小六の声だった。彼らはすぐに河原の水際へ駆け寄り、小次郎に詰め寄った。


「その舟をどうする気だ?」


 小次郎の体からは、まだ血の匂いが漂っていた。袴やわらじにも返り血が付着している。


「……いけないのか?」

 綱を解こうとした手を止め、小次郎はにやりと笑った。


「あたりめえだ。これは俺たちの舟だ。」


「そうか……駄賃をやったらよろしかろう。」


「ふざけるな。俺たちは船頭じゃねえ!」


 四人を一人で斬り伏せたばかりの小次郎に対して、こんな大胆な口をきけるのは、関東の気概と新将軍の力が背景にあったからだ。


「…………」


 小次郎は悪びれた様子はなかったが、それ以上の強引さは見せず、静かに小舟を降り、再び河原を歩き始めた。


「小次郎どの。――小次郎どのじゃないか!」

 お杉ばばが、彼の前に立ちはだかった。顔を見合わせると、小次郎は「やあ」と軽く笑い、さっきまでの凄愴な表情を和らげた。


「いたのか、こんな所に。……いや、その後どうしているかと思っていたが。」


「半瓦の主や若い者たちと一緒に、観世音へ参詣に来たのじゃ。」

 小次郎が振り返って、菰やお稚児を指さしながら言った。


「では、あれが婆殿の連れか。」


「そうじゃ。親分は立派な人だが、若い者たちはひどくがさつでのう。」


 ばばが小次郎と親しげに立ち話を始めたことに、周囲の者たちは驚き、半瓦の弥次兵衛も目を丸くしていた。半瓦はすぐに駆け寄り、


「ただ今、私の乾児たちが不作法を申しましたようで、大変失礼いたしました。」

 と、丁寧に詫び、続けて言った。


「我々もこれから帰るところです。もしよろしければ、急ぎの用事までお舟でお送り申しましょう。」

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