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現代語訳 宮本武蔵  作者: AI Gen Lab
空の巻
91/165

 目を覚ました武蔵むさしは、すぐに思い出した。――おおつうは今どうしているのだろうか。そして、城太郎じょうたろうは今どこを歩いているのだろう。


「やあ、昨夜はどうも」

 と、朝のぜん石母田外記いしもだげきと顔を合わせる。昨夜の話が自然に続き、やがて二人は旅籠はたごを出て、中山道なかせんどう往還おうかんする旅人の流れに紛れ込んでいった。


 武蔵は、行き交う旅人の流れに目を配りながら歩いていた。無意識のうちにも、人混みの中でふと似た後ろ姿を見ると、

「もしや?」

 と思い立ち止まってしまうのだった。


 その様子を見ていた外記が、

「どなたかお連れでもお探しですか?」

 と尋ねてきた。

「さればです」

 と武蔵は事情をかいつまんで説明し、城太郎とお通を探していること、江戸へ向かう途中でも彼らの安否を確認しながら進みたいことを話し、これを機に別の道を取ることに決めた。


「折角の道連れでしたが、仕方がありませんな――昨夜も申したように、ぜひ一度仙台せんだいへお越しください」

 と、外記は残念そうに言った。

かたじけない、機会があればぜひ――」

 と武蔵が答えると、外記は続けた。

伊達だて士風しふうをぜひご覧いただきたい。また、松島まつしまの風光もお楽しみいただければ。お待ちしておりますぞ」


 こうして、一夜の友であった外記は、軽やかに和田峠わだとうげへ向かって先に進んでいった。その姿に、武蔵は何となく心が引かれ、いつか伊達の藩地を訪ねることを決意した。


 この時代、武蔵だけでなく、多くの旅人がこのような出会いを経験したことだろう。天下が不安定で、明日をも知れぬ状況において、諸国の藩主たちは優れた人材を求めていた。路傍ろぼうからよい人物を見出し、主君に推挙することは、家臣にとって重要な奉公の一つだったのだ。


旦那だんな、旦那」

 と、後ろから誰かが呼びかけてきた。武蔵が足を戻し、下諏訪しもすわの入口へ引き返し、甲州街道こうしゅうかいどうと中山道の分かれ道で思案にくれていると、その姿を見かけた宿場人足しゅくばにんそくたちの声だった。


 宿場人足とはいえ、荷物を運ぶ者もいれば馬を引く者もいる。これから和田峠へ向かう険しい山道を登るには、駕籠かごを担ぐ者も必要だった。


「――何か?」

 と武蔵は振り返った。宿場人足たちは、無遠慮に武蔵を見回しながら、木のように太い腕を組んで近づいてきた。

「旦那あ、さっきからお連れを探してるようだが、そのお連れさんはべっぴんか? それともただのお供か?」


 彼らの下品な笑い声が、武蔵の耳に届いた。



 武蔵は荷物を持っているわけでもなく、山駕籠やまかごを雇う気もなかった。

「いや……」とだけ言い、無言で人足たちの群れを離れようとしたが、彼自身まだ心の中で迷っていた。

(西に進むか? 東に行くか?)

 一度は、何事も天の意に任せて江戸へ向かうと決めたが、ふと城太郎のことを考え、お通の身を案じると、どうしてもその決心が揺らぐのだった。

(今日一日だけ、この辺りを探してみよう……それでも何も分からなければ、諦めて先に進むとして)


 彼がそう考えを固めた時、

「旦那、もし何かお探し物があるのなら、あっしらにお任せを。こうして暇つぶしをしているんでございますから、何なりとお申し付けくださいまし」

 と、人足の一人が寄ってきた。さらに他の人足たちも口を揃えて、

「駄賃なんかいくらくれとは言いませんぜ」

「探してるのは、若いお女中ですか、それともご老人ですかえ?」


 武蔵は、余りにしつこく聞かれるので、仕方なく事情を話し、少年と若い女をこの街道筋で見かけた者はいないかと尋ねた。

 すると、彼らは顔を見合わせて、

「さあ?」

 と首をかしげた。

「誰もそんな人は見かけてないようですが、なあに旦那、俺たちが手分けして探せば、すぐに分かりますぜ。誘拐された女子おなごだって、道のないところを越えていくわけじゃねえし、土地に明るい俺たちだからこそ分かる道もあるってもんです」


「なるほど」と武蔵は納得した。それは理にかなっていた。土地に不案内な自分が無駄に歩き回るよりも、こうした地元の人々を使えば、二人の行方がすぐに分かるかもしれない。

「――では頼む、君たちの手で探してくれないか」

 武蔵が率直に頼むと、人足たちは一斉に、

「ようがす」

 と引き受け、しばらくがやがやと手分けの相談をしていた。やがて一人の代表が前に出て、揉み手をしながら言った。

「ええ、旦那、まことに申し訳ねえが、なにしろ裸一貫の商売でして、まだ朝飯も食ってねえんでさぁ。夕方までにはきっとお探しの方を見つけますんで、半日の日当と草鞋わらじ代をちっとばかりお恵みくだせえませんか?」


「おう、元よりのこと」と武蔵は当然だと思い、持っている路銀ろぎんを数えた。しかし、彼が持っている金では、彼らが求める額に到底足りなかった。

 武蔵は、金の貴重さを他の誰よりも身に染みて知っていた。なぜなら、彼は孤独な旅を続けているからだ。――しかし、彼はまた、金に執着を持ったこともなかった。彼には家族を養う責任もなく、身一つなら寺に泊まり、野に寝転び、知り合いから少し施しを受け、なければ食べなくても困ることはなかった。そうして彼は、流浪の生活を何とか切り抜けてきたのだった。


 実際、ここまでの旅の費用も、ほとんどお通が見てくれていた。お通は、烏丸家からすまるけから与えられた多額の路銀を持ち、旅の経費を賄い、武蔵にも少し分け与えてくれていた。

(お持ちになっていらっしゃいまし)

 と、彼女はそう言って渡してくれたのだった。


 そのお通からもらった全額を、武蔵は人足たちに渡し、

「これでよいか?」

 と尋ねた。人足たちは掌に銭を分け合い、

「ようがす。負けておきますぜ。――じゃあ旦那は、諏訪明神すわみょうじん楼門ろうもんでお待ちください。晩までにはきっと、よい知らせを持って参りますから」

 と言い残し、蜘蛛の子を散らすように去っていった。



 人手を分けてあちこち探しているとはいえ、一日をただ待って過ごすのは無駄だと思った武蔵は、自分でも諏訪の城下から周囲を歩き回っていた。お通と城太郎の消息を求めていたが、なかなか手がかりは得られず、日が暮れるのが惜しい気持ちだった。頭の中では地形や水の流れ、あるいは武術家の話が絶えず気になっていたが、特に成果はなかった。


 夕暮れが迫る頃、武蔵は約束した通り諏訪明神の境内へ戻った。しかし、楼門の周りには人足たちの姿は一人も見えなかった。

「疲れたな……」

 と、彼はぼそっと呟き、石段に腰を下ろした。普段なら滅多に出ない疲労感が、ふと口をついて出た。


 誰も来ない。しばらく待っても、人足たちの姿は見えないままだった。退屈を感じた武蔵は広い境内を一巡りし、再び戻ってきたが、それでも約束した人足たちは一人も現れなかった。


 闇が深まり、何かが時々、カツン、カツンと蹴られるような音が響くたびに、武蔵は反射的に眼を見開いた。気になった彼は石段を降り、木陰にある一棟の小屋を覗いてみた。中には白い神馬しんめが繋がれており、その馬が床を蹴っている音だった。


御牢人ごろうにん、何の用じゃ?」

 馬に飼料を与えていた男が、武蔵の影に気づいて尋ねた。

「何か社家しゃけに御用事でも?」

 と、少し咎めるような眼差しで言った。


 武蔵は事情を話し、自分が怪しい者ではないことを説明すると、白丁はくちょうを着たその男は突然大笑いし始めた。

「アハハハ、アハハハ」

 腹を抱えて笑いが止まらない。怒りを感じた武蔵が「何を笑っているのか?」と問い詰めると、男はなおも笑いながら言った。

「あんた、本当にそんなことで旅ができるのか? あの道中の悪党人足が、先に銭を受け取って、正直に一日中人を探すなんて、あり得ない話じゃよ!」


「じゃあ、彼らが手分けして探すと言ったのは嘘だったのか?」

 武蔵が問い詰めると、男は少し気の毒に思ったのか、真剣な表情に戻りながら言った。

「騙されたんじゃよ。――道理で、今日、十人ばかりの人足が裏山の雑木林で、昼間から車座になって酒を飲みながら博打をしていた。おそらくその連中だったんじゃろうな」


 そして男は、この諏訪や塩尻辺りの街道で、旅人が人足に騙されて金を奪われることが頻繁に起こっている話をいくつも語り、

「世の中とはそんなもんです。これからはもっと用心しなさい」

 と、空になった飼料桶を抱えながら去っていった。


 武蔵はしばらく茫然としていた。

「……」

 自分の未熟さを思い知らされたような気がした。剣の腕に自信を持っていたが、世の中の俗事においては、宿場の人足たちにすら弄ばれる自分を見つめ直すしかなかったのだ。

「仕方がない」

 と、彼は呟いた。悔しいという気持ちはなかったが、この未熟さは、いずれ三軍を動かす戦術にも影響するかもしれない。これからはもっと謙虚になり、俗世間のことも学んでいこうと決意した。


 そして再び楼門の方へ足を向けると、彼が立ち去った場所に、誰かが一人立っているのを見つけた。



「お、旦那!」


 楼門の前で辺りを見回していたその人影が、武蔵の姿を見つけると、石段を降りてきて、こう告げた。


「お探しになっているお人の、一方だけですが、分かりましたのでお知らせに参りました」


「え?」

 武蔵は少し驚いた表情を見せた。よく見るとそれは、今朝、半日の賃金を払って人手を分けさせた宿場人足の一人だった。つい先ほど、神馬小屋で人足たちに騙されたと思わされたばかりだったので、武蔵は意外に感じた。


 同時に、彼は思った。確かに世の中には自分を騙して銭を詐取するような人間も多いが、

(世間のすべてが詐欺師ではない)

 そう感じられることが嬉しかった。


「一方だけとは、城太郎という少年の方か、それともお通か?」

 武蔵は問いかけた。


「その城太郎って子を連れている、奈良井の大蔵さんという人の足取りが分かったんでございます」


「そうか」

 武蔵はほっとして心が少し明るくなった。


 正直な人足はこう話した。――今朝、賃金を受け取った仲間たちは最初から探す気などなく、皆が博打にふけっている中、自分だけは事情を聞いて気の毒に思い、一人で塩尻から洗場まで行き、立場立場で仲間に尋ねてみた。しかし、お通の消息は分からなかったが、奈良井の大蔵さんなら、つい今日の昼頃に諏訪を通り、和田の山越えに向かっていったという情報を旅籠屋の女中から聞いたというのだ。


「知らせてくれてありがとう」

 武蔵は感謝の気持ちでいっぱいだった。正直者に報いるために酒代をあげたいと思ったが、ふところを探ると、既にほかの悪党人足たちに金を取られてしまったため、今夜の食事代しか残っていなかった。

(――それでも、何かしてあげたい)

 武蔵はそう考え、ついに今夜は食べずに過ごすと決心し、わずかに残った銭をすべて人足に渡した。


「ありがとうございます!」

 正直者は、額に銭を押し当て、感謝の気持ちで立ち去った。


 ――もう銭は一文もない。

 武蔵は無意識に、去っていく人足の姿を見送っていた。銭を与えた後、しばし途方に暮れる思いがした。空腹は既に夕方から強く感じていた。しかし、あの銭が正直者の手に渡り、自分の空腹を満たす以上に良いことに使われると信じた。それに、あの男は報われたことで、明日も正直に働き、他の旅人にも誠実に接するだろう。


「そうだ……ここで一宿を借りて朝を待つより、今夜のうちに和田峠を越えて、奈良井の大蔵と城太郎に追いつこう」


 今夜のうちに峠を越えておけば、明日には彼らに出会えるかもしれない。――武蔵はすぐにそう決断し、諏訪の宿場を後にして、暗い道を一人でしっかりと踏みしめながら、夜の旅路を進んでいった。



 ――独りで夜道を歩む。


 武蔵はそれが好きだった。

 それは彼の孤独な性格からくるものかもしれない。自分の足音を数え、耳には天空の声を聞きながら、暗い夜道をひたすら歩いていると、すべてを忘れて楽しめたのだ。


 人ごみの中にいると、彼の魂は孤独を感じた。しかし、暗闇の中を一人で歩く時は、逆に心が賑やかになる。

 それは、暗闇の中では、人混みでは現れないさまざまな真実の姿が浮かび上がるからだった。世俗のすべてを冷静に考えられ、自分自身さえも、まるで他人のように客観的に見つめることができるのだ。


「……お、灯りが見える」


 だが、どれだけ夜道を歩いても、ふと一つの灯りを見つけると、武蔵もやはりほっとした。

「人が住む場所の灯りだ!」


 そんな時、彼の心は急に人恋しさや懐かしさで震えるほどだった。彼は矛盾を問いただす間もなく、自然と足がその灯りへと向かって急ぎ始めた。

「焚き火か……夜露に濡れた袂を乾かしてもらおう。ああ、腹も減った。もし稗粥ひえがゆでもあれば、乞い願ってもいいかもしれないな」


 そう呟きながら、武蔵はさらに足を早めた。夜はすでに半ば過ぎている。諏訪を出たのは宵だったが、落合川の渓橋を越えてからは、ほとんど山道が続いていた。一つの峠を越えたが、まだ和田の大峠や大門峠が星空の下に重なっていた。


 その二つの山の尾根が流れ合う広い沢の辺りに、小さな灯りが見えたのだ。


 近づいてみると、それは一軒の立場茶屋たてばぢゃやだった。軒先には「馬繋ぎ」と呼ばれる杭が四、五本打ち込まれており、深夜にもかかわらず、土間から焚き火の音とともに粗野な声が漏れてきた。


「……さて?」

 武蔵は、少し困惑した表情を浮かべ、軒先で迷った。


 もし普通の百姓家や木こりの小屋であれば、少しの休息と稗粥の無心を頼むこともできるだろうが、ここは旅人相手の茶屋だ。一杯の茶でさえ、代金を払わずに済ますわけにはいかない。どう考えても、今の武蔵には金がない。しかし、暖かな煙と煮物の匂いが彼の飢えを強烈に思い出させ、どうにもその場を立ち去ることができなかった。


「そうだ、理由を話して、何かを質に入れよう」


 そう考えた武蔵は、背負っていた武者修行包みの中から、何か差し出せるものを探し出すつもりだった。


「……ごめん」


 彼がそう言って中へ入るまでには、さまざまな迷いや苦心があったが、店の中にいた連中にとっては、突然の来客だったに違いない。彼が現れると、皆が一斉に話を止めて、驚いたようにこちらを見つめた。


 土間の真ん中には大きな自在鉤じざいかぎが吊り下がっていて、土足のまま囲めるように掘られた炉には、猪肉と大根がふつふつと煮えていた。その鍋をつまみに、樽や床几しょうぎに腰掛けて、酒壺を灰の中に突っ込んだまま、茶碗で酒を回している野武士風の男たちが三人いた。


 老爺おやじは背を向け、漬物か何かを刻みながら、彼らと冗談でも言い合っていたようだ。


「なんだ?」

 老爺に代わって言葉を発したのは、鋭い眼差しを持った五分刈りの月代さかやきの男だった。



 猪汁ししじるの香りや、家の中の暖かい火の気に包まれると、武蔵の飢えはもう限界に達していた。

 居合わせた野武士風の男たちが何かを言ったが、武蔵は答えもせず、ずっと奥の空いている床几しょうぎの隅を占めると、


「おやじ、湯漬けでもいい、早く飯を用意してくれ」


 亭主は冷飯と猪汁を運んできて、こう尋ねた。

「夜通しで峠を越えられるんですか?」


「うむ、夜旅だ」

 武蔵はもう箸を手にしていた。


 二杯目の猪汁を取ってから、武蔵は尋ねた。

「今日の昼間、奈良井の大蔵という者が、一人の少年を連れて峠を越えて行かなかったか?」


「さあ、知りませんなあ。――おい、藤次殿や他の方々の中で、そんな旅人を見かけた者はいませんか?」

 亭主が土間の炉を越えて声をかけると、酒を酌み交わしていた三人の男たちは、首を振り、

「知らねぇ」

 と、無愛想に答えた。


 武蔵は満腹になり、一碗わんの湯を飲み干すと、体も温まったが、次に気にかかるのは食事の代金だった。

 最初に事情を話しておけばよかったが、他に客もいるし、情けを乞うつもりはなかったため、先に腹を満たしてしまった。しかし、もし亭主が代金を受け入れてくれなかったらどうしようか。

 その時は、刀のこうがいでも渡すか――と考えながら、


「おやじ、申し訳ないが、実は銭を一銭も持ち合わせていない。だが、無心を頼むつもりはない。この持ち物を代金として取っておいてくれないか」


 案外、亭主は気軽に答えた。

「ええ、いいですよ。――それで、その品物とは?」


「観音像だ」


「え、そんなものを?」


「いや、名のある作ではない。旅の暇つぶしに、梅の古木を使って小刀で彫った小さな坐像の観音像だ。一飯の代価には足りないかもしれんが……まあ、見てくれ」


 武蔵が背負っていた包みの結び目を解きかけると、炉の向こう側にいた三名の野武士たちは、皆、武蔵の手元に注目した。

 武蔵は包みを膝に乗せ、それを振ると、ずしりと土間へ転がり落ちたものがあった。


「……やっ?」

 それは、茶屋の亭主と三名の客の口から漏れた驚きの声だった。

 武蔵自身も、自分の足元に目を落とし、ただ唖然としていた。


 土間に散らばったのは、金の包みだった。慶長小判や銀、金色の貨幣がそこら中に散らばっていた。


(――誰の金だ?)

 武蔵は思った。

 四人とも同じように疑いの目を向け、息をのんで土間に転がる金を見つめていた。


 武蔵はもう一度、武者修行袋を振ってみた。すると、金の上にさらに一通の書状がこぼれ落ちた。



 武蔵が手紙を開いてみると、それは石母田外記いしもだげきからの置き手紙だった。たった一行だけ、こう書かれていた。


「当座の御費用に被成なさるべく候

 外記」


 それだけだったが、少なくない金額が込められていた。この一行が意味するものを、武蔵はすぐに理解した。これは、伊達政宗に限らず、諸国の大名たちが行っている一種の政策なのだ。有為な人材を見つけたら、何らかの形で支援し、恩を売っておくというものだ。


 関ヶ原の戦い以後、浮浪人たちは路傍に溢れ、禄を求めてさまよっているが、本当に有能な人物はなかなかいない。もし見つかれば、たちまち高禄を与えられ、各藩に迎え入れられてしまう。諸藩は、こうした人物を血眼で探しているのだ。戦時には雑兵はすぐに集められるが、真に必要な人材は、なかなか現れない。だからこそ、先に恩を売っておくのだ。


 武蔵に送られたこの金も、外記がその一環として恩を売り、いずれは伊達家に引き込もうとしている証拠だ。


 ――困った金だ、と武蔵は思った。

 この金を使えば、恩を買ったことになる。だが、使わなければ?

(そうだ、金を見たからこそ惑うのだ。なければ、ないでも済むものを)


 そう考えた武蔵は、足元に散らばった金を拾い集め、元通りに武者修行袋へ包んだ。そして、


「――では亭主、これを飯の代わりに取っておいてくれ」


 そう言って、自分が彫った木彫りの観音像を差し出した。だが、茶店の老爺は不機嫌そうな顔をし、


「いけませんよ旦那。これじゃあ、お断りしますべ」

 と、手を出さなかった。


「なぜだ?」と武蔵が聞くと、老爺は、


「なぜって、旦那は持ち合わせがないとおっしゃったから、観音様でもいいと思ったんです。でも、見ればどうです? ないどころか、持ちきれないほど金をお持ちじゃないですか。どうか、そんなに見せびらかさず、ちゃんとお金で払ってくださいよ」


 最初から黙って様子を見ていた三人の野武士も、老爺の言葉に同意するかのように、後ろでうなずいていた。



 武蔵は少し考えた。自分の金ではない、そう弁解しても、この場ではただの愚かな言い訳にしかならないだろう。


「そうか…では仕方がない」


 やむを得ず、武蔵は一枚の銀片を取り出し、茶店の主人に渡した。しかし主人は言う。


「旦那様、剰銭つりがないですな…もっと細かいお金でいただけませんか?」


 再び武蔵は金を調べたが、袋には慶長小判と銀片しかない。それも、一番小さなものでさえ立派な銀片だ。


「つりは要らない。茶代にしておけばよい」


 そう言うと、主人は急に態度を変え、にこりと笑った。


「それでは、どうもありがとうございます」


 武蔵はすでに手にした金を腹巻に収め、背負っていた武者修行袋に木彫りの観音像を戻した。そして外に出る決意を固めると、茶店を後にした。


 夜はまだ深いが、体は満たされた。武蔵は、夜明けまでに和田峠から大門峠を越えようと思った。昼間ならこの辺りは花々が美しく咲き乱れるが、夜は静寂に包まれ、露が地面にしっとりと広がるばかりだ。


「おおい!」


 二十町ほど進んだところで、背後から声がした。先ほどの茶店にいた野武士風の男の一人が、駆け寄ってきた。


「旦那、忘れ物をされているぞ!」


 男は一片の銀片を手に持ち、武蔵に差し出した。どうやら、彼が金を落としたことに気づいて、追いかけてきたというのだ。


「いや、それは自分のものではない」


 武蔵はそう返したが、男は首を振り、これが確かに武蔵の落としたものであると主張した。土間の隅に転がっていた一片だという。金を数えて持っていたわけではないので、武蔵はそうかもしれないと思い、礼を言って銀片を受け取った。


 だが、武蔵はふと気づいた。正直な行為であったにもかかわらず、なぜか感激がまったく湧いてこなかったのだ。


「失礼だが、あんたは誰に武道を習ったのか?」


 用を済ませたはずの男が、なおも話しかけてくる。これも不審だった。


「我流だ」


 武蔵は投げやりに答えたが、男は食い下がる。


「わしも、今は山でこうしているが、かつては侍だった」


「ふむ」


「さっきの者たちもみなそうだ。今は山で木を伐ったり、薬草を採って生計を立てているが、時が来れば、ぼろ鎧を纏い、一旗揚げるつもりだ」


「大坂方か、関東方か?」


「どちらでもいい。旗色を見てからだ。間違えれば、一生を棒に振る」


「ははは、それはご立派だ」


 武蔵は適当に返事をし、なるべく大股で歩いて男を引き離そうとしたが、男はそれについてきて、距離を縮めるどころか、武蔵の左側にしきりに寄り添ってくる。


 この姿勢は、武士にとって最も忌み嫌うものである。左側に寄り添うのは、抜討ちを仕掛ける時の基本の位置だからだ。武蔵はさらに警戒心を強めた。



 ――だが武蔵は、相手が狙っている左側をあえて空けておき、相手がその隙をつけるように甘んじていた。


「どうだ修行者。嫌でなければ、今夜は俺たちの住居に泊まっていかないか。この先の和田峠を越えて、大門峠まで行くのは、道が険しくなるばかりだ。夜明けまでに越えるのは大変だぞ」


「ありがとう存じます。お言葉に甘えて、泊めていただきましょうか」


「そうするがいい、そうするがいい。だが、もてなしは何もないぜ」


「体を横たえられれば、それで十分です。それで、住居はどこに?」


「この谷道から左に五、六町登ったところさ」


「なかなか山深い場所ですね」


「そうだろう。さっきも言った通り、時節が来るまで、薬草を採ったり、猟師の真似をしたりして三人で暮らしているんだ」


「ところで、先ほどのお二人はどうなされましたか?」


「まだ茶屋で飲んでいるだろう。いつも酔いつぶれて、俺が小屋まで担いでいく役だが、今夜は面倒だから置いてきた」


「なるほど」


「気をつけろ、修行者。この崖を降りたらすぐに谿川たにがわに出る。危ないから気をつけろ」


彼方むこうへ渡るのですか?」


「うむ、その狭い所にある丸木橋を渡って、左手の方に登っていく」


 男は低い崖の途中で立ち止まっていたが、武蔵は振り向きもせず、丸木橋を渡りかけた。


 すると、崖の途中から男が跳び、いきなり武蔵が乗っている丸木橋の端に手をかけ、武蔵を激流に落とそうと持ち上げた。


「何をする?」


 川の中から武蔵の声が響いた。男がぎょっとして首を上げると、武蔵はすでに飛沫しぶきの中の岩の上に立っていた。鶺鴒せきれいが止まったように、軽やかに。


「――あッ!」


 男が振り落とそうとした丸木橋の端が飛沫を散らし、武蔵はその瞬間に飛び返り、抜く手も見せず、卑怯者を斬り撲った。死骸には目もくれず、武蔵は次の一撃に備えていた。彼の髪はわしの逆毛のように立ち、あたり一帯を敵と見据えるかのようだった。


「…………」


 すると、ぐわあん! と谷間を引き裂くような銃声が鳴り響いた。猟銃の弾が、武蔵のいた場所をかすめ、背後の崖に潜り込んだ。


 武蔵はその場にたおれると、対岸の沢を見つめた。すると、蛍のようにちらちらと赤い光が見え、二つの人影が川べりに這い出してきた。


 一足先に冥土へ行った卑怯者は、仲間が酒に酔っていると言っていたが、実際には待ち伏せの準備をしていたのだ。


 やはり、武蔵の考えは正しかった。男たちは薬草採りや猟師ではなく、この山に巣食う賊だった。


「時節が来るまで」という言葉は本当かもしれない。彼らも、乱世の方便として生きているが、盗賊として生涯を終えるつもりはないだろう。乱世が続く中、諸国にはこうした賊が増えており、いざ天下の合戦となれば、これらの者たちは古びた槍や鎧をかついで、真人間として再び名を馳せるのだ。しかし、この手輩には、時を待ちながらも風雅に生きる余裕はなかったようだ。

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