樹石問答
春の終わりを告げる昨夜の雨と風が、すべてを洗い流した今朝、太陽は容赦なくその光を照りつけていた。
「沢庵様、武蔵はまだ生きておるのかね?」
お杉隠居が、夜が明けるとまるで楽しみにしていたように寺へ現れ、そう尋ねた。
「おう、おばばか」
沢庵は縁側に出てきて、にやりと笑いながら言った。
「昨日の雨はすごかったのう」
「よい嵐であったわい」
お杉も笑みを浮かべ、遠くにある千年杉の梢に目をやった。
「でも、あれでもまだ生きておるのか? 雑巾のようにぐったりして、まったく身動きもしておらんが…」
「まあ、あの鴉どもが武蔵の顔に集まらんところを見ると、まだ生きていると見て間違いないだろうな」
「そうか、そうか…」
お杉はうなずき、寺の奥を覗き込んでさらに尋ねた。
「ところで、嫁御の姿が見えぬが、どこにおる?」
「嫁御って、誰のことじゃ?」
沢庵は首をかしげた。
「お通じゃよ」
「まだ本位田家の嫁ではあるまいが…」
「すぐに嫁になる。うちの跡取りじゃ」
「聟がいない家に嫁を迎えるのか?」
沢庵はからかうように答えたが、お杉は気にも留めずに言い返した。
「おぬしは余計な口を出さずにおれ。お通はどこにおる?」
「たぶん寝ておるじゃろう」
沢庵はそっけなく答えた。
「なるほど…」
お杉は納得した様子で、ひとりでうなずいた。
「夜は武蔵の見張りをさせたから、昼は眠たいのも当然じゃ。昼間の見張りは、沢庵どの、あんたの役目じゃぞ」
お杉はそう言うと、千年杉の下へ行き、しばらく見上げていた。やがて、杖をつきながら里へ降りて行った。
沢庵は再び部屋に戻り、その後は夕方まで姿を見せなかった。
里の子供が上がってきて千年杉の梢に向かって石を投げた時、沢庵は障子を開けて大声で怒鳴りつけた。
「こらっ! 何をしておるか!」
それ以降、彼の部屋の障子は一日中閉じられたままだった。
同じ棟の離れた部屋にお通もいたが、その部屋の障子も今日は閉じられたままだった。
寺の僧が薬を運び込んだり、粥を持ち運んだりしていた。
昨夜の大雨の中で、お通は寺の者に見つかり無理やり引き上げられたが、その際、住職から厳しく叱られたという。
そして風邪を引いたらしく、今日はずっと寝込んでいた。
夜になると、昨夜とは打って変わって月が明るく照らし出していた。
寺の者たちが眠りにつくと、沢庵は書物に飽きたように草履を履き、外へ出て行った。
「武蔵――」
彼がそう呼びかけると、高い杉の梢がわずかに揺れ、露のしずくがバラバラと降り注いだ。
「――どうした、武蔵。返事をする元気も失せたか」
「なんだ、くそ坊主!」
まだ力強い武蔵の声が返ってきた。
「ほう、声は出るようだな。それならまだしばらく持ちそうだ。ところで、腹の具合はどうだ?」
「くだらないことを聞くな! さっさと俺の首をはねろ!」
「いやいや、軽々しく首をはねられるか。お前のような頑強な奴は、首だけになっても飛びかかってきそうだからな…まあ、月でも眺めてみようか」
沢庵はそう言って、石の上に腰をおろした。
「うぬっ! どうするか、見ていろ――」
武蔵は、全身の力を込めて、自分を縛りつけている老杉の梢を激しく揺らしながら叫んだ。
バラバラと、杉の皮や葉が、沢庵の頭に降り注ぐ。沢庵はそれを軽く払いながら、顔を上げて笑った。
「いいぞ、武蔵。もっと怒ってみせろ。そんなふうに本気で怒らなければ、真の生命力も、人間の味わいも出てこないものだ。最近の若い連中は、怒らないことを知識や人格の高さと勘違いしているが、若者というのはもっと怒らなければならん。さあ、もっと怒れ、もっと!」
「オオッ! この縄を擦り切って地面に降りたら、貴様を蹴り殺してやる! 覚悟しろ!」
武蔵はなおも激しく叫んだ。
「頼もしい。その日が来るのを待っているよ――だが、その前に、お前の命が尽きなければいいがな」
「何をっ…!」
武蔵はますます怒りを募らせたが、沢庵は冷静に続ける。
「大した力だな、木が揺れる。しかし、大地はびくともしないじゃないか。お前の怒りは所詮、私憤だ。そんなものでは弱い。真の男の怒りは公のためにあるべきだ。個人的な感情で怒るのは、女のすることだ」
「好き勝手にほざいていろ! 今に見ていろ!」
「だめだ、武蔵。もうやめておけ、もがくだけ無駄だ。天地を揺るがすことはできんし、この大木の枝一本さえ裂けはしない」
「くっ…残念だ…」
武蔵は悔しそうに唸った。
「その力を国のためとは言わないが、少なくとも他人のために使ってみろ。天地も動くし、神だって助けてくれるさ――人間であればなおさらだ」
沢庵は、説教を続けるように言葉を紡いだ。
「惜しい、惜しいぞ、武蔵。お前はせっかく人間に生まれたというのに、猪や狼のような野性のまま、ほんの少しも人間らしく成長することなく、この若さで命を終えようとしている」
「うるさい!」
武蔵は唾を吐いたが、その唾は高い梢から地面に届く前に霧のように消えてしまった。
「聞け、武蔵。お前は自分の腕力に自信を持っていたろう? 世の中に俺ほど強い者はいない、そう慢心していただろう? …だが、今のこの有様を見ろ」
「俺は恥じていない! 腕力でお前に負けたわけではない!」
「策で負けようが、口先で負けようが、負けは負けだ。その証拠に、どれだけ悔しがっても俺はここに悠々と座り、お前はあの梢に晒されている。これが何の差か、わかるか?」
武蔵は無言である。
「確かに、お前の腕力は強い。虎と人間では相撲にならん。しかし、虎は人間以下の存在だ」
再び、武蔵は沈黙する。
「たとえば、お前の勇気も同じだ。今までの行動は無知からくる蛮勇だ。人間らしい勇気ではない。真の武士の強さというのは、恐怖を知った上で、それに立ち向かうものだ。命を惜しみ、慈しみながらも、真の死所を見出すのが真の人間というものだ。…俺が惜しいと言ったのはそこだ。お前には天性の力と勇気はあるが、学問がない。武道の悪い面だけを学び、知恵と徳を磨こうとしなかった。文武両道と言うが、これは二つの道ではない。両方を備えて初めて一つの道なのだ――わかるか、武蔵?」
石は何も言わず、樹も語らず、闇はただ静寂のまま続いていた。
しばらくの間、沈黙が続いていたが、やがて、沢庵は石の上から立ち上がった。
「武蔵、もう一晩、考えてみろ。その上で、首を刎ねてやろう」
そう言って、彼は立ち去りかけた。十歩――いや二十歩ほど、本堂の方へ向かって歩いていたときだった。
「ちょっと待ってくれ!」
武蔵が、空から声をかけた。
「なんだ?」
遠くから振り向いて沢庵が答える。
「もう一度、戻ってきてくれ」
「ふむ……こうか」
沢庵が再び戻ると、突然、武蔵は大声で叫んだ。
「沢庵坊! 助けてくれ!」
まるで泣いているかのように、梢が揺れていた。
「俺は、今から生まれ直したい。人間として生まれたのは、何か大きな使命を背負っていたんだと、ようやく気づいたんだ。……そのことが分かった途端、俺はこの樹に縛りつけられている。ああ、なんて取り返しのつかないことをしたんだ!」
「ようやく気がついたか。そうして初めてお前の命は、ほんとうに人間らしいものになったと言える」
「俺は死にたくない! もう一度、生きてみたい。出直したいんだ。……沢庵坊、頼む、助けてくれ!」
「いかん!」
沢庵は断固として首を振った。
「何事も、やり直しができないのが人生だ。世の中のことは、すべてが真剣勝負だ。斬られた後で首を繋ぎ直そうとするのと同じだ。不憫だが、その縄を解いてやることはできん。せめて、死に顔が無様にならぬように、念仏を唱えて静かに最期を迎えるがよい」
沢庵はそれだけ言うと、彼の草履の音が遠ざかっていった。
武蔵はそれ以上叫ばなかった。
沢庵に言われた通り、彼はすべてを諦め、生死の狭間に身を委ね、夜風と星々の中で心も身体も冷たくなっていった。
――すると、誰かが現れた。
樹の下に立ち、梢を仰ぎ見ている影があった。その影は、千年杉にしがみついて、懸命に低い枝までよじ登ろうとしていたが、どうやら木登りが得意ではないらしく、登ろうとしては滑り落ちるを繰り返していた。
それでも、手の皮が剥けるまで何度も挑戦し、ついに下の枝に手をかけ、次々と枝をつかんで高い所まで登ることができた。
息を切らしながら、声をかけた。
「……武蔵さん……武蔵さん……」
武蔵はまるで骸骨のような顔を向けた。
「……お、お通さん?」
「逃げましょう。あなたはさっき、生きたいって言いましたよね」
「逃げる?」
「ええ……。私も、もうこの村にはいられない。もし残ったら……耐えられない……。武蔵さん、私があなたを救います。あなたは、私の助けを受けてくれますか?」
「おう! 早く切ってくれ! この縄を!」
「待っててください」
お通は小さな旅支度を背負い、髪から足元まで完全に旅立つ準備をしていた。
短刀を抜くと、武蔵を縛る縄を一気に断ち切った。
だが、武蔵は長い間縛られていたため、手足の感覚がほとんどなかった。お通が武蔵を支えようとしたが、二人はバランスを崩し、そのまま一緒に大地へと落ちていった。
武蔵は立ち上がっていた。
二丈(約6メートル)もある樹の上から落ちたのに、まるで茫然としたまま、大地に立っている。
「ウーム……」と呻く声が彼の足元から聞こえた。
ふと目を落として見ると、一緒に落ちたお通が、手足を突っ張って地面でもがいている。
「おっ」と声をあげて、武蔵は彼女を抱き起こした。
「お通さん! 大丈夫か?」
「……痛い……痛いです……」
「どこを打った?」
「どこを打ったか分かりません。でも、歩けます、大丈夫です」
「途中の枝に何度もぶつかったから、そんなにひどい怪我はしてないはずだ」
「それより、あなたは?」
「俺は……」
武蔵は考え込んでから答えた。
「――俺は生きている!」
「生きていますとも」
「それしか分からないんだ」
「急ぎましょう! 一刻も早く。……もし誰かに見つかったら、私たち二人とも、今度こそ命はないでしょう」
お通は、足を引きずりながら歩き始めた。
武蔵も黙々と彼女に続いた。まるで、秋の霜の上を片足の虫が進むように、遅々とした歩みだった。
「ご覧なさい、播磨灘の方が、ほんのり夜が白みかけています」
「ここはどこだ?」
「中山峠です。……もう頂上ですよ」
「そんなに歩いてきたか……」
「人の心は、怖いほど強いものですね。そうそう、あなたは、丸二日も何も食べてないでしょう?」
そう言われて、武蔵は初めて飢えを感じた。
お通は背負っていた包みから、米粉を練った餅を取り出し、武蔵に渡した。
甘い餡が舌を滑り落ち、武蔵はその瞬間、生きていることの喜びを強く感じた。餅を持つ指が震え、
(俺は生きている……)
と心の中で叫び、同時に、
(これから生まれ変わるんだ!)
と確信した。
赤く染まった朝の雲が、二人の顔を照らした。お通の顔が鮮やかに見えてくると、武蔵はここに彼女と二人でいることが、まるで夢のようで、どうしても不思議な気持ちを拭えなかった。
「昼間になったら油断できませんよ。それに、もうすぐ国境ですから」
「国境だと?」
武蔵の目が急に鋭くなった。
「そうだ、俺はこれから日名倉の木戸に行く」
「え?……日名倉へ?」
「あそこの山牢には、姉上が囚われているんだ。姉を助け出すために、俺は行く。だから、お通さんとはここで別れだ」
お通はその言葉に黙り込み、恨めしそうに武蔵の顔を見つめた。
そしてやがて、彼の手に自分の手を伸ばしかけたが、顔も体も熱くなり、ただ情熱に震えるだけだった。
「私の気持ちは、いつかちゃんと話します。でも、今ここで別れるのは嫌です。どこへでも、私を連れて行ってください」
「……でも」
「お願いです」
お通は地面に手をついて言った。
「――あなたがどう言おうと、私は離れません。もしお姉様を助けるのに私が足手まといなら、私は先に姫路の城下で待っています」
「……じゃあ……」
武蔵はようやく立ち上がりかけた。
「必ずですよ?」
「ああ」
「花田橋で待っています。来なければ、百日でも千日でも待ち続けますからね」
ただ頷くだけで、武蔵は峠を越え、山の背を駆け出していった。