表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/165

樹石問答

 春の終わりを告げる昨夜の雨と風が、すべてを洗い流した今朝、太陽は容赦なくその光を照りつけていた。


「沢庵様、武蔵はまだ生きておるのかね?」


 お杉隠居が、夜が明けるとまるで楽しみにしていたように寺へ現れ、そう尋ねた。


「おう、おばばか」


 沢庵は縁側に出てきて、にやりと笑いながら言った。


「昨日の雨はすごかったのう」


「よい嵐であったわい」


 お杉も笑みを浮かべ、遠くにある千年杉の梢に目をやった。


「でも、あれでもまだ生きておるのか? 雑巾のようにぐったりして、まったく身動きもしておらんが…」


「まあ、あの鴉どもが武蔵の顔に集まらんところを見ると、まだ生きていると見て間違いないだろうな」


「そうか、そうか…」


 お杉はうなずき、寺の奥を覗き込んでさらに尋ねた。


「ところで、嫁御の姿が見えぬが、どこにおる?」


「嫁御って、誰のことじゃ?」


 沢庵は首をかしげた。


「お通じゃよ」


「まだ本位田家の嫁ではあるまいが…」


「すぐに嫁になる。うちの跡取りじゃ」


むこがいない家に嫁を迎えるのか?」


 沢庵はからかうように答えたが、お杉は気にも留めずに言い返した。


「おぬしは余計な口を出さずにおれ。お通はどこにおる?」


「たぶん寝ておるじゃろう」


 沢庵はそっけなく答えた。


「なるほど…」


 お杉は納得した様子で、ひとりでうなずいた。


「夜は武蔵の見張りをさせたから、昼は眠たいのも当然じゃ。昼間の見張りは、沢庵どの、あんたの役目じゃぞ」


 お杉はそう言うと、千年杉の下へ行き、しばらく見上げていた。やがて、杖をつきながら里へ降りて行った。


 沢庵は再び部屋に戻り、その後は夕方まで姿を見せなかった。


 里の子供が上がってきて千年杉の梢に向かって石を投げた時、沢庵は障子を開けて大声で怒鳴りつけた。


「こらっ! 何をしておるか!」


 それ以降、彼の部屋の障子は一日中閉じられたままだった。


 同じ棟の離れた部屋にお通もいたが、その部屋の障子も今日は閉じられたままだった。


 寺の僧が薬を運び込んだり、粥を持ち運んだりしていた。


 昨夜の大雨の中で、お通は寺の者に見つかり無理やり引き上げられたが、その際、住職から厳しく叱られたという。


 そして風邪を引いたらしく、今日はずっと寝込んでいた。


 夜になると、昨夜とは打って変わって月が明るく照らし出していた。


 寺の者たちが眠りにつくと、沢庵は書物に飽きたように草履を履き、外へ出て行った。


「武蔵――」


 彼がそう呼びかけると、高い杉の梢がわずかに揺れ、露のしずくがバラバラと降り注いだ。


「――どうした、武蔵。返事をする元気も失せたか」


「なんだ、くそ坊主!」


 まだ力強い武蔵の声が返ってきた。


「ほう、声は出るようだな。それならまだしばらく持ちそうだ。ところで、腹の具合はどうだ?」


「くだらないことを聞くな! さっさと俺の首をはねろ!」


「いやいや、軽々しく首をはねられるか。お前のような頑強な奴は、首だけになっても飛びかかってきそうだからな…まあ、月でも眺めてみようか」


 沢庵はそう言って、石の上に腰をおろした。



「うぬっ! どうするか、見ていろ――」


 武蔵は、全身の力を込めて、自分を縛りつけている老杉の梢を激しく揺らしながら叫んだ。


 バラバラと、杉の皮や葉が、沢庵の頭に降り注ぐ。沢庵はそれを軽く払いながら、顔を上げて笑った。


「いいぞ、武蔵。もっと怒ってみせろ。そんなふうに本気で怒らなければ、真の生命力も、人間の味わいも出てこないものだ。最近の若い連中は、怒らないことを知識や人格の高さと勘違いしているが、若者というのはもっと怒らなければならん。さあ、もっと怒れ、もっと!」


「オオッ! この縄を擦り切って地面に降りたら、貴様を蹴り殺してやる! 覚悟しろ!」


 武蔵はなおも激しく叫んだ。


「頼もしい。その日が来るのを待っているよ――だが、その前に、お前の命が尽きなければいいがな」


「何をっ…!」


 武蔵はますます怒りを募らせたが、沢庵は冷静に続ける。


「大した力だな、木が揺れる。しかし、大地はびくともしないじゃないか。お前の怒りは所詮、私憤だ。そんなものでは弱い。真の男の怒りは公のためにあるべきだ。個人的な感情で怒るのは、女のすることだ」


「好き勝手にほざいていろ! 今に見ていろ!」


「だめだ、武蔵。もうやめておけ、もがくだけ無駄だ。天地を揺るがすことはできんし、この大木の枝一本さえ裂けはしない」


「くっ…残念だ…」


 武蔵は悔しそうに唸った。


「その力を国のためとは言わないが、少なくとも他人のために使ってみろ。天地も動くし、神だって助けてくれるさ――人間であればなおさらだ」


 沢庵は、説教を続けるように言葉を紡いだ。


「惜しい、惜しいぞ、武蔵。お前はせっかく人間に生まれたというのに、猪や狼のような野性のまま、ほんの少しも人間らしく成長することなく、この若さで命を終えようとしている」


「うるさい!」


 武蔵は唾を吐いたが、その唾は高い梢から地面に届く前に霧のように消えてしまった。


「聞け、武蔵。お前は自分の腕力に自信を持っていたろう? 世の中に俺ほど強い者はいない、そう慢心していただろう? …だが、今のこの有様を見ろ」


「俺は恥じていない! 腕力でお前に負けたわけではない!」


「策で負けようが、口先で負けようが、負けは負けだ。その証拠に、どれだけ悔しがっても俺はここに悠々と座り、お前はあの梢に晒されている。これが何の差か、わかるか?」


 武蔵は無言である。


「確かに、お前の腕力は強い。虎と人間では相撲にならん。しかし、虎は人間以下の存在だ」


 再び、武蔵は沈黙する。


「たとえば、お前の勇気も同じだ。今までの行動は無知からくる蛮勇だ。人間らしい勇気ではない。真の武士の強さというのは、恐怖を知った上で、それに立ち向かうものだ。命を惜しみ、慈しみながらも、真の死所を見出すのが真の人間というものだ。…俺が惜しいと言ったのはそこだ。お前には天性の力と勇気はあるが、学問がない。武道の悪い面だけを学び、知恵と徳を磨こうとしなかった。文武両道と言うが、これは二つの道ではない。両方を備えて初めて一つの道なのだ――わかるか、武蔵?」



 石は何も言わず、樹も語らず、闇はただ静寂のまま続いていた。


 しばらくの間、沈黙が続いていたが、やがて、沢庵は石の上から立ち上がった。


「武蔵、もう一晩、考えてみろ。その上で、首を刎ねてやろう」


 そう言って、彼は立ち去りかけた。十歩――いや二十歩ほど、本堂の方へ向かって歩いていたときだった。


「ちょっと待ってくれ!」


 武蔵が、空から声をかけた。


「なんだ?」


 遠くから振り向いて沢庵が答える。


「もう一度、戻ってきてくれ」


「ふむ……こうか」


 沢庵が再び戻ると、突然、武蔵は大声で叫んだ。


「沢庵坊! 助けてくれ!」


 まるで泣いているかのように、梢が揺れていた。


「俺は、今から生まれ直したい。人間として生まれたのは、何か大きな使命を背負っていたんだと、ようやく気づいたんだ。……そのことが分かった途端、俺はこの樹に縛りつけられている。ああ、なんて取り返しのつかないことをしたんだ!」


「ようやく気がついたか。そうして初めてお前の命は、ほんとうに人間らしいものになったと言える」


「俺は死にたくない! もう一度、生きてみたい。出直したいんだ。……沢庵坊、頼む、助けてくれ!」


「いかん!」


 沢庵は断固として首を振った。


「何事も、やり直しができないのが人生だ。世の中のことは、すべてが真剣勝負だ。斬られた後で首を繋ぎ直そうとするのと同じだ。不憫だが、その縄を解いてやることはできん。せめて、死に顔が無様にならぬように、念仏を唱えて静かに最期を迎えるがよい」


 沢庵はそれだけ言うと、彼の草履の音が遠ざかっていった。


 武蔵はそれ以上叫ばなかった。


 沢庵に言われた通り、彼はすべてを諦め、生死の狭間に身を委ね、夜風と星々の中で心も身体も冷たくなっていった。


 ――すると、誰かが現れた。

 樹の下に立ち、梢を仰ぎ見ている影があった。その影は、千年杉にしがみついて、懸命に低い枝までよじ登ろうとしていたが、どうやら木登りが得意ではないらしく、登ろうとしては滑り落ちるを繰り返していた。


 それでも、手の皮が剥けるまで何度も挑戦し、ついに下の枝に手をかけ、次々と枝をつかんで高い所まで登ることができた。


 息を切らしながら、声をかけた。


「……武蔵さん……武蔵さん……」


 武蔵はまるで骸骨のような顔を向けた。


「……お、お通さん?」


「逃げましょう。あなたはさっき、生きたいって言いましたよね」


「逃げる?」


「ええ……。私も、もうこの村にはいられない。もし残ったら……耐えられない……。武蔵さん、私があなたを救います。あなたは、私の助けを受けてくれますか?」


「おう! 早く切ってくれ! この縄を!」


「待っててください」


 お通は小さな旅支度を背負い、髪から足元まで完全に旅立つ準備をしていた。


 短刀を抜くと、武蔵を縛る縄を一気に断ち切った。


 だが、武蔵は長い間縛られていたため、手足の感覚がほとんどなかった。お通が武蔵を支えようとしたが、二人はバランスを崩し、そのまま一緒に大地へと落ちていった。



 武蔵は立ち上がっていた。


 二丈(約6メートル)もある樹の上から落ちたのに、まるで茫然としたまま、大地に立っている。


「ウーム……」と呻く声が彼の足元から聞こえた。


 ふと目を落として見ると、一緒に落ちたお通が、手足を突っ張って地面でもがいている。


「おっ」と声をあげて、武蔵は彼女を抱き起こした。


「お通さん! 大丈夫か?」


「……痛い……痛いです……」


「どこを打った?」


「どこを打ったか分かりません。でも、歩けます、大丈夫です」


「途中の枝に何度もぶつかったから、そんなにひどい怪我はしてないはずだ」


「それより、あなたは?」


「俺は……」


 武蔵は考え込んでから答えた。


「――俺は生きている!」


「生きていますとも」


「それしか分からないんだ」


「急ぎましょう! 一刻も早く。……もし誰かに見つかったら、私たち二人とも、今度こそ命はないでしょう」


 お通は、足を引きずりながら歩き始めた。


 武蔵も黙々と彼女に続いた。まるで、秋の霜の上を片足の虫が進むように、遅々とした歩みだった。


「ご覧なさい、播磨灘はりまなだの方が、ほんのり夜が白みかけています」


「ここはどこだ?」


「中山峠です。……もう頂上ですよ」


「そんなに歩いてきたか……」


「人の心は、怖いほど強いものですね。そうそう、あなたは、丸二日も何も食べてないでしょう?」


 そう言われて、武蔵は初めて飢えを感じた。


 お通は背負っていた包みから、米粉を練った餅を取り出し、武蔵に渡した。


 甘い餡が舌を滑り落ち、武蔵はその瞬間、生きていることの喜びを強く感じた。餅を持つ指が震え、


(俺は生きている……)


 と心の中で叫び、同時に、


(これから生まれ変わるんだ!)


 と確信した。


 赤く染まった朝の雲が、二人の顔を照らした。お通の顔が鮮やかに見えてくると、武蔵はここに彼女と二人でいることが、まるで夢のようで、どうしても不思議な気持ちを拭えなかった。


「昼間になったら油断できませんよ。それに、もうすぐ国境ですから」


「国境だと?」


 武蔵の目が急に鋭くなった。


「そうだ、俺はこれから日名倉ひなくらの木戸に行く」


「え?……日名倉へ?」


「あそこの山牢には、姉上が囚われているんだ。姉を助け出すために、俺は行く。だから、お通さんとはここで別れだ」


 お通はその言葉に黙り込み、恨めしそうに武蔵の顔を見つめた。


 そしてやがて、彼の手に自分の手を伸ばしかけたが、顔も体も熱くなり、ただ情熱に震えるだけだった。


「私の気持ちは、いつかちゃんと話します。でも、今ここで別れるのは嫌です。どこへでも、私を連れて行ってください」


「……でも」


「お願いです」


 お通は地面に手をついて言った。


「――あなたがどう言おうと、私は離れません。もしお姉様を助けるのに私が足手まといなら、私は先に姫路の城下で待っています」


「……じゃあ……」


 武蔵はようやく立ち上がりかけた。


「必ずですよ?」


「ああ」


花田橋はなだばしで待っています。来なければ、百日でも千日でも待ち続けますからね」


 ただ頷くだけで、武蔵は峠を越え、山の背を駆け出していった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ