導母の杖
武蔵は、深い眠りに落ちていた。
彼が今眠っている小さな祠の軒には、「浅間神社」と書かれた額が掛かっている。ここは高原の一部で、瘤のように隆起した岩山の上にあり、この塩尻峠では、ここよりも高い場所は見当たらない。
「おーい、登って来いよ! 富士山が見えるぞ!」
突然、耳元で誰かの声が響いた。祠の縁に手を枕にして寝ていた武蔵は、驚いて起き上がったが、眼を開けた瞬間、眩ゆい朝焼けに射られて、思わず目を細めた。しかし、周囲を見渡しても人影はない。ただ、遠くの雲海に、真っ赤な富士山の姿が浮かんでいた。
「おお、富士山か...」
武蔵は、まるで少年のように驚きの声をあげた。絵や心の中で描いていた富士を、こうして初めて実際に目にすることになったのだ。
しかも、寝起きで唐突にその雄大な姿を自分と同じ高さに見出したことで、彼はしばらく我を忘れ、ただその美しさに圧倒された。
「――ああ...」
ため息が胸の中で自然に漏れた。そしてそのまま、瞬きもせずに富士山を見つめ続けた。
何を感じたのか、武蔵の頬には涙が伝い始めた。それを拭おうともせず、彼の顔は朝日で赤く染まり、涙の跡が輝いて見える。
――人間の小ささ!
その瞬間、武蔵は強く打たれた。広大な宇宙の前で、彼は自分がいかに小さな存在であるかを痛感し、その小ささが胸を締めつけた。
一乗寺下り松で、吉岡一門の多くを一刀で打ち倒したあの時から、彼の心の中にはいつしか、
(世の中なんて、俺には容易いものだ)
という自負が芽生えていた。世に名を知られる剣豪たちが何人いようとも、彼らがどれほどのものなのかという驕りが、徐々に顔を出し始めていたのだ。
だが今――たとえ剣の道で天下無双の強者になったとしても、その力がいったいどれほどの価値があるのか。宇宙の中で、どれほどの命の力を持ち得るのか。
富士の悠久の美しさを見ていると、武蔵はその限界を痛感し、悲しさと同時に悔しさが湧いてきた。
結局のところ、人間はその限界の範囲でしか生きられない。自然の悠久さは真似しようとしても真似られるものではない。自分よりも偉大なものが、はっきりと自分の上に存在している。それに比べて自分は...。武蔵は、富士山と対等に立つことが恐ろしくなり、いつの間にか地に膝をついていた。
「…………」
そして、手を合わせて祈っていた。
合わされた両手を通して、彼は母の冥福を祈り、国土への感謝を捧げ、お通や城太郎の無事を願った。そして神のような偉大さにはなれないが、人間として少しでも大きな存在になりたい――そんな小さな願いも、心の底で祈り続けた。
「…………」
武蔵は静かに祈り続けていた。
すると、ふいに――
「ばか、なぜ人間が小さいと言うのだ?」
という声が、まるで天から降ってきたかのように響いた。
「人間の目に映って初めて自然は偉大だと感じるのだ。人間の心が神の存在を感じて初めて、神が存在する意義が生まれる。だからこそ、人間こそが最も偉大な存在であり、行動する霊物なのだ」
「お前と神、そして宇宙は決して遠い存在ではない。お前が持つ三尺の刀を通じてさえ、そこに届くことができるほど近いものだ。いや、その違いを感じるうちは、まだ道半ばに過ぎず、達人には程遠い存在だと言えよう」
その声が心に響いたとき、武蔵は閃き(ひらめき)を感じた。まるで天啓のように――
「なるほど! これは素晴らしい!」
「お富士様がこんなに綺麗に見えるなんて、滅多にないことですな!」
下の方から登ってきた旅人たちの声が、武蔵の耳に届いた。彼らは、目の前の景色に感嘆し、手をかざしてその美しさを称えていた。
彼らの中にも、ただ山を山として見る者と、神として仰ぐ者がいたように、同じ景色でも見方は人それぞれだった。
高原の道を見下ろすと、東西から行き交う旅人たちの姿が、まるで蟻のように見える。武蔵は祠の裏に回り、道の様子を見張っていた。――やがて奈良井の大蔵と城太郎が麓から登ってくるはずだ。
「もし見逃したとしても、大蔵たちはこの祠を見落とすことはないだろう」と、武蔵は安心していた。なぜなら、彼は岩山の下にある道端に板切れを拾い、そこに次のように書いて、目立つ崖に立てかけていたからだ。
奈良井の大蔵どの
御通過のみぎりはお会い申したく、上の小祠にてお待ち申しおり候
城太郎の師 武蔵
しかし、朝の一刻が過ぎ、高原の陽が高く昇る頃になっても、それらしい人影は見当たらず、札を見て声をかけてくる者もいない。
「おかしいなあ?」と、武蔵は疑問を抱かざるを得なかった。
「来ないわけがないが?」と、どうしても思ってしまう。
この高原の峰を境にして、道は甲州、中山道、北国街道の三方に分かれている。どの道を選ぶにしても、この場所を通らない理由が見当たらなかった。
だが、世の中の動きを理屈で推し測ると、往々にして間違いが起きる。もしかすると急に予定を変えたのか、まだ麓に泊まっているのかもしれない。腰に一日の備えはしているが、朝食と昼食を兼ねて、麓の宿場まで戻ってみるべきか?
「……そうだな」
武蔵は岩山を降りようと決めた。
その瞬間だった。
「いたぞっ!」
突然、下からぶしつけな声が響いた。その声には明らかな殺気が含まれていた。おとといの晩、いきなり身をかすめた棒の音に似たものを感じた。武蔵が岩にしがみつきながら下を覗くと、案の定、その声を発している人物は、あの時の権之助だった。
「――客人! 追ってきたぞ!」
声をかけたのは、駒ヶ岳のふもとの土民、権之助で、後ろには母親を牛の背に乗せて連れていた。権之助は四尺ほどの杖と手綱を持ち、武蔵を見上げながら鋭く睨みつけて言った。
「客人! いいところで会ったな。黙って俺の宿から逃げ出したつもりだろうが、俺の気持ちを読んで躱したところで、俺の立場がねえんだよ。もう一度、試合をしろ。今度こそ俺の杖を受けてみろ!」
――降りようとしていた足を止め、武蔵は岩と岩の間の急な細道の途中で、しばらく下を見つめていた。
降りて来ない武蔵を見て、下にいた権之助は、興奮気味に母に言った。
「おっかあ、ここで見ていな。試合は平地じゃなきゃできねえってことはねえんだ。登っていって、あの野郎を眼下に叩き落としてやる!」
牛の手綱を放し、杖を握り直すと、権之助は岩山に取りつこうとした。しかし、彼の母がそれをたしなめた。
「これ、権之助! またそのような粗忽な行動が、不覚を招いたではないか。いきり立つ前に、相手の心をよく読んでおかぬと、もし上から石でも落とされたらどうするつもりだ」
母子の声はまだ聞こえているが、武蔵の位置からは詳細までは聞き取れなかった。
その間に、武蔵はすでに決断していた――この挑戦は避けるべきだという考えである。すでに一度勝っている相手であり、権之助の杖の技量も十分わかっている。改めて試合をする必要はないのだ。
さらに、あの母子の執念深さを見ると、また恨みを買うのは得策ではない。吉岡一門との戦いで学んだこともあり、怨みを残すような試合は、いかなる勝利でも無益だ。場合によっては、自らの天命を縮めてしまうこともある。
そして、武蔵は母の盲愛がどれほど恐ろしいか、身にしみて感じていた。思い出すのは、又八の母・お杉の姿――あの呪いが残した影だ。
何も好んでまた母親からの呪いを買うことはない。これは逃げるしかない、と考えた武蔵は、無言のまま再び岩山を登りかけた。
その背中に、今度は権之助ではなく、老母の方が声をかけてきた。
「――お武家!」
声に引かれ、武蔵は足元を振り返った。老母は岩山の下に腰を下ろし、じっと武蔵を見上げていた。武蔵が視線を向けると、老母は両手を地面につき、頭を下げていた。
武蔵は驚いて立ち止まり、向き直らずにはいられなかった。一晩の恩を受けたとはいえ、何も礼を言わずに出てきた自分に対して、地に手をついて拝まれるなど、到底受け入れられない。
(お老母、勿体ない、お手を上げてください)
そう言いたくて、思わず膝を屈めてしまった。
「――お武家様。さだめし、我ら親子を取るに足らぬ者とお蔑みでございましょう。それは仕方ございません。しかし、我が子を不憫に思し召して、もう一度手を合わせてやっていただけませぬか」
武蔵は無言のままだったが、老母の言葉には、真実がこもっていた。
「このままお別れしては、何とも無念でございます。あの敗れ方では、この子も私も、先祖に顔向けできません。意趣返しではございません。ただ、あのままでは、ただの土民が叩きのめされたに過ぎませぬ。どうか、もう一度、我が子に手ほどきをしていただけますよう、お願い申し上げます」
老母はそう言うと、再び地に両手をつき、武蔵の足元に拝むように頭を下げた。
武蔵は黙って岩山を降りてきた。そして道ばたに座る老母の手を取って、牛の背へ押し戻しながら言った。
「権どの、手綱を持て。歩きながら話そう。――試合をするかしないか、歩きながら考えるとして。」
そう言い終えると、武蔵は再び黙り込んで、母子に背を向けて歩き出した。話しながら歩こうと言ったものの、沈黙が続く。
権之助は、武蔵の迷いが何なのか察することができない。彼は疑いの目を武蔵の背中に向けつつ、牛を叱りながら追いかける。母の表情にもまだ不安が残っているようだった。
そして、高原の道をしばらく歩いたところで、武蔵が突然立ち止まり、独り言のように「ウム」と呟いたかと思うと、急に振り返って言った。
「――立ち合おう。」
権之助はすぐに手綱を捨て、待ちきれない様子で足場を見回しながら、短く「承知!」と応じた。
しかし武蔵は彼の意気込みを無視し、牛の背に乗る老母に向かって言った。
「――母御。万が一のことがあっても構いませんか? 試合と斬り合いの差は、持ち物が違うだけで、ほとんど紙一重です。」
念を押すように尋ねると、老母は笑みを浮かべて言った。
「修行者よ、そこまでのことを仰せられるまでもござりませぬ。杖を習い始めて十年。それでもなお、あなたに負けるようなこの伜であれば、武道に見切りをつけるべきでございます。それができぬなら、生きる甲斐もない。――ならば、打たれて死んだとしても本望。それが母としての願いでございます。」
「そこまでおっしゃるのなら。」
武蔵は権之助が捨てた手綱を拾いながら、周囲を見渡し、言った。
「ここは往来が多い。どこか静かな場所で牛を繋ぎ、心ゆくまでお相手しよう。」
武蔵は高原の中ほどにある一本の枯れかけた落葉松を指さし、そこへ牛を導いた。
「権どの、準備を。」
促されると、権之助は待ちきれない様子で、杖を持ち、武蔵の前に立ちはだかった。だが、武蔵は何も準備をしている様子はなく、木剣も手に持っていない。ただ、柔らかく両手を下ろし、相手をじっと見ていた。
「――準備はしないのか?」
今度は権之助が尋ねた。
「なぜ?」と、武蔵は静かに反問する。
権之助は憤りを露わにしながら、「得物を取れ! 何でもいい、武器を使え!」と叫んだ。
「持っている。」
「無手か?」
「いや……」武蔵は首を振り、左手を刀の鍔にそっと移して言った。
「――ここに。」
「なに! 真剣で!?」
答える代わりに、武蔵は唇の端に薄い微笑を浮かべた。そして静かな呼吸の中に、緊張感が漂う。まるで無駄な言葉も動作も必要ないかのようだ。
一方、老母は落葉松の根元に腰を下ろしていたが、その顔は急に蒼ざめた。
――真剣で。
武蔵の一言で、老母は急に動揺したようだった。
「ア、待ってたもれ!」
ふいに横から制止の声があがった。しかし、武蔵と権之助の眼は、もはやその程度の言葉では止まることはなかった。二人の間には既に、緊張が張り詰めていた。
権之助は高原の気をすべて吸い込んだかのように、小脇に抱えた棒に全力を込めていた。武蔵は片手を鍔の下に置き、相手の眼をまっすぐに見つめている。もうこの時点で、二人は内面で斬り合っていたのだ。眼と眼が、太刀以上に相手を斬ろうとしている。まず、相手を視線で斬り伏せ、その後に棒や剣が動き出す。
「待たっしゃれ!」再び、老母が叫んだ。
「――何か?」
その声に応えるように、武蔵は数歩後退して、老母に尋ねた。
「真剣じゃそうな?」と老母が確認する。
「いかにも。木剣でも真剣でも、私にとっての試合は同じです。」
「それを止めるつもりではござりませぬ。」
「お分かりならよい。剣は絶対だ――一度手にかけたら、どんな情けもない。逃げるか戦うか、それだけです。」
「元よりのこと。止めたのはそれではない。――ただ、これほどの試合において、名乗り合わずに終わるのは悔いが残ると思っただけで。」
「うむ、なるほど。」
「恨みではない。しかし、これほどの縁えんを持つ相手だ、権、そなたから名乗りなさい。」
「はい。」
権之助は素直に一礼し、こう話し始めた。
「遠くは木曽殿の幕下に仕えた太夫房覚明という方を家祖としております。覚明は木曽殿の滅亡後、出家して法然上人の弟子となったため、その血筋が続いているかどうかは定かではありません。長らく土民として生きてきましたが、父の代に受けた屈辱を無念に思い、母と共に御嶽神社で誓いを立てました。そして、神前において会得した杖術を『夢想流』と称し、人々は私を『夢想権之助』と呼んでおります。」
話を終えると、武蔵も礼を返して言った。
「私は播州赤松家の支流、平田将監の末裔にあたります。美作の宮本村に住む宮本無二斎の子、同じく武蔵と申します。特に有縁の者もおりませんし、武辺者として世に生きている以上、この試合であなたの杖に討たれ命を落としたとしても、葬儀などは不要です。」
そして武蔵が「では」と言うと、権之助も杖を持ち直し、同じように「では」と応じた。
松の根元に腰を落ち着けた老母は、まるで息をしていないかのように見えた。災難に見舞われたというよりも、彼女自身の意思でわが子を白刃の前に立たせたのである。常人では到底理解できない心理がそこにある。しかし、この老母は自若としていた。まるで、自分だけは深く信じる何かがあるかのように――。
「…………」
老母は、肩を少し前に落とし、静かに両手を膝に重ねたままじっとしている。幾人もの子を生み、幾人もの子を亡くし、貧苦に耐えてきたその姿は小さく、萎みきっている。しかし、その小さな体を持つ老母は、今まさに息子の運命が武蔵の剣の前に晒される瞬間、まるで天地の仏神が宿るかのような強い光をその瞳に宿していた。
武蔵が剣を抜くその瞬間、権之助は自らの運命を感じ取り、体がさっと冷たくなるのを覚えた。
(この人間は……?)
彼は武蔵を見誤っていたことに気づいた。以前、家の裏で不用意に戦った時とは、全く異なる人物のように見えた。まるで、草書の武蔵を見ていたのが、今は楷書の武蔵を目の当たりにしているかのように、厳粛で揺るぎない姿がそこにあった。
そのため、以前なら自信を持って振り下ろしたはずの杖も、今は高く振りかぶったまま、一撃を放つことができなかった。
「…………」
「…………」
いの字ヶ原の草原に薄霧がかかり、遠く霞んだ山々を一羽の鳥が悠々と横切っていく。
――ぱっと、空気が二人の間で弾けた。まるで飛ぶ鳥も落ちるような見えない振動が走った。杖が空気を裂いたのか、剣が風を鳴らしたのか、それすらも判別できない瞬間だ。それはまさに、禅で言う「隻手の声」の如く、答えのない問いのような一瞬だった。
二人の動きは、まさに一如であり、目で追うことは難しい。一瞬の間に、二人の位置や姿勢が完全に変わっていた。権之助が振り下ろした一撃は武蔵の体を外れ、武蔵の剣は小手を返し、中位から上位へと薙ぎ上げられ、権之助の右肩にかすかに触れるほどの鋭さで閃いた。
そして、武蔵の剣は相手の体をかすめた後、ヒラリと切っ先を返し、その鋭い動きが再び敵を狙う。これが武蔵の特徴であり、この返しの動きこそ、彼の相手を地獄に落とす瞬間だった。
権之助は、再び第二撃を許す間もなく、杖の両端を持ち、武蔵の剣を頭上で受け止めた。
「カン!」と、彼の額の上で杖が鳴った。白刃と杖が交差したこの瞬間、杖は真っ二つになってもおかしくない状況だが、刃が斜めでない限りは簡単に切れるものではない。
権之助はその手心を見極め、杖を横にかざし、右の肘を高く上げて、突如として武蔵の鳩尾を突かんとしたが、彼の意図は成功しなかった。
杖と剣が頭上で十字に噛み合ったその瞬間、ほんの一寸の差で権之助の突きは空を切ったのだ。
一歩も引けない。
押し進めることもできない。
無理にそれを行おうとすれば、瞬く間に焦り、敗れるのは目に見えている。
もしこれが刀同士の勝負であれば、「鍔競り」と呼ばれるだろう。しかし、片方は刀であり、もう片方は杖である。杖には鍔も刃も、切先も柄もない。だが、四尺の丸い杖は、その全てが刃であり、切先であり、また柄であるとも言える。だからこそ、熟練者に使われると、その変化の多様さは刀をも凌ぐ。
剣士の直感で、「こう来る」と予測したら、思わぬ痛手を負うことになる。杖は時に刀のように振る舞い、短槍のようにも使えるからだ。
今、杖と刀が十文字に噛み合った状態で、武蔵が刀を引けない理由は、その予測が不可能だからだった。
権之助は、なおさらである。彼の杖は武蔵の刀を頭上で支えているため、引くことはおろか、少しでも気を緩めたら、すぐに武蔵の刀が彼の頭を一押しで砕くだろう。
権之助も御岳での夢想を体得し、杖の自由を手に入れたが、今この瞬間はどうにもできなかった。
見ているうちに、彼の顔は蒼白に変わっていく。下唇には歯が食い込み、吊り上がった目尻から脂汗が滲み出す。
「…………」
杖と刀の十字が微妙に波打ち、下で権之助の息が荒くなる。
――その時。
権之助以上に蒼ざめた表情で、松の根元から凝視していた老母が、「権ッ」と叫んだ。
その瞬間、老母は我を忘れていたのだろう。腰を強く打ちながら、「腰じゃわえ!」と罵り、そのまま前へ崩れ落ちた。
その叫びを聞いた途端、武蔵も権之助も石像のように動かなかった杖と刀が、一瞬にして弾けるように離れた。
武蔵の方が先に退いた。しかし、二尺や三尺ではなく、彼の踵が土を掘ったように勢いよく後退し、その反動で彼の体は七尺も後方へ移動した。
だが、その距離はすぐに権之助の飛び込みと四尺の杖で詰められ、
「――あッ」
武蔵は咄嗟に横へ払い退いた。
死地から攻勢に転じた権之助は、その勢いで前へ倒れ込み、背中を大きくさらけ出してしまった。
一本の雨のような細い閃光が、その背中を斬った。――仔牛のような呻き声を上げ、権之助は数歩よろめき、そしてそのまま地面へ倒れた。
武蔵も片手で鳩尾を押さえながら、草の上に腰を落とした。
そして、
「――負けた!」
と叫んだ。
武蔵がである。
権之助は声も出なかった。
権之助は前のめりに倒れたまま、まるで動かなかった。その姿を見つめていた老母は、まるで心を失ったかのようだった。
「峰打ちです」
武蔵は老母に向かってそう言って注意を与えた。しかし、老母はまだ起き上がってこない。
「早く、水をおやりなさい。ご子息には、怪我はないはずです」
「……えっ?」
老母は初めて顔を上げ、少し疑うように権之助の姿を見た。武蔵の言う通り、権之助は血にまみれてはいなかった。
「おお……」
老母は蹌めきながら急いで権之助に駆け寄り、彼の体にすがりついた。水を与え、名を呼びながら体を揺り動かすと、権之助は息を吹き返した。そして茫然としたまま、武蔵を見て、
「おそれいりました」
権之助は土に額をつけ、深々と頭を下げた。
武蔵はその手を取って、慌てて言った。
「いや、敗れたのはお前ではない。私の方だ」
そう言いながら、襟を開いて自分の鳩尾を二人に見せた。
「杖の先が、赤く痕を残しているだろう。もう少し深ければ、私の命はなかったに違いない」
武蔵はそう言いながらも、まだ茫然としていた。自分がどうして敗れたのか、完全には理解できていないのだ。
同じく、権之助も老母も、武蔵の鳩尾に残る小さな紅い斑点を見つめ、言葉を失っていた。
武蔵は襟を正し、老母に尋ねた。
「今、二人が試合をしている最中に、あの『腰!』という叫びはどういう意味だったのですか?あの瞬間、権之助殿の腰構えにどんな隙を見つけられたのでしょう?」
老母は少し恥ずかしそうに答えた。
「お恥ずかしい話ですが、せがれはただ、あなたの刀を杖で支えることに必死で、両足を踏みしめていただけでした。引くことも、突くこともできない絶体絶命の状況に陥っていたのです。――それを横から見ているうちに、武術も何も知らないわたしですら、ある隙が見えたのです。それは――あなたの刀に心を奪われていたため、彼は縛られていたのです。手を引くべきか、手で突くべきかで迷い、完全に混乱していましたが、そのまま腰を落とせば、自然に杖の先があなたの胸元へと伸びるはずだ、と気づいたのです。それで、思わず叫んでしまったのです」
武蔵は頷いた。
「よい教えを受けました。この機会に感謝します」
黙然と聞いていた権之助も、何かを悟ったようだった。御岳の神の夢想ではない、目の前にある現実の中で、母親が愛情の中から見つけた「究極の活理」だった。
後に権之助は「夢想権之助」と名乗り、夢想流杖術の始祖となる。彼はその伝書の奥書に、「導母の一手」と名付けた秘術を記し、母の愛と武蔵との試合を詳述している。しかし、彼の記録には「武蔵に勝つ」とは書かれていない。彼は生涯、自らが武蔵に敗れたと語り、その敗北を尊いものとして記録していた。
それはさておき、母子の幸福を祈って武蔵は別れを告げ、いの字ヶ原を去り、上諏訪の辺りまで来たころ。
「この道筋を、武蔵という者が通らなかったか?確かにこの道を通ったはずだが――」
馬子の立場や行き交う旅人に、行く先々でその名を尋ねながら、武蔵を追う一人の武家がいた。




