毒歯
水面に映る火の影と、小舟の中で人が掲げる火。深夜の池を進む松明は、まるで二羽の火の鴛鴦が泳いでいるかのように遠くから見える。
「……お?」
お通はそれを目にしたとき、
「誰か来る!」
と、狼狽しながら声をあげたのは又八だった。大胆なことをするくせに、何か事にぶつかると途端に臆病になるのが彼の性分だ。
「どうする?……そうだ、こっちへ来い。こっちへ来やがれ!」
そこは楊柳に囲まれた池畔の雨乞堂だった。地元の人々も何を祀っているのか詳しくは知らないが、旱に雨を祈れば、駒ヶ岳からこの野婦之池に恵みの雨が降ると信じられている場所だ。
「いやです」
お通は動こうとしない。
先ほどから、堂の裏手に引きずり込まれ、又八に責め苛まれていた。両手が自由であれば、せめて突き飛ばすくらいはしたいと思ったが、それも叶わない。隙があれば、池に飛び込んでしまいたい――それほどの覚悟を持っていた。だが、それもできない。
「立たねぇか!」
又八は、手に持っていた篠の鞭で、お通の背を叩いた。
だが、打たれれば打たれるほど、お通の意志は強くなる。もっと打てばいい――そう思うほどに。黙って又八の顔を睨みつけると、彼はすっかり気後れしてしまった。
「歩けよ、ほら!」
それでもお通が動かないと、今度は猛然と襟を掴み、
「来いっ!」
と引きずりながら、彼女を池のほうへ連れ出そうとした。しかし、お通が悲鳴をあげようとすると、又八は手拭いで彼女の口を塞ぎ、担ぎ上げるようにして堂の中へ放り込んだ。
堂の木連格子を抑えながら、又八は松明の火がどう進むかを窺っていた。やがてその小舟は、雨乞堂から二町ほど先の池尻の入江へ滑り込み、松明の火もやがて消え去ったようだ。
「……ふぅ、よかった」
ほっと胸を撫で下ろしたが、まだ完全に安心できなかった。お通の体は今、自分の手中にあるが、彼女の心はまだ手に入れられていない。心のない肉体だけを持ち歩くことの辛さ――それを又八は、宵から痛感していた。
無理やり――暴力で、彼女を自分のものにしようとすれば、お通は死を覚悟した表情を見せる。舌を噛み切ってでも死のうとするほどだ。幼い頃からお通の性格を知っている又八は、それを容易に信じることができた。
(殺すわけにはいかねぇ)
そう思うと、盲目的な力も情欲も、すぐに萎えてしまう。
(どうしてこんなに俺を嫌い、武蔵を慕うんだ? ――昔は、俺と武蔵の立場が逆だったはずなのに)
又八には理解できなかった。自分の方が武蔵よりも女に好かれる素質があると信じていたからだ。事実、彼はお甲をはじめ、多くの女性にそうした経験があった。
きっと武蔵が、お通を最初に誘惑し、手なずけたのだ――そして折あるごとに、俺のことを悪く言って、お通に俺への嫌悪感を抱かせたに違いない。きっとそうだ。武蔵は、自分に会うたびに友情深いふりをして……
(俺は馬鹿だ。武蔵に騙されたんだ……その偽りの友情に涙まで流して)
そう思うと、又八は木連格子にもたれながら、かつて膳所の色街で佐々木小次郎が忠告してくれた言葉を思い返していた。
今になって思い当たる――
あの佐々木小次郎が、自分のお人好しさを笑い飛ばし、武蔵の腹黒さを散々罵ったときのこと。
「尻の毛まで抜かれるぞ」と言ったあの忠告が、今、又八の心にしっくりと響いてきた。
同時に、武蔵に対する又八の考えが一変した。これまでも何度も気持ちが揺れ動いては持ち直してきた友情だったが、今度は以前の憎悪にさらに輪をかけて、
「よくも俺を……」
と、心の底から湧き上がる呪いのような感情が唇を噛むほどに強まった。
又八は、日常的に人を憎んだり嫉んだりすることが多い性格ではあったが、ここまで激しく人を呪うような強い意志を持つことはなかった。しかし、今度ばかりは違った。武蔵に対して、七生まで恨みを持ち続けるかのような怨念が心に宿ったのだ。彼と自分は同じ郷で育った友でありながら、どうしても生涯の仇として宿命づけられてきた悪縁に思えてくるのだった。
「似非君子め……」
そう思わず口に出る。そもそも、あいつが俺を見るたびに、やれ「真人間になれ」「発奮しろ」「一緒に世に出よう」などと、まるで誠実ぶった口調で言うたびに、その顔が憎らしくて仕方がない。
あの泣き落としに騙されて、涙まで流したかと思うと、又八の腹の中は煮えくり返る。自分のお人好しさを見透かされ、武蔵に弄ばれたような気がして、全身の血が呪いと悔しさに沸き立ってくるのだ。
(世の中の善人なんてものは、みんな武蔵のように君子ぶった偽善者ばかりだ。よし、俺はそいつらの逆側に回ってやる。クソ真面目に勉強して窮屈な思いをするなんてごめんだ。悪人でいい、俺はそっち側に回って、一生武蔵の出世を邪魔してやる)
何かにつけて、いつもこうした根性を出すのが又八の性分だったが、今回ばかりは彼の生涯で最も強い意志だった。
――「どん!」
まるで自分に言い聞かせるかのように、又八は背後の木連格子を蹴り飛ばした。先ほどまでお通を押し込んでいたあの彼と、今外に立って腕組みをして戻ってきた彼とは、まるでヘビが蛇になったように変わっていた。
「……ふん、泣いてやがる」
雨乞堂の中の暗い床を見やりながら、又八は冷たく吐き捨てた。
「お通」
「…………」
「やいっ、さっきの返事をしろ、返事を」
「…………」
「泣いてちゃ分からねぇ」
足を上げて蹴ろうとしたその瞬間、お通はそれを感じて身をかわしながら、
「あなたに返す言葉なんてありません。男なら、殺すなら殺しなさい」
と、毅然と言った。
「バカを言え」鼻で笑って――
「俺は今、腹を決めた。お前と武蔵が俺の人生を狂わせたんだ。だから、俺も一生かけてお前と武蔵に復讐してやる」
「嘘をおっしゃらないで。あなたの人生を狂わせたのは、あなた自身と、お甲という女の人でしょう?」
「何を言ってやがる」
「あなたもお杉婆様も、どうしてあなたの家は、そうやって他人を逆恨みするんですか?」
「余計な口を叩くな! 俺が聞いてるのは、お前が俺の嫁になるかどうか、それだけだ!」
「その答えなら、何度でも申し上げます」
「おう、言ってみろ」
「生きているうちはもちろん、死んでも私の心にあるのは宮本武蔵様だけです。それ以外に心を寄せる人がいるはずがありません。……まして、あなたのような女々しい男、お通は――心から嫌い、身震いするほど嫌いです」
これほどまでに言い放てば、どんな男でも、殺すか諦めるか、どちらかに決めるだろうとお通は思った。そして、心の中で覚悟を決め、どうされても仕方がないと観念していた。
「……ウウム、言ったな」
又八は体の震えを必死に抑え、冷笑を浮かべようとした。
「それほど俺が嫌いか。――はっきりしてていいぜ。だが、お通、俺もはっきり言っておく。てめえが嫌おうが好こうが、今夜からお前の体は俺のものだ」
「……?」
「何を震えてんだ?……今の言葉、覚悟して言ったんだろ?」
「ええ、私はお寺で育ちました。生みの親の顔すら知らない孤児です。死ぬことなんて、少しも怖くはありません」
「冗談じゃねぇ」
又八は、お通のそばにしゃがみ込むと、彼女が顔を背けるのを意地悪く追いながら言った。
「誰が殺す?――殺してたまるもんか。こうしてやる!」
突然、彼はお通の肩と左手を固くつかみ、そして、着物越しに彼女の二の腕に深く噛みついた。
――「ひっ!」 お通は思わず悲鳴をあげ、必死にもがきながら、彼の歯を離そうとしたが、噛みつく力は強く、血が滲み、袖口から垂れ落ちていった。
それでも尚、又八はまるでワニのように噛み続けていた。
「……!」
お通の顔は、月明かりを浴びたかのように真っ白になり、その変化に驚いた又八は、ようやく唇を離し、猿ぐつわを外して彼女の唇を調べた。――もしかして、舌でも噛み切ったのかと心配になったのだ。
お通の顔は、まるで鏡が曇ったかのように薄い汗で覆われていたが、唇の中に異常はなかった。
「……おいっ、堪忍しろ。……お通、お通!」
必死に彼女を揺さぶると、お通は我に返った。しかし、その直後、再び床に倒れ込み、
「痛い……痛い……城太さあん、城太さあん!」
とうわごとのように叫び始めた。
「痛ぇか」
又八も青ざめながら、肩で息をしながら言った。
「血は止まったが、歯型の痕は簡単には消えねぇぞ。お前がこの痕を隠しきれずに誰かに見られたら、何て思う?……武蔵が見たらどう思うだろうな? いずれお前の体は俺のものになる。その証として、この痕を残してやるよ。逃げたければ逃げりゃいい。俺は天下に、俺の歯型を持つ女に触れた奴は俺の敵だって言ってやるからな」
暗い堂内に、お通のすすり泣く声だけが響いていた。
「……泣きやめっ、いつまで泣いてんだ。気が滅入るだろうが。もう苛めねぇから、黙ってろ。……水でも持って来てやるか」
そう言って又八は、祭壇から土器を取り、外に出ようとしたその時、木連格子の外に誰かが立って、こちらを覗き込んでいた。
「誰か?」
又八はぎょっとしたが、堂の外に見えた人影は、逃げるように慌てて転がりながら去っていく。猛然と又八は木連格子を押し開け、
「野郎っ!」
と叫びながら、すぐさま追いかけた。
捕まえたのは、この辺りの土民のようで、馬の背に穀物の俵を積み、夜を通して塩尻の問屋へ向かっていたところだった。そして、諄々と弁解しながら、
「べつに悪気があってのことではなく、堂の中から女子の泣き声が聞こえたので、不審に思い、少し覗いただけでございます」
と、平蜘蛛のように詫び入る。弱い者には強く出る性格の又八は、反り身になって、
「それだけか? 本当にそれだけか?」
と、代官のように威張って問いただす。
「へい、まったくそれだけのことで……」
と相手がますます震えながら答えると、
「ふむ、それなら勘弁してやる。だが、その代わり、馬の背の俵を全部下ろせ。そして、俵の代わりにあの堂の中にいる女を括りつけて、俺が良いと言うところまで運んでもらうぞ」
と言って、脅しをかける。お通は馬の背に括りつけられた。
又八は竹の棒を拾い上げ、それを鞭代わりに使いながら馬を引く百姓を叱りつける。
「こら、土民!」
「へい」
「街道筋には出るなよ」
「どこへお越しなさるのでございますか?」
「なるべく人の通らない道を行け。中山道を避けて、伊那から甲州へ抜けるんだ」
「そんな山道を……権兵衛峠を越えねばなりませぬ」
「越えりゃいいじゃねえか。骨惜しみするならこれだぞ!」
と言いながら、鞭を振り回し、百姓を追い立てる。
「飯だけは必ず食わせてやる。安心して進め」
百姓は泣き声になって、
「旦那、伊那までお供いたしますが、そこから先は放していただけますか?」
「やかましい。俺が良いと言うまでだ。変な動きをしたら斬り捨てるぞ。俺が欲しいのは馬だけで、人間なんぞ邪魔なだけだ」
道は次第に暗くなり、険しい山道に差しかかると、馬も人も疲れ果てていた。やっと姥神の中腹まで来ると、雲海の向こうに微かに朝の光が見えた。
馬の背に括りつけられてきたお通も、朝の光を見て、どこか覚悟を決めたように、静かに口を開いた。
「又八さん、どうかお願いですから、この百姓さんを放してあげてください。馬も返してあげてください。私は逃げたりしません。ただ、この方が可哀想でなりません」
又八は疑いながらも、再三再四お通が訴えるので、ついに彼女を馬の背から降ろし、
「じゃあ、俺についてくるんだな?」
と念を押した。
「ええ、逃げません。蛇歯型が消えない限り、逃げても無駄ですから……」
お通は二の腕の傷を押さえながら、唇を噛みしめた。




