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現代語訳 宮本武蔵  作者: AI Gen Lab
空の巻
86/165

木曾冠者

 さっき、関所近くの茶屋から少し離れた場所で、本位田又八ほんいだまたはちが、おおつうを牛ごとどこかへ連れ去ったということは、すでに街道筋では広まり、隠しようもない噂となっていた。


 しかし、丘の上にいたため、それを知らなかったのは武蔵むさし一人だった。


 今、武蔵は慌ただしく、来た道を駆け戻っているが、すでに事件が広まってから半刻はんときほどが過ぎていた。


 ――もし彼女に危険が迫っているとすれば、間に合うのだろうか。


「亭主、亭主!」

 関所のさく六刻むつどきに閉まる。それと同時に、店を片付けていた茶屋の主人が、後ろからの呼び声に気づいて振り返った。


「なにかお忘れ物でも?」

「いや、半刻ほど前にここを通った女性と少年を探しているのだが」

「ああ、牛に乗った普賢様ふげんさまのような女中おんなじゅうでございますな」

「そうだ。その二人を、牢人ろうにんの男が無理やり連れ去ったというが、どこへ向かったか知らないか?」

「見ていたわけではありませんが、往来の噂では、この店の首塚くびづかのある所から横道に曲がり、野婦之池のぶのいけの方へどんどん駆けて行ったそうです」


 薄暗がりの中、茶屋の主人が指さす方向へ、武蔵の影はすでに宙を飛ぶように走り去っていた。

 道中で聞いた噂を繋ぎ合わせても、なぜ、誰が彼女をさらったのか、まったく見当がつかない。


 その犯人が又八だとは、武蔵には夢にも思えなかった。いずれ道中で追いついてくるか、江戸で再会するだろうと考えていた。五年前の誤解を叡山えいざんの無動寺で解き、お互い幼なじみに戻ったかのように手を握り合い、

(これまでのことは水に流して)

 と武蔵が励まし、

(お前も真面目になって、希望を持て)

 と諭した時、又八は涙を浮かべ、

(勉強するよ。真人間になってやり直すから、兄貴として導いてくれ)

 と言ったはずだ。


 その又八が――まさか、そんなことが起こるはずがないと、武蔵は疑いもしなかった。


 もし犯人がいるとすれば、それは戦後の各地で職を求めながら得られず、浮浪している牢人か、あるいは道中で悪事を働く鼠賊そぞくか、それとも剽悍ひょうかんな野武士の類だろうと考えていたが、どれも闇をつかむような推測に過ぎなかった。


「野婦之池の方角」と言われて急いで進んだが、陽が暮れると冴え渡る星空とは対照的に、地上は一寸先も見えないほどの暗さだった。さらに、その池らしい場所にたどり着く気配すらなかった。田畑や森の緩やかな傾斜を感じながら歩いていると、どうやら駒ヶ岳の裾野に踏み込んでいるらしいが――と武蔵は立ち止まり、迷い込んだことを悟った。


「道を間違えたな……」

 そう思った。


 周囲の暗闇を見渡していると、駒ヶ岳の巨大な壁を背にした防風林に囲まれた農家から、ぼんやりと赤い光が見えた。焚き火か、かまどの火か、その光が木々に映っていた。


 近づいてみると、そこには武蔵にも見覚えのある斑模様の牝牛が繋がれていた――お通の姿は見えなかったが、牛だけは無事にその百姓家のくりやの外に繋がれて、のんびりと鳴いていた。



「……あの斑牛ぶちうしか」

 ほっとして武蔵むさしは胸をなで下ろした。おおつうの乗っていた牛がこの家に繋がれているなら、彼女もここに連れ込まれているに違いない。


 だが、この防風林に囲まれた百姓家ひゃくしょうやは一体何者の住処なのか。無闇に踏み込んで、お通を再び隠されるような事態になってはならないと、武蔵は慎重に行動を決めた。

 しばらく影を潜めて中の様子を窺っていると、

「おっかあ、いい加減にもうやめんかい! 眼が悪いって言いながら、そんな暗ぇところでいつまで仕事してるんだ」

 と、隅の暗がりから途方もない大声が聞こえてきた。


 耳を澄ますと、赤々と揺れる火影ほかげは、くりやの次の炉部屋ろべやで、その部屋の奥か、破れた障子が閉まっている辺りから、かすかに糸車の音が聞こえていた。しかし、その音もすぐに止み、大声を出した息子が言うことを聞いて、仕事を片付けたのだろう。


 しばらくして、隅の小屋で働いていた息子が戸を閉める音がし、

「今、足を洗うから、すぐ飯が食えるようにしてくれよ、おっ母!」

 と言いながら、草履ぞうりを手にして、厨の脇を流れる小川のそばの石に腰掛け、足を洗い始めた。

 すると、その肩にまだら牝牛めうしがのっそりと顔を近づけた。息子は牛の鼻を撫でながら、返事のない母屋に向かって再び大声で言った。

「おっ母! 後で手が空いたら、ちょっとここに来て見てくれよ。おら、今日すごい拾い物をしたんだ――何だと思う? 牛だよ、しかもすばらしい牝牛だ。畑にも使えるし、乳も搾れる!」


 その言葉を聞きながら外で佇んでいた武蔵は、彼らの様子をもっと観察していれば後の誤解も避けられたかもしれない。だが、彼はもうほとんどの状況を察したつもりになり、この家の入口に近づいていた。


 農家としては広そうな家で、古くから続く旧家のようだ。だが、小作人もいなければ、女性の姿も見えない。藁葺き屋根も苔に覆われ、手入れが行き届いていないように見えた。


「……?」

 開けっぱなしの横の小窓。その下にある石を踏み台にして、武蔵は母屋の中をそっと覗いてみた。


 まず彼の目に飛び込んできたのは、黒い長押なげしに掛かっている一筋の薙刀なぎなただった。それは普通の民家にあるはずのない品物で、少なくとも一流の武将が手入れしていた業物であることは間違いなかった。さや揉皮もみかわには金の紋章がかすかに残っている。


「さては……」

 武蔵はその薙刀を見て、さらに疑念を深めた。


 先ほど隅の小屋から出てきた若い男の姿は、ちらっとしか見えなかったが、その風貌は明らかにただの農民ではなかった。腰に泥まみれの脚絆きゃはんを巻き、野良仕事用の着物を着ていたが、一本の刀を腰に差し込んでいた。丸い顔に、そそけ立った髪、そして背丈は五尺五寸ほどしかないが、胸の筋肉と足腰のしっかりした動きから、一目で(こいつは曲者だな)と感じさせるものがあった。


 案の定、母屋には百姓が持つべきでない薙刀があり、を敷いた床に人の姿はなく、大きな炉の中で松のまつまきがばちばちと燃えていた。煙は一つの窓から外へゆっくりと吐き出されていた。


「……あっ」

 武蔵は、たもとで口を押さえたが、瞬間、煙で喉をやられ、咳を堪えきれなかった。

「誰じゃ?」

 厨の中から老婆の声がした。武蔵が窓の下に身を潜めると、炉部屋にその老婆が入ってきたようで、再び声が聞こえた。

権之助ごんのすけ! 小屋はちゃんと閉めたか? あわ泥棒が来て、くしゃみをしておるぞ!」



 ――来たら幸いだ。

 まずあの猪男ししおとこを捕まえて、お通をどこに隠したか詮議するのはその後だ。

 老婆の息子らしい、その勇猛そうな男の他にも、いざとなれば二、三名の敵が飛び出してくるかもしれないが、彼さえ押さえれば、大したことはない。


 武蔵むさしは、母屋の中で老婆が「権之助ごんのすけ!」と呼ぶ声を聞きながら、小窓の下を離れ、この家を囲む立木の陰に身を隠した。すると、やがて息子が裏から大股で駆けてきて、

「どこにっ?」

 と大声で叫び、

「おっかあ、何がいたんだ?」

 と怒鳴りながら問いかけた。


 小窓に老婆の影が映り、

「その辺で、今、咳の声が聞こえたんじゃがのう」

「耳のせいじゃないか? おっ母、この頃は眼も悪いし、耳も遠くなったからなあ」

「そうじゃない、誰かが窓から家の中を覗き見していたに違いない。煙にむせた声じゃった」

「ふうん……?」

 権之助は十歩、二十歩とその辺りを巡り、まるで城郭でも見廻るかのように歩いて、

「そういえば、何だか人の気配がするな」

 と呟いた。


 武蔵がうかつに動けなかった理由は、権之助の眼が闇の中でぎらぎらと光り、明らかに害意に満ちているのが見えたためだった。さらに、彼の動きには何かしら構えがあり、その構えが気になっていた。足元から胸にかけて隙がないように見えるのだ。


 注意深く見ていると、権之助は右手から脇に抜けるようにして、約四尺ほどの丸棒を取り出した。その棒は、そこらにあるただの棒とは違い、一種の武器としての光を放っていた。棒と権之助はまさに一体となっており、武蔵にはこの男が常にその棒と共に生活していることが見て取れた。


「やっ、誰だ!」

 突然、棒が風を切り、権之助の背から前に素早く伸びた。武蔵はその一撃に対応し、棒の先からやや斜めに身をかわして立った。

「連れを引き取りに来た」


 相手が黙って睨みつけてくるので、武蔵は続けた。

「街道からここへ誘拐かどわかして来た女と子供を返せ。――もし無事に返して詫びるなら許してやるが、怪我などさせていたら承知しないぞ」


 駒ヶ岳から吹き下ろしてくる冷たい風が、星空の下で時折そよそよと忍び寄ってくる。

「――渡せ。連れて来い!」

 三度目の要求だった。武蔵の声は雪風のように鋭く、権之助の髪の毛が針鼠はりねずみのように立ち上がった。


「この馬糞野郎め! 俺を誘拐犯だと?」

「おう、連れのない女と子供を見くびって、ここへ連れ去ったに違いない。――隠している者を出せ!」


「な、なんだと!」

 権之助は激昂し、その体から突然、四尺以上の棒を繰り出した。――棒と手が一体となったその動きは、あまりに速く、目にもとまらないほどだった。



 武蔵むさしは避けるしかなかった。権之助ごんのすけの驚くべき技量と体力を前にしては、無闇に向かうわけにはいかない。


 一応の警告として、

「おのれ、後で悔やむなよ」

 と言い放ち、数歩跳び退いたが、権之助は

「なにを、洒落くせえ!」

 と叫びながら、まったく容赦なく追い詰めてきた。十歩退けば十歩迫り、五歩躱かわせば五歩寄ってくる。


 武蔵は数度、刀の柄に手をかけかけたが、そのたびに非常な危険を感じ、結局、刀を抜く暇すらなかった。柄に手をかける一瞬でも、肘を晒す隙が生じてしまう。敵によって、そんな危険を感じない場合もあれば、警戒する必要がある場合もあるが、権之助の振る棒の速さは、武蔵の神経よりもはるかに迅速だった。無謀に抜刀すれば、棒の一撃で敗れるだろう。焦りを持てば、呼吸が乱れ、身体のバランスを崩すだけだった。


 もう一つ、武蔵を慎重にさせた理由は、相手の権之助が一体何者なのか、見当がつかなくなったことだった。彼の振る棒には、一定の法則があり、その足捌きや体の動きから見ても、ただの農民ではない。武蔵から見れば、彼の体は金剛不壊こんごうふえのように揺るぎないもので、その体の隅々までが武術の「道」に従っているように見えた。武蔵自身が追い求めてやまない、その「道」の精神力が、この男には光っていたのだ。


 こうして説明すると、お互いが悠然と構えているように思えるが、実際には瞬間ごとに次の瞬間が続いていた。権之助の棒は、まばたきする間もなく繰り出され続けている。

「おおうっ!」

 と息を吐き、

「えおおうッ!」

 と踵を蹴り、再び棒を改めて打ち込んでくるたびに、

「この、どたぐそ!」

「かったいぼうめ!」

 と口汚い方言で悪態をつきながら攻め込んできた。


 棒の動きは打ち込みに留まらず、ぎ、突き、まわし、片手でも両手でも自由に使われていた。刀は片方の切先しか使えないが、棒は両端が切先ともなり、まるで飴屋が飴を引き伸ばすように、長くも短くも自由自在に操られているかのようだった。


ごん! 気をつけろ、その相手はただ者ではないぞ!」

 不意に、母屋の窓から老婆が叫んだ。武蔵が感じていたことを、老母もまた感じ取っていたのだ。

「大丈夫だよ、おっ母!」

 権は母が見守っていることを知り、さらに勇猛さを増した。だが、その瞬間、武蔵が棒の一閃を躱し、権の小手こてを掴んだかと思うと、大きな石でも降り落ちたかのように、権は背中から地面に叩きつけられ、足は高く星空を蹴り上げていた。


「待て! 牢人ろうにん!」

 息子の命が危ういと感じたのか、窓にしがみついていた老母は竹格子を突き破り、凄まじい声で武蔵を止めた。その血相は、武蔵の次の行動にためらいを与えるほどの迫力だった。



 その時、老母の髪が逆立って見えたのは、肉親として当然のことだっただろう。

 息子の権之助ごんのすけ武蔵むさしに投げ飛ばされたことは、老母にとって非常に意外な出来事だったようだ。――普通ならば、武蔵は次の瞬間、権之助の真っ向に抜き打ちで一太刀浴びせるべきだった。だが、そうはせずに、

「おう、待ってやる」

 と呟き、武蔵は権之助の胸に馬乗りになり、まだ棒を手放さない右手首を足で踏みつけたまま、老母の顔が見える小窓を振り仰いだ。


「……?」

 武蔵はすぐに目を反らした。老母の顔が、もうその窓から見えなくなっていたからだ。

 一方、権之助は武蔵に組み伏せられながらも、もがき続け、武蔵の制圧を振りほどこうと必死だった。特に彼の足は、空を蹴り、地面に突っ張り、腰車こしぐるまの技を駆使して反撃の機会を狙っていた。油断できる状況ではない上に、窓から消えた老母がすぐに動き出した。


 老母はくりやの蔵からさっと走り出てきて、組み敷かれている息子に向かってののしりながら言った。

「なんというざまだ、この不覚者が。母が助太刀してやるから、負けるな!」

 ――老母が「待て」と言うのを期待していた武蔵は、額を地にすりつけて息子の助命を乞うかと思っていた。しかし、案に相違して老母は息子を励まし、まだ戦おうとする構えを見せた。


 見ると、老母の脇には、皮鞘かわざやを払った薙刀なぎなたが星明りを吸い込んで鈍く光っていた。彼女は武蔵の背中を狙いながら、

「この痩せ牢人め、土民とあなどって、小賢しい腕を振るったな。ここをただの百姓家と思ったか」

 と、挑発するように言った。


 背中から迫られることは、武蔵にとって厄介だった。目の前に組み敷いている生き物を相手にしているため、自由に向き直ることができない。さらに権之助は地面に体を擦り付け、母に有利な位置を作ろうと必死に動いていた。


「何だ、こんな奴……おっ母、心配いらねえ。あんまり近寄らないでくれ、今、ひっくり返してみせる!」

 呻きながら、権之助はそう言った。

「焦るでない!」

 と老母はたしなめ、

「もともとこんな野宿者に負けていいわけがない。御先祖の血を奮い起こせ! 木曾殿きそどの御内みうちにも人ありと知られた太夫房覚明たゆうぼうかくみょうの血はどこへ行った!」


 すると権之助は、

「ここに持っている!」

 と言いながら首をもたげ、武蔵の膝行袴たっつけの上から武蔵の太ももに噛みついた。


 すでに棒を離した権之助は、両手で武蔵を抑え込み、武蔵に技を繰り出す隙を与えなかった。さらに、老母が薙刀を持って背中から狙っていることがわかり、武蔵は次第に追い込まれていく。

「待て、老母!」

 ついに武蔵は叫んだ。これ以上争っても愚かだと気づいたのだ。このままでは、どちらかが斬られるか、命を落とすしかない。


 しかし、それでもおおつう城太郎じょうたろうが救われるかはわからない。今は一度、穏やかに事情を打ち明けるべきだと考えた。

 そう思い直した武蔵は、老母に向かって刃を引くよう求めた。老母はすぐには答えず、

「権、どうする?」

 と、組み伏せられた息子に和解の提案を受け入れるかどうかを相談し始めた。



 松薪まつまきはちょうど燃え盛っていた。この家の母子おやこ武蔵むさしをここへ伴ってきたのは、先ほどの話し合いによって、双方の誤解が解けた結果だろう。


「やれやれ、危ないことだった。まさか、あんな行き違いから――」

 老母おうばはほっとした様子で膝を折り、座りかけた息子を抑えて、

「これ、権之助ごんのすけ

「おい」

「座る前に、このお侍様をご案内して、この家の隅々までお見せ申し上げなさい。――さっき外で尋ねられた女子おなごわらべが隠されていないことを、ご確認いただけるように」

「そうだな。俺が街道から女を誘拐かどわかしてきたと疑われているのは悔しいからな――お武家さん、俺にいてこの家のどこでも改めてもらおう」


 武蔵はすでに炉の前に席を占めていたが、母子の申し出に対して、

「いや、ご潔白はすでに分かりました。疑ったことはお詫び申し上げます」

 と詫びた。権之助も少しばかり間が悪くなり、

「俺も悪かった。もう少し、そっちの用向きをただした上で怒ればよかったんだ」

 と、炉辺に寄ってあぐらを組んだ。


 だが、武蔵にはまだ気になることがあった。それは、先ほど外で見かけたまだら牝牛めうしだった。あの牛は、武蔵が叡山えいざんから連れてきたもので、途中から病弱なおおつうのために城太郎じょうたろうに手綱を預けていた。それがどうしてこの家の裏に繋がれているのか。


「いや、そんな事情なら俺を疑ったのも無理はない」

 権之助は答えた。実は、彼はこの辺りで少しばかり田を耕している百姓だが、夕方、野婦之池のぶのいけふなを網に打って帰る途中、池尻の川に一頭の牝牛が足を突っ込んでもがいていた。


「沼が深く、もがくほど牛は沼に滑り込み、哀れな啼き声をあげていた。引き上げてみたら、まだ若い牝牛で、辺りに飼い主の姿は見えなかった。てっきりどこかから盗み出して捨てられたものだと思ったんだ。牛一匹あれば、半人前の野良仕事はできる。これは天が授けてくれたものだと思って、良い気になって引っぱってきただけの話さ。飼い主が分かっちゃ仕方がない、牛はいつでも返すよ。だが、お通とか城太郎とか、そんな奴らのことは全然知らないぜ」


 話が進むと、権之助は粗朴な田舎者で、最初の誤解はその率直さから起こったものだということが分かってきた。


「しかし、旅のお侍様、それはさぞ心配でござろう」

 と老母はまた母らしい優しさを見せ、息子に向かって言った。

「権之助、早く晩飯をかき込んで、その気の毒なお連れを一緒に探してあげなさい。野婦之池あたりにいればよいが、もし駒ヶ岳の奥へでも入り込んだら、他国者よそものには難しいだろう。――あの山には、馬や野菜をさらっていく野伏者のぶせりが多く巣食っているという話だ。おそらく、そういった無頼者の仕業だろうが」



 松明たいまつの先が、ぶすぶすと風に煽られて燃えていた。

 巨大な山の裾野に風が吹き込むと、一瞬、草木が激しく揺れ、凄まじい音を立てるが、風が止むと、静けさが戻り、星がただ不気味にまたたくのみ。


「旅の者よ」

 権之助ごんのすけは手に持った松明を掲げ、後ろから来る武蔵むさしを待ちながら言った。

「気の毒だが、どうしても見つからねえな。これから野婦之池のぶのいけへ行く途中にもう一軒、あの丘の雑木林の向こうにりょうや百姓をしている家がある。そこで尋ねても見つからなければ、もう手の打ちようがねえってもんだ」

「ご親切にありがとうございます。十数軒を回って手がかりがなければ、私が方角を間違えたのでしょう」

「かもしれねえな。女を誘拐かどわかするような悪党は、悪知恵が働くから、そう簡単に追いつける場所へ逃げるはずがねえ」


 もう夜半を過ぎていた。

 駒ヶ岳の裾野――野婦村のぶむらや樋口村、その付近の丘や林は、宵からほぼ歩き尽くしたと言ってもいい。


 せめて城太郎じょうたろうの消息でも知れればよいが、誰一人それらしき者を見かけた者はいない。特におおつうは特徴的な姿をしているので、誰かが見かければすぐにわかるはずだったが、どこへ行っても、

「さあねえ?」

 と、首をかしげる土民ばかりであった。


 武蔵は二人の安否を気にしつつ、縁もゆかりもないのにここまで一緒に探してくれている権之助に申し訳ない気持ちが湧いてきた。明日も野良仕事があるだろうに、と思うと心が痛んだ。

「とんだ迷惑をおかけしました。そのもう一軒を尋ね、それでもわからなければ、諦めて戻ることにしましょう」

「歩くぐらいのこと、夜どおし歩いたって平気さ。でも、その女と子供ってのは、お武家さんの召使か、それとも姉弟きょうだいかね?」

「されば……」

 まさか「女は恋人で、子供は弟子だ」とは答えられず、

「身寄りの者です」

 とだけ言うと、権之助は無口になり、ひたすら野婦之池へ向かう細道を進んでいった。彼もまた、自身の家族の少なさを考えたのかもしれない。


 武蔵はお通と城太郎を案じる思いで胸がいっぱいになっていたが、その一方で、この運命のいたずらに感謝せずにはいられなかった。もしお通に災難が降りかからなかったら、この権之助に出会うこともなく、あの棒の秘術を見る機会もなかっただろう。

 お通と道が別れてしまったことは、彼女の生命が無事であれば仕方のない災難だと受け入れるしかない。しかし、もしこの世で権之助の棒術に出会わなければ、武芸の道を歩む自分にとって大きな不幸だっただろう、と武蔵は思った。


 ――折を見て、彼の素性や棒術についてもっと尋ねたい。そう考えていたが、武道の話となると不躾ぶしつけに訊くわけにもいかず、ただひたすら歩き続けていた。


「旅の者、そこに待っていろ。――あの家だが、もう寝ているに決まっている。俺が起こして訊いてくる」

 権之助は木々の中に見える藁屋根の家を指さし、ひとりで崖藪がけやぶをかき分けながら駆け下り、その家の戸を叩き始めた。



 権之助ごんのすけは程なく戻り、武蔵むさしに向かって言った。

「どうも話が曖昧で、ここの猟師りょうしの夫婦も、お前さんの尋ね事についてはさっぱり要領を得ないが、内儀かみさんが夕方、買い物の帰りに見かけたという話が、もしかすると手がかりになるかもしれねえ」


 その内儀さんの話によれば、星の白い宵の時刻、旅人の姿も途絶え、並木の風が寂しい街道を、泣きながら駆けていく小僧がいたという。手や顔は泥まみれ、腰には木刀を差し、藪原やぶはらの宿場へ向かって走っていたらしい。内儀さんがどうしたのかと声をかけると、小僧は泣きながら、

「代官所はどこにあるか教えてくれ」

 と聞いてきたそうだ。代官所に何をしに行くのかと問うと、

「連れの者が悪者にさらわれたから、取り返してもらうんだ」

 と答えたという。


 内儀さんは代官所に行っても無駄だと言った。役所は偉い人が通る時や上からのお達しがある時には大騒ぎして道の馬糞を取って砂を撒くが、弱い者の訴えには耳を貸してくれることはない。特に、女がさらわれたとか、追い剥ぎに遭ったというような小事件は街道筋では日常茶飯事だ。


 それよりも、藪原の宿を越えて奈良井まで行くとよい。そこに四ツ辻があり、奈良井の大蔵だいぞうさんという薬問屋がある。この大蔵さんは、役所とは違い、弱い者の話を親切に聞いてくれるし、正しいことなら身銭を切ってでも助けてくれる人だという。


 権之助は内儀さんの話をそのまま伝え、

「その木刀を差した小僧は泣きやんで、また後も見ずに駆けて行ったそうだ。もしや連れの城太郎じょうたろうって子供じゃないか?」

「そうだ、それに違いない!」

 武蔵は城太郎の姿を思い浮かべながら、

「――ということは、俺が探していた方向とはまるで違う方へ行ってしまったんだな」

「そうだな。ここは駒ヶ岳のふもとで、奈良井に向かう道からは大きく外れている」

「何かとお世話になった。それでは、早速奈良井の大蔵さんを訪ねてみよう。――おかげでほんの少しだが、道が開けてきた気がする」

「どうせ途中だから、俺の家で一休みして、朝飯でも食べてから行ったらどうだ?」

「そうさせてもらおうか」

野婦之池のぶのいけを渡って池尻へ出れば、途中で帰れる。今、舟を借りておいたから、それを使おう」


 二人は少し歩いて池へ降りていくと、楊柳かわやなぎに囲まれた古びた池があった。周囲は六、七町ほどあり、駒ヶ岳の影も星空も池の面にくっきりと映っていた。この地方には珍しい楊柳が、この池の周りだけに茂っている。権之助はさおを持ち、武蔵が松明たいまつを手に取り、舟は池の中央を滑るように進んでいった。


 水面に映る松明の火は、暗い水に一層赤々と燃えて見えた。――その燃える松明を、遠くからお通は見ていた。人の世の皮肉と言おうか、薄縁うすえんな二人の仲と言おうか、場所もそう遠くないところから。

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