普賢
木曽路に入ると、あちこちにまだ雪が残っている。峠の窪みからちらりと見える白い光は、駒ヶ岳の雪が作り出す模様だ。遠くには、淡い紅色の木々の芽越しに御岳の斑模様が透けて見える。
それでも、畑や道端には、浅い緑が顔を出している。季節は今、何でも育つ真っ盛りだ。踏んでも踏んでも、若い草は伸びるのをやめない。
ましてや、城太郎の胃袋に関しては、ますます成長を主張するかのようだった。最近では、髪が伸びるかのように背も伸びそうで、将来どんな大人になるのか、お通も不安を感じるほどだ。
彼は物心がつくとすぐ、世間という波に放り出された。そして拾ってくれた人はまた、流転の人だった。だからこそ、旅に次ぐ旅の苦労を味わい、その環境が彼を生意気にしてしまうのは仕方のないことだった。最近では、生意気な態度にお通も時折泣かされることがあり、
「なんでこんな子に、こんなにも懐かれてしまったのかしら……」
と、ため息をつき、睨みつけることもある。しかし、それが効くわけもない。城太郎はすっかり見抜いているのだ。怖い顔をしていても、心の中では「おいらが可愛くて仕方ないんだろう?」と。
そんな城太郎の図々しさ、季節の勢い、そして止まらない食欲が、行く先々で食べ物を見つけるたびに、
「お通さん!あれ買ってくれよ!」
と、彼の足を往来に釘付けにする。
少し前に通り過ぎた須原の宿では、木曽将軍の四天王、今井兼平の砦の跡がある場所として「兼平せんべい」が並んでいた。ついにはお通も根負けして、
「これだけよ」
と釘を刺して買い与えたが、半里も歩かないうちに、それも全部食べ終わり、また何か欲しそうな顔をしている。
寝覚では、宿場茶屋で早めの昼食をとったおかげでなんとか済んだが、ひとつ峠を越えて上松に差し掛かると、
「お通さん、お通さん。干し柿が吊るされてるよ。干し柿、食べたくない?」
と、またおねだりを始めた。
お通は牛の背に乗り、聞こえないふりをしていたので、干し柿は見過ごしたが、木曽で一番賑わう町、信濃福島に差し掛かると、時刻も八刻過ぎ、腹も空いてきた。
「休もうよ、ここらで――」
と、またおねだりが始まる。
「ねぇ、ねぇ」
鼻で声を出し、頑なな態度を見せて、もう歩こうともしない。
「ようようっ。黄粉餅食べようよ。……嫌なの?」
こうなってくると、ねだっているのか、脅迫しているのか分からない。お通の乗っている牛の手綱は城太郎が持っているため、彼が歩き出さない限り、黄粉餅屋の軒先を通り過ぎることができないのだ。
「いい加減にしなさい」
ついにお通も堪忍袋の緒が切れ、怒り出した。牛の背から睨みつけ、
「そんなに私を困らせるなら、先に行った武蔵様に言いつけますよ――」
と、わざと牛から降りる真似をしたが、城太郎は笑って見ているだけで、止める様子もない。
城太郎は、意地悪そうに笑って言った。
「どうするの……?」
彼女が本当に先に行く武蔵へ言いつけに行かないことは、分かり切っているという顔だ。
お通は仕方なく牛の背から降りると、ため息混じりに、
「さあ、早く食べなさい」
と黄粉餅屋の軒へ入っていった。
城太郎は嬉しそうに叫ぶ。
「おばちゃん、黄粉餅二盆ちょうだい!」
そう言いながら牛を馬繋ぎに繋いで、準備を始めた。
「私は食べませんよ」
とお通が言うと、
「なんでさ?」
と城太郎が聞き返す。
「そんなに食べてばかりいると、人間は馬鹿になるんですよ」
お通は冷ややかに言ったが、城太郎は笑って答える。
「じゃあ、お通さんの分も俺が食べちゃうぜ」
「――まあ、呆れた子」
お通が何を言おうが、城太郎は食べ始めると、もう他の声は耳に入らない様子だ。
城太郎は、背負っていた木剣が屈むと肋骨に当たるのが邪魔だったのか、途中でそれを背中に回し、むしゃむしゃと餅を食べながら、往来に目をやった。
「早く食べてしまいませんか?よそ見なんかしてないで」
とお通が言ったが、城太郎は、
「……おや?」
と言って、盆に残っていた一つを慌てて口に放り込み、突然外へ駆け出した。小手をかざし、何かを見た様子だ。
「もういいんですか?」
お通が戸口に出ようとしたが、城太郎は彼女を床几に押し戻して言った。
「待ちなよ」
「まだ何かねだるつもり?」
「違うさ。さっき、向こうに又八が行ったんだ」
「嘘よ」
お通は信じられない。
「――こんなところにあの人がいるわけがないじゃないですか」
「いるかいないかは知らないけど、確かに向こうへ行ったんだ。編笠をかぶってさ。そして、お通さんも気がつかなかった?俺たちをじっと見てたよ」
「……本当に?」
「嘘なら呼んで来ようか?」
お通は顔色を失い、又八の名前を聞いただけで元の病人に戻ったかのようだった。
「いいの、いいの、心配しないで。もし何かあったら、先に歩いている武蔵様のところへ駆けて行って、呼んで来るから」
お通は恐れつつも、牛の背に再び腰掛けた。しかしまだ病み上がりの体は完全ではなく、今のような話を聞いただけで、動悸が収まらない。
「ねぇ、お通さん。俺、不思議でたまらないんだ」
ふいに城太郎は言って、牛の前からお通の青ざめた唇を見上げた。
「――何が不思議かって言うとさ、馬籠峠の滝壺の上までは、お師匠さんもお通さんも、一緒に仲良く話してたのに、あれから急に二人とも黙っちゃったじゃないか」
お通が答えないので、城太郎は続ける。
「どうしてなのさ?ねぇ、お通さん。――道も離れて歩くし、晩も別々の部屋で寝てるし……喧嘩でもしたの?」
――また余計なことを聞くものだ。
食べ物のことを言わなくなったかと思えば、今度はませた口で休むことなくしゃべり続けている。それもいいが、お通と武蔵の関係を探ってみたり、からかってみたりしているのだ。
(子どものくせに……)
と、お通は思う。彼女にとって、それは心に痛む話題であり、真剣に答える気にはなれなかった。
牛の背に乗って旅ができるほどには体調も回復してきたものの、彼女の病以上に解決していない問題があった。あの馬籠峠の女滝と男滝の滝壺では、今でも、あの時の自分の泣き声と武蔵の怒声がこだましているように感じる。二人の気持ちのすれ違いが解けない限り、その滝の音は永遠に続くのだろう。
思い出すたび、彼女の耳にはその光景が甦る。
(なぜ私は?)
と彼女は悔やむ。武蔵が彼女に向けた激しい、そして率直な欲望を拒んでしまったことを、何度も頭の中で繰り返し、理由を探していた。
(なぜ? なぜあの時……?)
と自問し、悔しさと理解しようとする努力が頭から離れない。それでも最終的には、
(男というものは、皆あんな風に女に迫るものなのだろうか?)
と考えると、悲しさが込み上げ、浅ましさに変わっていった。長年、心に秘めていた純粋な恋の思いは、女滝と男滝を越えたあの山から、滝のように狂おしく胸を揺さぶり続けるものとなっていた。
そして、さらに彼女が分からなくなっているのは、武蔵の強引な抱擁を拒んで逃げたくせに、その後もこうして武蔵の姿を追い続けていることだった。矛盾しながらも、彼の背中を見失うまいとついて行く自分がいたのだ。
もちろん、あれ以来、二人の間には妙な気まずさが漂い、口数もめっきり減り、一緒に並んで歩くこともなくなってしまった。だが、武蔵は先を歩きながらも、後ろから来る牛の歩みに合わせて、江戸まで一緒に行こうという最初の約束を破るつもりはなさそうだった。城太郎のために時折道草を食って遅れることがあっても、どこかで必ず彼らを待っていてくれた。
福島の五町七辻を出ると、興禅寺の曲がり角から登り坂になり、遠くに関所の柵が見えた。関ヶ原の戦い以来、牢人調査や女性の通行には厳しいと聞いていたが、烏丸家からもらった手形のおかげで、問題なく通過することができた。
関所を通り過ぎ、牛に揺られながら歩いていると、城太郎が突然問いかけてきた。
「ふげんって、なんだろう。――お通さん、ふげんって何のことだい?」
「どうして急に?」
「さっきあそこの茶屋で、坊さんや旅人が、お通さんを見て『牛に乗った普賢みたいじゃのう』って言ってたんだよ」
「普賢菩薩のことよ」
「ふげんぼさつ? じゃあ俺は文殊様だな。普賢菩薩と文殊菩薩って、どこでも一緒にいるからね」
「食いしん坊の文殊様ですか?」
「泣き虫の普賢様となら、ちょうどお似合いだろ?」
「またそんなことを!」
お通が顔を赤くして嫌がると、城太郎はさらにしつこく問いかけた。
「でもさ、文殊と普賢菩薩って、どうしてあんなに並んでるんだろう。男と女でもないのにさ」
お通は寺で育っただけに説明はできたが、城太郎がしつこく食い下がるのを恐れて、簡潔に答えた。
「文殊は知恵を象徴し、普賢は行願を表している仏様よ」
その時、どこからともなく一人の男が、牛の尻尾に蠅のようにぴったりとついてきた。そして、
「おいっ」
と尖った声で呼び止めた。その男は、本位田又八だった。
そこらで待ち伏せしていたに違いない。
――卑劣な男。
お通は、又八の顔を見ると、こみあげてくる侮蔑の感情をどうしようもできなかった。
「…………」
又八もまた、お通の姿を見ると、愛憎が入り混じり、血が駆け巡り、眉間に感情の鋭い刃が立つような感覚に襲われ、常識というものが一切吹き飛んでしまった。
まして、彼は武蔵とお通が京都を出てから一緒に歩いている姿を見ていた。それがたとえ、今は口もきかずによそよそしく歩いていたとしても、昼間だけ人目を気にしているにすぎないと邪推していた。それだけに、二人きりの時はどんな関係なのだろうと、彼の嫉妬と怒りが煮えたぎっていた。
「降りろ」
まるで命令するかのように、彼は牛の背にうつむいているお通に向かって言った。
「…………」
お通には、もはや答える言葉もなかった。心の中でとうに彼を拒絶していたのだ。それどころか、数年前に自ら破棄した許嫁という未来の日々にさえ、もはや意味がない。最近では、京都の清水寺の谷で彼に刃を向けられ、命を狙われたことすらあった。それがまた彼女に恐怖を植えつけ、憎しみが募るだけだった。
もし答えるとしたら、
(今さら何の用が――)
ということくらいだ。しかし、お通はただ黙って彼を睨みつけ、その瞳にはますます憎悪と軽蔑が溢れていた。
「おいっ、降りないのか!」
又八は再び叫んだ。
この男も、そして彼の母親であるお杉婆も、昔から権威を振りかざしていた。許嫁でもない今、そんな横柄な態度にますます腹が立ち、無性に反発したくなる。
「何のご用でしょうか。私は降りる必要はありません」
お通は冷静に答えた。
「なんだと?」
又八はお通に歩み寄り、彼女の袖を掴んで引き寄せ、
「何でもいいから降りろ!お前には用がなくても、俺にはあるんだ!」
声を荒げ、往来のど真ん中で怒鳴った。
――その時まで黙って見ていた城太郎が、突然手綱を捨てて立ち上がり、
「嫌だって言ってるのに、無理じゃないか!」
と叫びながら、又八の胸を突いた。これにより、事態はさらに悪化した。
「おいっ、このガキ!」
又八は、ふらつきながら草履を履き直し、肩を怒らせて城太郎に向かって歩み寄った。
「どこかで見たと思ったら、てめぇ、北野の酒屋にいたガキだな?」
「大きなお世話だ!あの頃、よもぎ寮のお甲さんにいつも叱られて、小さくなっていたくせに!」
この一言は、又八にとって最も痛い指摘だった。しかも、お通の目の前で言われたのだから、彼の怒りはさらに増した。
「このチビ!」
又八は城太郎に掴みかかろうとしたが、城太郎は素早く牛の鼻先に回り込み、向こう側へと逃げた。
「おいらが鼻くそなら、お前は鼻の下の洟垂れ(はなたれ)だろう!」
城太郎は挑発的に叫び、牛を盾にしてお通の周りをぐるぐると逃げ回った。だが、ついに又八に襟を掴まれてしまい、
「さあ、もう一度言ってみろ!」
「言うとも!」
城太郎が長い木剣を半分まで抜きかけた時、彼の体は藪の中へ猫のように放り投げられていた。
藪の下には小川が流れていた。城太郎は泥鰌のように泥まみれになりながら、這い上がって再び並木に戻ってきた。
「……おやっ?」
往来を見渡すと、お通を背に乗せたままの牛が、重たい体を揺らしながら、遠くへ駆け出しているではないか。
その手綱を握りしめ、もう片方の端をムチのように振り回している影は、間違いなく又八だった。
「ちっ、畜生!」
城太郎の血は一気に頭に上り、責任感と自分の小さな力を奮い起こした。焦りから冷静さを失い、誰かに助けを求めることも忘れてしまった。
白い雲が動いているようだが、目には動いているとは見えない。雲の向こうには、駒ヶ岳がその広い裾野を伸ばし、まるで無言で旅人に語りかけているかのようだった。
「はて、俺は何を考えていたんだ?」
武蔵はふと我に返り、自分の心を見つめ直した。
眼は山を見つめているものの、心はそこにあらず、常にお通のことが頭を離れなかった。
いくら考えてみても、彼女の心の中がわからなかった。どんなに考えても、処女の心というものが理解できない。
やがて、武蔵の中に苛立ちが生じてきた。なぜ、自分が彼女に率直に迫ったことがいけなかったのか。あの火を自分の心から引き出したのは、彼女自身ではなかったのか。自分は、その情熱をそのまま彼女に見せただけだ。それなのに、彼女は自分を刎ね退け、見下すかのように身をかわした。
あの時の恥辱と、遣り場のない男の苦しさ。それを滝壺に投げ込んで、心の垢を洗い流したつもりだったが、日が経つにつれて、またしても心に迷いが湧いてきた。何度も自分の愚かさを嘲り、
(女など、振り切って先へ行ってしまえばいい!)
と自分に命じてみたが、それはただ自分を誤魔化すための虚しい言い訳に過ぎなかった。
江戸に着いたら、「貴女は好きな道を歩め。俺も自分の志を追う」と未来の約束を暗に交わして京都を出発した手前、自分には責任があると感じていた。途中で彼女を捨てて行くわけにはいかないと思ったのだ。
(――このまま、二人はどうなるんだ?俺の剣は!)
山を仰ぎながら、武蔵は唇を噛んだ。自分があまりにも小さく見え、駒ヶ岳と向き合うことすら苦しくなってきた。
「まだ来ないのか……」
ついに耐え切れず、立ち上がった。
それはもう、とうに後から見えてきてもおかしくないはずの、お通と城太郎に向けた呟きだった。今夜は藪原で宿を取る予定だったが、宮腰の宿場もまだはるか手前で、すでに陽は暮れかけている。
丘から見渡すと、街道は十町も先の森まで見えるが、それらしい人影は一向に現れない。
「はてな?……関所で何か手間取っているのか?」
見捨てて行こうかと迷いながらも、彼女たちの姿が見えなくなると心配になり、結局一歩も進むことができなかった。
武蔵は低い丘から駆け降りた。この地方に多く放し飼いされている野馬が、彼の影に驚いたのか、薄陽の差す原野を四方八方へと駆け逃げていった。
「もしもし、お侍さま。あなたは牛に乗った女子衆のお連れ様ではありませんか?」
武蔵が街道に出ると、通りすがりの一人がそう言いながら近づいてきた。
「えっ、その者に、何かあったのか?」
まだ事情を聞かないうちに、武蔵は胸騒ぎを覚え、早口で問い返した。




