道聴途説
武蔵は、黄昏を待ちながら、使いが戻るのを待っていた。
午を過ぎ、小半日も過ぎると、退屈が彼を襲う。
日はまだ長く、体はまるで飴のように伸びたがっていた。
目の前では牝牛が緋桃の木陰で寝そべっている。
武蔵も、その牛に倣い、茶店の隅の床几に横になっていた。
今朝は早くから動いていたし、昨夜もろくに眠れていなかった。
うとうとするうちに、夢の中で二匹の蝶になっていた。
彼はその一匹が自分であり、もう一匹はお通だと思っていた。
二匹の蝶が連理の枝を繞るように飛んでいる。
ふと目を覚ますと、陽が土間の奥まで差し込んでおり、寝ている間にどこか別の場所へ移ったかのように感じた。
この峠の茶店には、いつの間にか騒がしい声が響いていた。
下の谷間で石を切り出している職人たちが、毎日決まって八刻になるとここへやってきて、甘い物を食べたり、番茶を飲んだりしながら饒舌を楽しむのが日課であった。
「だらしがねえや、吉岡方は」
「まったく、あんなに弟子がいるのに、一人も刃が立たない奴ばかりだ」
そんな声が響き渡る。彼らは下り松の果し合いを話題にしていた。
「拳法の先生が偉かったんだ。二代目になると、もうだらけてるもんさ」
職人たちは、まるで自分が見てきたかのように、下り松での武蔵の戦いを語り始めた。
百人を超える敵に立ち向かい、武蔵が見事に切り抜けた話を、誇張しながら語る彼らは、さながら自分がその場にいたかのように饒舌だった。
幸いにも、当の武蔵はその話の盛り上がりには気づかず、深い眠りに落ちていた。
もし目が覚めていたら、そのあまりの誇張ぶりに笑いを堪えるのが大変だったかもしれない。
ところが、そんな職人たちの話を、無言で聞きながら顔をしかめている一組の人々がいた。
中堂の寺侍三名と、彼らに見送られてきた若い青年だ。
青年は、凛々(りり)しく旅装を整え、大太刀を背に負い、前髪を結った姿が見た目に華やかで、目立つ存在だった。
職人たちはその青年の風貌に少し気圧され、彼を避けるように場所を移動したが、それでも武蔵の名を語り続け、時折大笑いする。
ついに黙って聞いていられなくなったのか、その若い青年、佐々木小次郎は、職人たちの方を向き、「これ、職人ども」と、声をかけた。
石切の職人たちは、佐々木小次郎の声に驚き、全員が振り向いて居住いを正した。
彼らの目の前には、先刻から中堂の寺侍を伴っていた華やかな風貌の若武者が立っていた。
小次郎はその威風堂々とした姿で、彼らを圧倒していたので、職人たちは「へい」と揃って頭を下げた。
「これこれ、さっきから知ったかぶりして喋っていた奴、前に出ろ」と、小次郎は鉄扇を手に、職人の頭を指し示し、さらに続けた。
「そのほかの者たちも、こっちへ寄れ。恐れることはない。」
「へ、へい…」と、職人たちは怯えながらも頭を下げ、彼の言葉に従った。
「今聞いていたが、お前たちは口を極めて宮本武蔵を褒めているが、そんな出たらめを広めるのは許さんぞ。」小次郎は冷ややかに言い放った。
「……は、はい?」と職人たちは戸惑いながら答えた。
「なぜ武蔵が偉いと言うのか。お前たちの中に、下り松の戦いを見た者がいるそうだが、俺、佐々木小次郎もその場にいた。双方の実情をこの目で検分したのだ。その後、叡山に登り、根本中堂で大勢の学生たちの前で見聞を語り、諸院の碩学たちにも自分の意見を述べた。それを踏まえても、武蔵を無双の達人などと称するのは大きな誤りだ。」
職人たちは、ただ黙って小次郎の話を聞くしかなかった。
「武蔵があの戦いを仕掛けた目的は何か。それは単なる売名行為に過ぎない。彼は自分の名を売るため、京の名門である吉岡家に喧嘩を売り、その結果、吉岡家が彼の踏み台となってしまったのだ。」小次郎は淡々と語り続けた。
「なぜなら、吉岡家が既に衰退していることは誰の目にも明らかだった。まるで朽木のように、放っておいても自滅するような存在だ。それをあえて押し倒したに過ぎない。それを見て、武蔵が強いと勘違いするのはお門違いだ。」
小次郎の話に、職人たちは困惑しながらも耳を傾けていた。
「さらに、武蔵は常に卑怯な手を使っていた。約束の時間を守らないのは日常茶飯事だし、下り松の戦いでは正面から堂々と戦わず、奇策を弄していた。」
「なるほど、数で言えば吉岡家は大勢で、武蔵は一人だった。しかし、そこに彼の狡猾さがあった。同情を引くために、その状況を巧みに利用したのだ。だが、俺の目から見れば、あれは子供の遊びと同じだ。武蔵は最後には逃げ出し、真の勝者ではない。」
小次郎は冷酷に締めくくった。
「もし達人だと称するなら、武蔵は『逃げの達人』だ。逃げ足の速さだけは確かに名人級だな。」
職人たちは言葉を失い、静かに小次郎の言葉を噛み締めていた。
佐々木小次郎の弁舌は、まるで立て板に水を流すように滑らかで、その巧みな話術に石切の職人たちは圧倒されていた。彼は、叡山の講堂でも同じように、この弁論を披露したのだろうということが、容易に想像できるほどだった。
「素人の考えでは、何十人対一人の戦いは、非常に難しいものだと思うだろう。しかし、何十人の力が一人の力を何十倍にもするわけでは決してない。」
小次郎は、この論理をもとに、下り松の戦いを自分の専門的な知識で巧みに論破していった。
彼は武蔵の善戦を、いくらでも批判できる立場にあった。
さらに小次郎は、武蔵が名目上の少年を討ったという点についても激しく非難した。
ただの罵倒に留まらず、人道的に、武士道の観点から、そして剣の精神においても、許されるべきではないと断じた。
彼はまた、武蔵の生い立ちや行状についても話を広げ、今もなお武蔵を仇として狙っている本位田の老母がいるはずだとまで話を進めた。
「疑うなら、その本位田の老母に聞いてみればよい。わしは中堂に泊まっている間に、直接その老母とも話したのだ。あの六十を越える純朴な老婆が、武蔵のことを仇として狙っているような男が、どうして偉い人物だと言えるか? うしろ暗いところのある者を称賛して、それが世のためになるとは思えん。」
小次郎はさらに言葉を重ねた。
「わしは吉岡家の縁者でもなければ、武蔵に特別な恨みがあるわけでもない。ただ、剣を愛し、この道に身を捧げている者として、公正な批判をしているだけだ。わかったか、職人ども。」
そう言い終わると、さすがに喉が渇いたのか、小次郎は茶碗を取り、がぶりと一口で飲み干した。
そして、ふと日が傾いていることに気づき、連れの者たちを振り返った。
中堂の寺侍たちは、「そろそろ、お立ちにならぬと、三井寺まで着く前に山道が暗くなりましょう」と注意を促し、床几を離れた。
一方、石切の職人たちは、言葉を失い、その場から逃げ出すように谷間へ戻って行った。
谷間はすでに紫に染まり、ひよどりの鳴き声がこだましていた。
「では、ご機嫌よう。また、ご上洛の折には。」と寺侍たちも別れを告げ、中堂へと帰っていった。
小次郎は一人茶店に残り、「ばあさん、茶代をここに置いていくぞ。それと、暗くなった時のために、火縄を二、三本くれ。」と、奥の老婆に声をかけた。
老婆は土泥竈の前で夕餉の準備をしながら、「火縄けいならそこにかけてある。必要なだけ持って行きなされ。」と答えた。
小次郎は茶店の奥へ入り、火縄の束から二、三本引き抜いた――その瞬間、火縄の束が壁から外れて床几の上に落ちた。
その時、小次郎は気づいた。
床几の上に横たわる人間の脚が目に入り、彼はその顔を見上げた瞬間、鳩尾に一撃を受けたような衝撃を感じた。
武蔵が、手枕をして横たわりながら、じっと小次郎の顔を見つめていたのだ。
佐々木小次郎は、反射的に飛び退った。
無意識のうちに敏捷な動きを見せたが、その瞬間、武蔵は静かに「おう」と声を出し、白い歯を見せてニヤリと笑った。
「今、目が覚めたようだな」とでも言わんばかりに、武蔵はゆっくりと身を起こし、軒先に立つ小次郎の側へ歩み寄ってきた。
武蔵は、にこやかな口元と、まるで心の奥底を見透かすような鋭い眼差しで小次郎を見つめた。
小次郎も笑顔で応えようとしたが、どうにも顔がこわばり、笑みを作ることができなかった。
飛び退った自分の動きが、あたかも武蔵に嗤われているように感じたのだ。
そして、先ほど石切の職人たちに向けて語っていた自分の演説が、武蔵に聞かれていたに違いない――そう思った途端に、彼の胸中には狼狽が広がった。
だがすぐに、小次郎の表情はいつもの自信満々の傲岸なものへと戻った。
少し取り乱していたことは、彼自身にとっても不本意だった。
「……やあ、武蔵どの。ここにいたのか」と、小次郎は言った。
「いつぞやは」と武蔵が応じると、小次郎は続けた。
「おう、あの時は見事な働きだった。まるで人間離れした技だったな。しかも、さしたる怪我もなかったそうで――いやはや、祝着の至りだ。」
言葉の裏に苦々しさを抱えながら、小次郎はそう言った。そして、口にした言葉を自ら忌々しく感じていた。
武蔵は皮肉を込めて微笑んだ。
なぜか、小次郎に対すると、自然と皮肉が口をついて出てしまうのだ。
わざと慇懃に、武蔵は言った。
「あの時は、立会人としてご配慮いただき感謝しております。そして、つい先ほどは、拙者に対する苦言を耳にし、他ながらも有難く聞かせていただきました。――自分で思う自分と、世間が見る自分には大きな隔たりがあるものです。ですが、なかなか本当の世間の声を聞く機会は少ないもの。ですので、そなたが昼寝の夢にでも語ってくれたと思えば、忝く思います――忘れずに憶えておりますぞ。」
「…………」
「忘れずに憶えている」という武蔵の一言に、小次郎の全身が鳥肌立った。穏やかな挨拶のように聞こえるその言葉は、小次郎の耳には、遠い未来への挑戦の宣言として響いた。
(今は言わぬが)という暗示もその言葉に含まれていた。武蔵と小次郎は、どちらも武士であり、曇りのない決着を求める剣士だった。これ以上の舌戦は無意味であり、問題の本質は、やがて剣を交えることでしか解決し得ない。
「……うむ、よろしい。憶えていると言ったその一言、小次郎も確かに覚えておこう。きっと忘れるなよ、武蔵。」
「…………」
武蔵は再び微笑みながら、静かにうなずいた。




