乳
四明ヶ岳の天井のような尾根道を歩き、山中を越えて滋賀へと下りていけば、ちょうど三井寺の裏手に出ることができる。
「……うぅ……うぅ……」
お杉婆は、牛の背に乗ったまま、時々陣痛でもこらえるかのようにうめいていた。
そんな彼女を乗せた牝牛の手綱を持ち、武蔵はその前を歩いていた。
振り返りながら、武蔵は言った。
「おばば、辛いなら少し休もうか。急ぐ旅でもないんだし」
お杉婆は無言のまま、牛の背で俯せている。
その無言の裏には、仇と恨んでいる相手に世話されることへの屈辱が、無念さを漂わせていた。
だからこそ、武蔵が優しく声をかければかけるほど、彼女の中では怒りが増していた。
(この私が、憎むべき奴に情けをかけられて堪えるような女ではない!)
そう思えば思うほど、彼女は武蔵に対する憎しみを無理にでも掻き立てていた。
それでも、まるで自分を呪うために生きているかのようなこの老婆に対して、武蔵は不思議と強い憎しみや敵意を感じていなかった。
彼女は、あまりにも弱すぎる相手だからだろうか。だが実際には、これまで武蔵が最も苦しめられてきたのは、この年老いた敵の策謀だった。
――にもかかわらず、どうしても彼女を心から憎むことができなかった。
それでは、完全に無視していたかと言えば、そうではない。
故郷ではひどい目に遭い、清水寺の境内では群衆の中で罵倒され、これまでに何度も彼女の策略に嵌められてきた。
時には、八つ裂きにしてやろうと憎しみが募ることもあった。
だが、いざ寝首を掻き損ねた今も、武蔵は彼女を本気で憎むことはできなかった。
それに、今回はお杉婆も普段のように元気がなく、打撲の痛みでうめいてばかりだった。
辛辣な言葉もなく、ただ弱っている姿に、武蔵はますます不憫に感じ、少しでも体を楽にしてやりたいと思っていた。
「おばば――牛の背中も辛いだろうが、大津まで行けば何か手を打てるはずだ。もう少しの辛抱だ。……朝から弁当も食べていないが、腹は減っていないか?……水は飲みたくないのか?……要らぬ、か……そうか」
武蔵は山頂から遠くを見渡した。
北には琵琶湖が広がり、伊吹山がその向こうに見え、近くには瀬田の唐崎八景も見える。
「少し休もうか。おばばも牛から降りて、この草の上にでも横になったほうがいい」
武蔵は牛の手綱を木に結び、お杉婆を抱えて下ろした。
「ア痛、ア痛っ…」
お杉婆は顔をしかめ、武蔵の手を振り払いながら、草の上にうつ伏せた。皮膚は土のようにくすみ、髪は乱れてそそけ立ち、放っておけば息絶えそうなほど重い様子だった。
「おばば、水は欲しくないか? 何か食べ物を少しでも口に入れてみる気はないか?」
武蔵は心配そうに、お杉婆の背中を撫でながら尋ねたが、頑固な婆は首を横に振るばかりで、水も食べ物もいらないと言う。
「まいったな…」
武蔵は途方に暮れた。
「昨夜から一滴も水を口にしていないじゃないか。薬を飲ませたいが、人家もないし…このままでは疲れてしまうだけだ。おばば、せめて俺の弁当を半分でも食べてくれないか?」
「けがらわしい」
「なに? けがらわしいと?」
「たとえ野原で倒れて、鳥や獣に食い散らかされるようなことがあっても、お前のような仇から食べ物をもらって口に入れるくらいなら、そんな死に方のほうがましだ。バカなことを言うな、うるさいっ!」
お杉婆は、武蔵が撫でていた手を振り払い、草にしがみついた。
「うむ…」
武蔵は腹を立てなかった。
むしろ、お杉婆の気持ちに共感さえできた。
彼女が抱いている根本的な誤解さえ解ければ、自分の思いも理解してもらえるだろうと嘆息するだけだった。
まるで母の看病をしているかのように、武蔵は何を言われても甘んじて受け入れ、病人のわがままをなだめるかのように根気強く続けた。
「でも、おばば、このまま死んでしまってはつまらないじゃないか。又八の出世も見られないだろう?」
「な、何を言うんだ!」
お杉婆は噛みつくように歯をむき出して叫んだ。
「そ、そんなこと、貴様の世話にならなくても、又八は又八で、いずれ立派になるんだ!」
「…それはそうだろう。だからこそ、おばばも元気を出して、共にあの息子を励ましてやらなければならない」
「武蔵! 貴様は偽善者だ。そんな甘い言葉に騙されて恨みを忘れるような婆じゃないぞ…無駄なことを、耳障りな!」
お杉婆の顔は険しく、武蔵の好意に対しても一切の隙を見せない。これ以上何を言っても逆効果だと悟った武蔵は、黙ってその場を離れ、婆と牝牛を残し、少し距離を置いた場所で弁当を広げた。
柏の葉で包んである握り飯だった。中には黒味噌が入っており、武蔵には十分に美味しく感じた。その美味さを知っているからこそ、どうにかしてお杉婆にも食べてもらいたいと願い、半分ほどを柏の葉に包み直し、懐に入れておいた。
すると、婆のそばから話し声が聞こえてきた。
振り返って見ると、通りがかりの里の女房、大原女らしい女が現れた。山袴を穿き、髪は無造作に束ねて肩に垂らしていた。
「ねえ、おばあさん、この牛の乳を少し分けてもらえないかね。うちにも病人が泊まっていて、牛乳をやればもっと元気になると思うんだ」
その声に、お杉婆は少し顔を上げて答えた。
「ほう、牝牛の乳が病に効くとは聞いていたが、この牛から取れるのか?」
普段とは違う、興味を持った眼差しで婆は女に尋ねた。
その間に、女は牝牛の腹の下にかがみ込み、抱えていた壺に一生懸命乳を搾り取っていた。
「ありがとうよ、おばあさん」
牝牛の下から這い出てきた女は、搾りたての乳が入った壺を大事そうに抱え、礼を言って去ろうとした。
「おい、待っておくれ」
お杉婆は慌てて女を呼び止め、周囲を見回した。武蔵の姿が見えないことに安心したのか、低い声で言った。
「ねえ、あんた…その牛乳をちょっと分けてくれないか? 一口だけでいいから、飲ませておくれ」
渇ききった声で震えながらそう頼んだ。
「お安いことだよ」
女は快く壺を差し出すと、お杉婆はその口を壺の縁に押し当て、目を閉じながらごくごくと飲み始めた。白い乳が唇からこぼれ、胸を伝って草の上に滴った。
「……ふう…」
胃にしっかりと満たされると、お杉婆は体をぶるっと震わせた。顔をしかめる様子から、今にも吐きそうな気配だ。
「なんだか、気味の悪い味だな…でも、これで元気が出るかもしれん」
「おばあさん、具合が悪いのかい?」
「いや、大したことはないよ。風邪をこじらせて、そのうえ少しひどく転んでな…」
そう言いながら、お杉婆はひとりで立ち上がっていた。牛の背で呻いていたときとは打って変わって、元気そうに見える。
「ねえ…」
お杉婆は声をひそめて女に近寄り、辺りを見渡して武蔵の姿を確認した。
「この山道を真っ直ぐ行ったら、どこに出るんだ?」
「三井寺の上の方に出るよ」
「三井寺ってことは、大津だね…他に裏道はないかい?」
「ないわけじゃないけど、おばあさん、どこに行こうとしているんだい?」
「どこでもいいさ。私はただ、私を捕まえようとする悪党の手から逃げたいんだよ」
「四、五町先に行くと北へ下る小道があるから、そこを行けば大津と坂本の間に出るよ」
「そうか…」
お杉婆はそわそわし始め、
「もしも誰かが追いかけてきて、あたしに何かを尋ねても、知らないと言っておくれよ」
そう言い残すと、女を追い越し、跛行の蟷螂のように急いで走り去った。
武蔵はその様子を陰から見ていた。苦笑しながら、岩陰から静かに出てきて歩き始めた。
先を歩いていた女房の背中が見えたので、武蔵は声をかけた。女は立ち止まり、まだ何も聞かれていないのに、「何も知りません」と言いそうな顔をしていた。
だが、武蔵はその話には触れず、
「おかみさん、この辺りで百姓をしているのか、それとも木こりかい?」
「うちかい? うちはこの先の峠で茶店をやってるんだ」
「峠茶屋か」
「そうだよ」
「ならば、ちょうどいい。駄賃を出すから、洛内まで一走りしてくれないか?」
「行ってもいいけど、家には病気のお客さんがいるんだよ」
「その乳は俺が届けてやるから、心配はいらない。それに、返事はおまえの茶店で待っているからな。ここからすぐ行けば、日が沈む前には帰ってこられるはずだ」
「それなら問題ないけど…」
「大丈夫だ。俺は悪者なんかじゃない。さっきの婆さんも、あの元気で走れるなら心配する必要はない。ここで手紙を書くから、これを持って洛内の烏丸家まで届けてくれ。返事は峠の茶店で待っている」
武蔵は矢立の筆を取り出し、手早く手紙を書いた。宛先はお通だった。無動寺に滞在していた間、彼女に便りを出す機会をずっと伺っていた。そして今、書き上げた手紙を使いの女に渡し、
「では、頼むぞ」
そう言って牛の背にまたがり、のんびりと牛の歩みに身を任せて道を進んだ。走り書きの一筆ではあったが、手紙の内容を思い浮かべ、受け取ったお通がどう思うかを想像すると、武蔵の顔には自然と微笑が浮かんだ。
「二度と会えるとは思わなかったが…」
彼はつぶやいた。顔には明るい笑みが広がり、まるで春の青空がその表情に映し出されているかのようだった。今の武蔵はどんなものよりも楽しげで、活き活きとしていた。
「…この間のあの様子だと、まだ病床にいるかもしれない。でも、わしの手紙が届けば、きっと城太郎と一緒に追いついてくるだろう」
時折、牝牛は立ち止まり、道端の草を嗅いでいた。武蔵には、その白い花がまるで星が地上に降りているかのように見えた。
そんな楽しいことばかりを考えていた彼だったが、ふと思い出したように、
「おばばは…?」
とつぶやき、谷間を見渡した。
「まさか、また倒れたまま苦しんでいるのでは…」
心配がよぎる。だが、それも今だからこそ持てる余裕だった。もし人に見られたら恥ずかしいと思いながらも、お通へ宛てた手紙にはこう書いていたのだ。
花田橋のときは、そなたが待った
こたびは、わたしがそなたを待とう
ひと足先に、大津へ出、瀬田の
唐橋に牛をつないでいる
くさぐさの話、その節に
彼は、自分が書いた文を詩のように何度も暗唱し、その後に語り合う話題を今から胸に描いていた。
峠の先には、旗亭が見えた。
「あれだな」
そうつぶやきながら、武蔵は牛の背から降り、手には女から預かった乳の壺を持っていた。
「失礼する」
軒先の床几に腰を下ろすと、土竈で火を焚いていた老婆がぬるいお茶を出してきた。武蔵は老婆に向かって、途中で女房に使いを頼んだ経緯を説明し、乳の壺を渡そうとした。
「へえ、へえ」
老婆は耳が遠いのか、その壺を受け取ると、
「これは何でござりまするか?」
と不思議そうな顔をした。武蔵が、これは自分の牝牛の乳で、女房が病人に飲ませるために搾ったものだから、早速その病人に渡してほしいと説明すると、老婆は、
「ほう、乳でござりまするか…ほう?」
まだ理解しきれていない様子で壺を両手に抱えたまま、どうしたらいいか分からない様子だった。そしてついに処置に困ったのか、
「お客さあっ、奥のお客さあっ、ちょっくら来ておくんなされや。わしにはどうしていいか分からんがな」
と、狭い茶店の奥を覗き込んで、急に大声を上げた。
老婆が呼びかけた奥の客というのは、実際には奥にはいなかった。
「――おう」
裏口の方から返事が聞こえ、間もなく、一人の男が茶店の横から顔を出した。
「なんだい、婆さん」
男はそう言って、老婆から乳の瓶を受け取った。しかし、そのまま瓶を持ったまま、老婆の話を聞こうともせず、乳を確認するわけでもなく、放心したように武蔵をじっと見つめていた。武蔵も同じように男を凝然と見つめている。
「……お、おうっ」
どちらともなく声を上げ、双方の足が前に踏み出された。そして顔を近づけると、
「又八じゃないかっ!」
武蔵が叫んだ。
その男は、本位田又八だったのだ。懐かしい昔の友の声に驚かされると、又八も無意識に、
「――やっ、武やんか!」
と、昔慣れ親しんだ呼び名で叫んだ。武蔵が手を伸ばすと、又八も反射的に抱えていた乳の瓶を落とし、武蔵に抱きついた。
瓶は地面で砕け散り、白い乳が二人の裾に跳ねた。
「ああ! 何年ぶりだろう」
「関ヶ原の戦…あれからだ! あれ以来会っていないんだ!」
「……すると?」
「五年ぶりだ。おれは今年二十二になったから」
「わしだって、二十二だ」
「そうだ、同い年だったなあ」
二人は互いに抱き合い、牝牛の甘い乳の香りが二人を包み込んだ。幼い頃の記憶がその香りとともに蘇っていたのかもしれない。
「偉くなったなあ、武やん。いや、今では『武やん』と呼ばれるのも気が済まないだろう。おれも『武蔵』と呼ぶよ。あの下り松の戦い、その前のことも含めて、噂はよく耳にしていた」
「いや、恥ずかしい。まだまだおれは未熟だよ。世間が勝手に持ち上げているだけさ。――ところで又八、この茶店に泊まっているという客って、おぬしのことか?」
「うん…実は江戸へ行こうと思って都を出たんだが、ちょっと都合があって十日ばかりここにいるんだ」
「じゃあ、病人というのは…?」
「病人…」
又八は口ごもり、
「ああ、その…連れの者だ」
「そうか。…何にせよ、無事な顔を見て嬉しいよ。以前、大和路から奈良へ向かう途中で城太郎からおぬしの手紙を受け取ったが」
「…………」
急に又八は目を伏せた。あの手紙で偉そうに書いたことのどれ一つも実現できていないことを思い出すと、武蔵の前で顔を上げる勇気が出なかった。
武蔵はその肩に手を置いた。理由もなく懐かしかった。五年の間にできた自分との距離など考えもしなかった。今はただ、友と再会し、心ゆくまで語り合いたいと思っていた。
「又八、連れというのは誰なのだ?」
「いや…別に、誰というほどの者でもないが、少しその…」
「じゃあ、ちょっと外へ出ないか。ここであまり話し込むのも良くないから」
「うん、行こう」
又八もその提案にすぐ応じ、二人は茶店の外へと歩き出した。




