菩提一刀
大四明峰の南嶺に位置する無動寺は、東塔や西塔、さらには横川や飯室の谷々を一望に見渡せる場所だ。周囲には三界のほこりや芥が霞の中に広がり、叡山の法燈がともる音と共に、林泉はひっそりと静まり返っている。
「…与仏有因…与仏有縁…仏法僧縁…常楽我常…朝念観世音…暮念観世音…念々従心起…念々不離心」
誰かが呟くように十句観音経を唱えていた。
声というよりも、自然に漏れ出る独り言のようだった。
声が高くなったり低くなったりして、調子を変えながら続いていく。
廊下を歩いてきたのは白い衣を身に纏った稚児僧で、素朴な食事を運んでいる。
彼は経音の響く奥の部屋へ膳を持ち込み、静かに呼びかけた。
「お客様」
膳を隅に置いた稚児僧は、もう一度声をかけた。
「お客様」
背を向けたままうつむいている武蔵は、稚児が入ってきたことにも気づいていない様子だった。
数日前の朝、血まみれの姿で剣を杖にここへ辿り着いた修行者だ。
南嶺から東に下れば白鳥坂に、西に下れば修学院や白河村に繋がり、あの雲母坂や下り松の辻にも至る場所だ。
「お昼ご飯を持ってきました。ここにお膳を置いておきますね」
その声でようやく気がついたのか、武蔵は背を伸ばして振り返り、膳と稚児の姿を見た。
「すまない」
武蔵は姿勢を正して礼を述べた。
その膝の上には白い木屑が散らばっていた。
畳の上にもこぼれている木屑からは、微かに香木の香りが漂っていた。
「すぐに食べますか?」
「はい、いただきます」
「では、お給仕させていただきますね」
「かたじけない」
武蔵は飯椀を受け取り、食べ始めた。
稚児はその間、武蔵の背後に光っている小柄と、武蔵が膝から降ろした五寸ほどの木材をじっと見つめていた。
「お客様、それは何を彫っているのですか?」
「仏様だ」
「阿弥陀様ですか?」
「いや、観音様を彫ろうとしているんだが、鑿の扱いがまだうまくなくてな、この通り指ばかり傷つけてしまう」
武蔵は手を差し出して傷ついた指を見せた。
稚児はそれよりも、武蔵の袖口から覗く白い繃帯に目を向けて、眉をひそめた。
「脚や腕のお怪我はどうですか?」
「ああ、それもだいぶよくなった。住職にも感謝を伝えておいてくれ」
「観音様を彫るなら、中堂に行けば名人が彫った立派な観音像がありますよ。食事が終わったら、見に行きませんか?」
「それは見ておきたいな。しかし、中堂までの道はどれくらいあるんだ?」
稚児僧は答えた。
「はい。ここから中堂までは、わずか十町ほどしかありません」
「そんなに近いのか」
武蔵は食事を終え、稚児僧に伴われて東塔の根本中堂まで歩いてみることにした。
十数日ぶりに大地を踏む足取りは、まだ完調とは言えなかった。
歩くたびに、左脚の刀傷が痛み、腕の傷にも山風が冷たく沁み込んでくる。
しかし、周りの景色はすっかり春めいていた。
桜の花びらが散り、まるで雪のように舞い、夏の気配を湛えた空が広がる中、武蔵の体は自然と外へ向かって力がみなぎるのを感じていた。
まるで植物が新しい命を吹き込まれるかのように、筋肉がうずいてくるのだ。
「お客様」
稚児僧は武蔵を見上げ、問いかけた。
「あなた様は、兵法の修行者でいらっしゃるのでしょう?」
「ああ、そうだ」
「それなのに、なんで観音様なんか彫っているんですか?」
「……」
「仏像を彫るよりも、その時間を剣の修行に使った方がいいんじゃないですか?」
童心からの無邪気な質問だったが、その言葉は武蔵の胸を刺すようだった。
脚と腕の刀傷よりも、その言葉が心に鋭く響いたのだ。
ましてや、目の前の稚児僧は十三、四歳の少年。武蔵は、下り松の戦いで最初に斬り捨てた源次郎少年と、その姿が重なって見えた。
あの日、何人の敵を斬り、何人が命を落としたのか。
武蔵にはその詳細を思い出すことができない。
どのように戦い、どうやってあの死地を脱したのか、それすら断片的にしか記憶に残っていなかった。
ただ一つ鮮明なのは、下り松の根元で、敵方の若き名目人である源次郎少年が恐怖に声を上げ、松の皮と共に斬り倒されたあの姿だった。
(仮借は無用、斬るしかない!)
そう信じていたからこそ、武蔵は彼をためらわずに斬り捨てた。しかし、今こうして生き残った彼自身は、あの瞬間を悔やみ、疑念を抱いていた。
(なぜ、あそこまでして斬らねばならなかったのか…)
自分の苛烈な行動が、今の自分にさえ嫌悪感を抱かせる。
かつて彼は「われ事において後悔せず」と旅日誌の端に書き、心の誓いとしていた。
しかし、源次郎少年のことだけは、どうしても心に引っかかってしまう。
どれだけその時の信念を呼び戻しても、後悔と悲しみが残り、心が痛んでならなかった。
剣の道を進む者が、非人道的な行為をも踏み越えていかなければならないのか――その思いが、武蔵の心を沈ませた。
(いっそ、この剣を折ってしまおうか…)
そんな考えすら浮かんできた。
特に、この法の山に分け入り、数日間を過ごした武蔵は、自然の音や静寂の中で心を澄ませ、血の酔いから冷める中で、自らの魂に対する菩提が生じていた。手足の傷が癒えるまでの時間を持て余し、ふと観音像を彫り始めたのも、源次郎少年の供養というよりは、彼自身の魂に対する慚愧の菩提行であった。
「――お小僧」
武蔵はようやく答えの言葉を見つけて、口を開いた。
「じゃあ、源信僧都の作だとか、弘法大師の彫った仏像が、このお山にもたくさんあるけれど、あれはどういうものだと思う?」
稚児僧は首をかしげながら考え込んだ。
「そういえば、お坊さんでも絵を描いたり、彫刻をしたりするんですね」
得心がいかない様子で頷きながらも、少し納得した顔をした。
「だから、剣の修行者が彫刻をするのも、剣の心を磨くためだし、仏道の修行者が彫るのも、無我の境地から仏の心に近づくために他ならないんだ。絵を描くのも然り、書を学ぶのも然りだ。仰ぐ月は一つでも、それに至る道はいくつもあって、それぞれ違う道を試しながら、みんなが自分を完成させようとしているんだよ」
「……」
武蔵の言葉が理屈っぽくなると、お小僧はあまり面白くなくなったようで、急いで先に立ち、草むらの中にある石碑を指さした。
「お客様、ここにある碑は、慈鎮和尚というお方が書いたんですって」
案内役に徹しようとする様子がうかがえた。
近づいて苔に覆われた文字を読んでみると、そこにはこう刻まれていた。
法の水 あさくなりゆく
末の世を
おもえばさむし
比叡の山かぜ
武蔵はじっと石碑の前に立ち尽くした。それはまるで偉大な予言者が無言で語りかけてくるかのようだった。かつて織田信長という破壊者であり建設者でもある男がこの比叡山に鉄槌を下してから、この地の五山は政治や特権から遠ざけられ、今では寂しげに元の法燈に戻ろうとしている。しかし、法師たちの間には依然として戒律を乱す古い風習や、座主の地位を巡る権謀術数が絶えないと聞いている。
俗世を救うべき霊山が、むしろ俗世に縛られ、布施経済によってどうにか生き延びている現状を思い浮かべると、武蔵は無言の碑に向かい合いながら、無言の予言を耳にしているかのようだった。
「さ、参りましょう」
稚児僧が先を促し歩き出すと、後ろから誰かが呼ぶ声がした。振り返ると無動寺の仲間僧が駆けてきて、まず稚児僧に話しかけた。
「おい清然、お前は一体、お客様をどこへ連れて行くつもりだ?」
「中堂までご案内しようと思って」
「何のために?」
「お客様が毎日観音様を彫っているでしょう。でも、あまりうまく彫れないとおっしゃるから、それなら中堂に昔の名匠が作った観音様があるので、それを見に行きませんかと…」
「それなら、今日でなくてもいいのではないか」
「さあ、それはわかりませんが…」
武蔵を気にしながら曖昧に答えると、武蔵がその場を取りなして仲間僧に詫びた。
「ご用もあるところを、無断でお小僧を連れて申し訳なかった。今日に限ったことではないので、どうぞお連れ帰りください」
「いえ、呼びに来たのはこの稚児僧ではなく、もし差し支えなければ、あなた様にお戻りいただきたいと思いまして」
「私に?」
「はい。折角お出かけになった途中で恐縮ですが…」
「誰か私を訪ねて来たのか?」
「――一応はお留守とお伝えしましたが、いや、今ついそこでお見かけして、どうしてもお会いしたいとのことです。頑として動かないのでございます」
武蔵は小首をかしげながらも、歩みを進めた。誰が自分を訪ねてきたのか、気になっていた。
山法師の横暴ぶりはすでに政権や武家社会から追われていたが、尾羽が打ち枯れても、彼らの存在はこの比叡山に依然として残っていた。例えるならば、雀が百まで生きても習性は変わらないように、未だにその姿は変わらず、高木履を履き、大太刀を横に携えた者たちがいたし、長柄刀を脇に抱える者もいた。
そんな山法師たちが十名ほど、一団となって無動寺の門前で待ち構えていた。
「……来たぞ」
「あれがそうか」
耳打ちし合いながら、朽葉色の頭巾や黒衣の影が、近づいてくる武蔵と稚児僧、それに仲間僧の姿に視線を集中させた。
(何の用だろうか?)
迎えに来た仲間僧ですら事情を知らないのだから、当然、武蔵にも見当がつかなかった。途中で聞いたところによると、彼らは東塔山王院の堂衆であるということだったが、知り合いがいるわけでもなかった。
「大儀だった。お前たちに用はない。門内へ退っ込んでおれ」
一人の大法師が長柄刀の先で仲間僧と稚児僧を追い払うと、武蔵に向かって声をかけた。
「そなたが宮本武蔵か」
武蔵は相手が礼を欠いているので、直立したまま頷いてみせた。
「さよう」
すると、その後ろから一人の老法師が一歩前に進み出て、まるで奉書でも読むかのように厳かな口調で告げた。
「中堂延暦寺の衆判により申し渡す。――この比叡山は浄地であり、霊域である。怨恨を負って逃避する者の潜伏を許さず。ましてや、不逞な者どもを匿うことなど断じてできぬ。無動寺へも伝えておいたが、即刻この山を退去せよ。もし違背するならば、山門の厳格な規則に照らして断固として処罰することを覚悟せよ」
武蔵は唖然とし、その厳しい態度を見つめた。
(なぜだ?)
突然のことに戸惑いを隠せなかった。無動寺にたどり着いた際、正式に許可を得て滞在していたはずだ。にもかかわらず、まるで罪人でも追うかのように追い立てられるのには何か理由があるに違いなかった。
「仰せの趣は承知いたしました。支度も整わず、今日はもはや日が落ちるのも近いので、明朝に発足ることをお許し願いたい。それまでの猶予をいただけますか」
武蔵は一応、おとなしく従う姿勢を見せつつも、問いただした。
「しかし、これは何か司直のお達しでしょうか。それとも当山の役寮の沙汰ですか。先に無動寺からは滞在を許可されたはずですが、突然の御命令には納得がいきません」
すると、老法師が答えた。
「よかろう。教えてやろう。当初、役寮はお前が下り松で吉岡方の大勢をただ一人で相手にしたことを大いに評価しておった。しかし、その後お前に関する悪評が広まり、もはやこの山に匿うべきではないとの判断が下されたのだ」
「……悪評か」
武蔵はうなずいた。その後、吉岡方が世間でどのように自分を言いふらしているのか、想像するのは難しくなかった。この場で無駄に言い争いをしても仕方がない。武蔵は冷静にもう一度答えた。
「わかりました。否やはござらぬゆえ、明朝には必ず立ち退きます」
そう言い切って門内へ戻ろうとすると、背中に向かって法師たちが口々に罵りの言葉を浴びせた。
「見よ! 外道」
「羅刹め」
「馬鹿者が!」
その言葉は武蔵にとって、耳を貸す価値もないものだった。
「なんじゃと」
憤然とした武蔵は、その場に足を止め、嘲罵を浴びせてきた堂衆をにらみつけた。
「聞こえたか」
こう言ったのは、背後から「外道」と叫んだ法師だった。武蔵は心外な様子で答えた。
「役寮の命令とあればこそ、神妙に仰せを受けておるのに、口汚い罵りは理解に苦しむ。わざと喧嘩でも売ろうというのか?」
「み仏に仕えるわれわれが、喧嘩など売る気は微塵もないが、つい喉が裂けて、今のような言葉が出てしまったのだから仕方がない」
すると、別の法師も加わって口々に叫び始めた。
「天の声だ」
「人を通して言わせたのだ」
彼らの蔑むような眼差しと嘲りの声が武蔵に集中した。武蔵は激しい恥辱を感じつつも、あえて耐えた。しかし、その態度があまりにも挑発的であることに、警戒を怠らなかった。
この山の法師たちは、古来より舌が長いことで知られていた。堂衆とは学寮の生徒であり、生意気盛りの若者が集まっていた。知識を誇るあまり、傲慢さを隠そうともしなかった。
「何だ、噂では大した侍だと思ったが、見たところつまらぬ奴だ。怒るのか? それとも何も言えないのか?」
武蔵が黙っていると、彼らはさらに毒舌を振るった。武蔵の顔色が徐々に変わっていった。
「天の声だと言ったな。人を通して言わせたとも」
「そうだ」
彼らは傲然とした態度を崩さなかった。
「それはどういう意味だ?」
「分からぬのか。山門の衆判が言い渡された後でも、まだ気づかんとは」
「……分からぬ」
「そうか。まあ、お前のような者にはそうだろう。哀れな奴だ。だが、いずれ輪廻を通して思い知るだろう」
「…………」
「武蔵、世間ではお前の評判はひどいものだ。下山しても気をつけるがいい」
「世評など、どうでもいい――言わせておけばよい」
「ふん、自分が正しいとでも思っているのか?」
「正しい! 俺はあの戦いにおいて卑劣なことはしていない。誇りにかけて言おう、俺の戦いには微塵も邪はなかった」
「ふん、威張って言うことだな」
「他のことなら聞き流すが、俺の剣について誹謗を述べるならば許さんぞ!」
「では言ってやろう。この問いに答えられるものならば答えてみよ。――確かに、吉岡方は大勢であった。お前がただ一人で立ち向かった勇気や無謀さは賞賛に値するかもしれない。しかし、なぜまだ十三、四歳の子供を斬った? あの源次郎を、無残にも斬り伏せたのはどういうつもりだ――」
武蔵の顔は、まるで冷水を浴びたかのように血の気が引いた。
「二代目清十郎は片輪となり、弟の伝七郎もお前に斬られ、吉岡家に残された血筋は源次郎しかいなかったのだ。その源次郎を斬ったことは、吉岡家の断絶を意味する。武道の名のもとに、そんな無慈悲なことが許されると思うのか。外道、羅刹と呼んでも足りぬほどだ。それでもお前は侍と言えるのか?」
その言葉は武蔵の心に深く突き刺さった。
じっと俯き続けて沈黙している武蔵に向かって、堂衆の一人が冷たく言い放った。
「山門の憎しみが向けられたのも、その経緯が知れたからだ。どれだけ他の事情を酌んでも、あんな幼少を敵として斬ったお前の行いは許されない。この国の侍というものは、ただ強いだけではなく、優しさやゆかしさを持ち、ものの哀れを知っているものだ……。叡山はお前を追放する! 一刻も早く、この山を立ち去れ!」
あらゆる罵倒と嘲りの言葉が、まるで鞭のように武蔵の胸に響き、堂衆たちはぞろぞろと帰っていった。
「…………」
武蔵は甘んじてその言葉を受け入れ、最後まで黙り込んでしまった。だが、それは彼の内なる答えがないというわけではなかった。
(おれは正しい! おれの信念は間違っていない! あの場合、あれ以上の行動を取るしか、おれの信念を貫く方法はなかったのだ)
彼は心の中でそう断固として考えていた。それは言い訳ではなく、今もなお揺るぎない信念であった。
では、なぜ源次郎少年を斬ったのか。
それについても彼は自分の胸の中で明確に答えられる。
(敵の名目人であるからには、それは敵の大将に相当する。三軍の旗を掲げる象徴だ)
それを斬ることに何の問題があるのか。また、他にも理由がある。
(敵は七十人以上の大勢だった。自分がどれだけ奮戦しても、そのうち十名を斬れば善戦といえるだろう。だが、吉岡家の遺弟を二十人斬ったとしても、残りの五十人は凱歌を上げるだろう。だからこそ、勝名乗りを揚げるためには、まず最初に敵の象徴である大将首を挙げておく必要があったのだ。たとえ自分がその後斬られても、勝利は証明される)
さらに剣の絶対的な法則やその性質からも、理由はいくつでも挙げられる。しかし武蔵は、堂衆たちの面前でその理由を口にすることはなかった。
なぜなら、どれほど信じるべき理由があったとしても、自らの胸の内には説明のしようがない後味の悪さや慚愧が渦巻いていたからだ。
「……修行なんて、もうやめてしまおうか?」
虚ろな目で夕暮れの空を見上げながら、武蔵は門前に立ち尽くしていた。風に揺れる白い山桜の花びらが、彼の心の乱れを映し出すように宙を舞っていた。
「……そして、お通さんと」
ふと、武蔵は町人の気楽な暮らしを思い浮かべた。光悦や紹由の住む世間を考えたのだ。
(いや……!)
武蔵は大股で無動寺の中へ姿を消した。
部屋にはすでに明かりが灯っていた。ここも今夜限りで去らなければならない。
(彫りの巧拙は問うまい、供養の心さえ届けばそれでよい……。今夜のうちに彫り上げて、この寺に遺していこう)
武蔵は短檠の明かりの下に座り、膝の上に観音像を抑えて彫刀を握った。一念を込めて、再び新しい木屑を散らし始めた。
――その時、無動寺の大廊下にそっと這い上がり、まるで猫のようにのろのろと近づいてくる影があった。
短檠の灯が徐々に暗くなっていく中、武蔵は一度立ち上がって灯を調整し、再び腰を下ろして彫刀を手に取った。夜はすでに深まり、山は静寂に包まれていた。サクリ、サクリと木を削る音が、雪のように静かに響き渡る。
武蔵は完全に彫刀の先に集中していた。彼の性格は何事にも一度向き合うと没頭するもので、今も観音像を彫る手は疲れを知らず、情熱に燃え続けていた。
「…………」
口の中で観音経を唱えながら、武蔵の声はいつの間にか大きくなっていた。そして、ふと気づくと声を落とし、灯りを調整しては、一刀三礼の心を込めて像に向き合った。
「……うむ、どうやら形になったな」
背を伸ばすと、外から東塔の大梵鐘が二更を告げる音が聞こえた。
「そうだ、挨拶もせねばならない。この像も、今宵のうちに住持にお願いしておこう」
武蔵が彫り上げたのは、まだ粗削りではあったが、自分の魂を込め、慚愧の涙と共に彫り上げた観音像だった。それをこの寺に遺して、亡き源次郎少年の冥福を祈り続けてもらおうと決意したのだ。
武蔵は観音像を手に取り、部屋を出て行った。
しばらくして、入れ替わるように稚児僧が部屋に入り、箒で塵を掃き、夜具を敷いて庫裏へ戻った。その後、誰もいないはずの部屋の障子が静かに少し開き、また閉じられた。
――その夜遅く、武蔵が住持からもらった餞別の笠や草鞋などを持ち帰ってきた。旅装を整え、灯を消して寝床に入ると、彼は深い眠りに落ちていった。
風が四方から吹き込み、障子が淡く光り、外の樹々の影が荒れた海のように揺れていた。武蔵の寝息が徐々に深くなるにつれ、部屋の隅に置かれた小屏風がゆっくりと動き、人影が猫のように膝で這い寄ってきた。
ふと武蔵の寝息が止まると、その人影はぺたっと床に伏せ、じっと機会をうかがっていた。
――突然、黒い布のようにその人影が武蔵に覆いかぶさった。
「うっ、うぬっ! 思い知れやっ!」
声と共に脇差の切っ先が武蔵の喉元に向かって突き出された。しかし次の瞬間、武蔵はその攻撃を瞬時にかわし、襲いかかった相手を障子ごと外へ放り投げた。
重い風呂敷のように飛ばされた相手は呻き声を上げ、外の闇へと転がり落ちた。武蔵はその体重が猫ほどしかないことに驚いたが、すぐに枕元の太刀を手に取り、
「待てっ!」
と縁側を飛び降り、大股で駆け出した。
「折角の訪れだ、挨拶くらいしていけ!」
そう言いながら武蔵は追いかけたが、乱れ散る刃影や法師の頭巾を見て、嘲笑すると引き返してきた。追いかけることに本気ではなかったのかもしれない。
地面に倒れて呻いている老婆を見た武蔵は、驚きながらも抱き起こした。
「……おばば、まさかお前が」
武蔵が寝首を狙いに来たのが、吉岡の遺弟でもこの山の堂衆でもなく、老いた同郷の友の母親であったことは、彼にとっても意外だった。
「ああ、これでわかった。中堂へ訴え出て、私のことを悪しざまに言ったのは、おばばだったのか。堂衆たちは、お前の言葉を信じて、私を山から追い出すことにしたのだな。それで夜陰に乗じてお前が先導し、ここへ来たのだろう……」
お杉は苦しそうに息を漏らしながらも、かろうじて声を絞り出した。
「……もうこうなる上は、仕方がない。本位田家の運命もここまでじゃ。ばばの首を討て」
彼女の体はひどく打ちつけられたようで、力なくもがいていた。ここ数年、健康を崩しており、特に三年坂の旅籠を出てからは風邪をこじらせて体調が悪かった。さらに、下り松へ向かう途中、息子の又八に捨てられたことが老いの心に深く影響を及ぼし、体力も衰えていた。
「……殺せ、このままでは耐えられぬ」
お杉の言葉は、捨て鉢なものではなく、真剣なものだった。すでに生への執着を失い、武蔵の手によって楽にしてもらいたいという気持ちが込められているように思えた。
だが、武蔵は静かに言った。
「おばば、痛いのか。どこが痛む? 心配はいらない、わしがついている」
武蔵は彼女を抱きかかえ、自分の寝床へ運んでそのまま看病を続けた。夜が明けるまで、武蔵はお杉の枕元に寄り添い、静かに見守っていた。
夜明け頃、頼んでおいた弁当を小僧が持ってきてくれた。しかし、方丈からは早く立ち去るよう催促があった。
「昨日の指示通り、今朝のうちにお急ぎいただきたく思います」
武蔵もそのつもりで旅支度を整えていたが、病気の老婆をどうするかが問題だった。寺に相談すると、寺側も迷惑そうな顔をしながらも提案をしてくれた。
「大津の商人が使っている牝牛があります。その商人は丹波路へ用事に出かけており、牛はここに預けられています。この牛を使って病人を乗せて大津まで下り、そこで牛を返せばよいでしょう」
そういうわけで、武蔵はお杉を牝牛に乗せて大津へ向かうことにした。




