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現代語訳 宮本武蔵  作者: AI Gen Lab
風の巻
76/165

生死一路

 チチ、チチ、チチ……


 薄暗い朝の空気に、大藪おおやぶの中を風がかすかに吹き抜け、小鳥たちが動き始める。


 しかし、まだ鳥たちの姿も見えないほど辺りは闇に包まれていた。


 佐々木小次郎は以前の経験を踏まえ、念のため声を張り上げた。


「俺だぞ。立会人の小次郎だ!」


 そう断りを入れつつ、息を切らせて雲母越きららごえの長い道を駆け抜け、下がり松の辻まで辿り着いた。すると、その跫音あしおとに応えるように、潜んでいた吉岡勢が四方から現れ、小次郎を取り囲む。


「おや、小次郎殿か」


 声をかけたのは壬生みぶの源左老人。吉岡勢の顔は疲れ切っていた。


「武蔵はまだ現れないのか?」


 その問いに対し、小次郎はゆっくりと答えた。


「いや、出会ったぞ」


 その言葉が放たれると、周囲の視線が鋭く集まる。小次郎は冷静にその様子を見回し、続けた。


「確かに武蔵と会った。だが、高野川を五、六町ほど一緒に歩いたところで、急に姿を消してしまったのだ」


 話が終わらないうちに、御池十郎左衛門が口を挟んだ。


「さては、逃げたな!」


 だが、小次郎はそれを否定した。


「いや、違う。あいつの落ち着きようや言葉からして、逃げたとは思えない。おそらく、俺に知られたくない策を使うために、わざと撒いたのだろう。油断するなよ」


 その言葉に、周囲の者たちは緊張を取り戻した。


「策だと? 一体どんな策を使うつもりだ?」


 数えきれないほどの目が、小次郎の一言も聞き逃すまいと集まった。


「おそらく、武蔵の助太刀がどこかに潜んでいて、待ち合わせたうえで奇襲をかけるつもりではないか」


「なるほど……それはありうることだ」


 源左老人が唸るように呟くと、十郎左衛門が指示を出した。


「ならば、もう武蔵がここへ来るのも時間の問題だな。持ち場に戻れ。備えを崩しているときに不意を突かれたら、出鼻を挫かれるぞ。奴がどれだけの助太刀を連れてきたか分からんが、いずれにしても大した数ではないはずだ。手順を間違わずに迎え撃て」


 その言葉に、皆が同意した。


「そうだ、待ちくたびれて油断するのが一番危ない」

「各自、配置につけ」

「気を引き締めろ」


 声を交わしながら再び藪や樹の陰に身を隠し、飛び道具を持った者たちはこずえの上に配置した。


 そのとき、小次郎はふと下り松の根元に立っている源次郎少年を見つけた。まるで藁人形のように立ち尽くしている。


「眠いのか?」


 小次郎が尋ねると、源次郎は首を振って否定した。


「ううん」


 小次郎は少年の頭を軽く撫でながら言った。


「寒いのか? 唇が紫色になっているぞ。お前は今日の果し合いの名目上の総大将だ。しっかりしなければならない。もう少しの辛抱だ。もうすぐ面白いものが見られるからな……さて、俺も地の利の良い場所を探すとしよう」


 そう言い残して、小次郎はその場を後にした。



 ――その頃、ちょうど同じ時刻。

 志賀山と瓜生山うりゅうやまの間、あいノ沢のあたりで、お通と別れた宮本武蔵は、少し焦りを感じていた。


(しまった、少し遅れている…!)


 その遅れを取り戻そうと、武蔵は足を速めた。下り松での決戦は寅の下刻(午前四時)に約束している。この時期の日の出は卯の刻(午前六時)を過ぎたあたりなので、まだ空は暗い。場所は叡山道えいざんみちの三つの道が交わる地点であり、夜が明ければ当然人の往来も増えるだろう。そうした点も考慮し、時間に余裕を持っているつもりだったが――。


(あれは北山御房きたやまごぼうの屋根か)


 武蔵は足を止め、すぐ真下に見えるお堂の屋根を見下ろした。


(もうすぐだな)


 彼はそう感じた。ここから下り松の辻までは七、八町(約770メートル)ほどしかない。北野の裏町から歩き始めた距離もついにここまで縮まった。この間、月は彼と共に歩いていたが、山の端に隠れたのか、朝の月影はもう見えなくなっていた。――だが、三十六峰の谷間に眠る白雲が、徐々に天へ昇り始める様子を見ると、空はすでに夜明けに向かって動き出していることがわかる。


 武蔵は雲を見上げながら思った。


(この偉大な日の営みの中で、俺の死も一片の雲のように消えていくのか…)


 雲の広がる大きな世界から見れば、一匹の蝶の死も人間の死も、さほどの違いはない。――だが、人間の視点から見れば、たった一つの死でさえも、全体の生に影響を与える。生き続ける人々にとって、それが良いものか悪いものか、暗示を残していくのだ。


(美しく死のう…)


 武蔵はここまでの道を、ただ戦うためではなく、いかによく死ぬか、その心を鍛え上げるために歩いてきたのだった。


 ふと、耳に水の音が聞こえた。


 武蔵は気づけば喉の渇きを感じていた。岩の根元に屈んで水をすくい、口に含む。冷たい水が舌に染み渡り、心地よかった。


(精神は乱れていないな…)


 自分の心が揺らいでいないことを確認し、死そのものに対する恐れを感じていない自分に安心した。今こそ、全身の力がみなぎっているように感じた。


 しかし、足を止めると、心のどこかで、後ろから自分を呼ぶ声が聞こえるような気がした。お通の声、城太郎の声。


(気のせいだ)


 武蔵はそう思う。


(取り乱して追いかけてくることはない。お通のことは、俺も十分わかっている…)


 そう思いながらも、彼女が背後で自分を呼んでいるような感覚を拭い去ることができなかった。駆けてくる間にも、何度も振り返りそうになった。今もまた、足を止めるとすぐに「もしや?」という思いが頭をよぎる。


 時刻に遅れるのは約束を破ることになるし、戦いの上でも不利だ。夜明け前のこの一瞬こそ、まだ暗闇が残っている今が最も有利な状況だ。だからこそ武蔵は急いできたのだが、もう一つの理由は、お通への未練を振り切るためだったのかもしれない。



 外の敵を倒すのは容易いが、心の敵を打ち破るのは至難である――武蔵はその言葉を思い出し、心に鞭を入れた。


(くそっ、こんなことで…!)


 お通のことなど微塵も考えるべきではない。彼は自分の未練に怒りを覚えた。先ほど袂を振り切ったとき、「男がその使命に向かって身を投じるとき、恋など頭の隅にもないのだ」と言い放ったではないか。それなのに今、自分の頭の中からお通を完全に捨て去ることができているのか?


(なんという未練だ!)


 心の中でお通の幻影を蹴り飛ばし、彼は再び全速力で駆け出した。


 ――ふと目の前に大きな竹藪が広がり、その先には山の裾を縫うように白い道が続いていた。


「おっ!」


 もうすぐだ――下り松のつじは近い。その道を目で追うと、二町(約220メートル)先で他の道と合流し、霧の中に高くそびえる目印の松の姿が見えた。


 武蔵はふと膝をついた。背後にも前方にも、そして山の樹木すら敵のように感じ、全身が戦闘の準備を整えた。岩陰や木陰に素早く身を潜めながら、彼は下り松の上に位置する高地まで到達した。


(いるな…)


 そこから辻に集まっている人影がぼんやりと見えた。霧の下で槍を持った十人ほどの集団が松の根元を中心に固まっている。


 そのとき、山頂から吹き下ろしてくる冷たい風が、まるで雨のように武蔵の体に冷たい雫を落とし、大竹藪と松の梢が潮騒のように揺れた。霧のかかる松はその枝を震わせ、まるで何かを予感させるかのように天地に告げているようだった。


 見える敵の数はわずかだが、武蔵は周囲の全てが敵の巣のように感じられた。すでに死の世界に足を踏み入れた感覚で、肌に鳥肌が立っていた。呼吸は深く静かに、足の指の爪先までが戦いに備えていた。


 ――すぐ目の前に、古い砦の跡のような石垣が見えた。彼は岩山の斜面を伝い、その小高い場所へと進んだ。


 下り松の方に向かって石の鳥居があり、周囲は高い木々と防風林に囲まれていた。


「おお…神社か」


 武蔵は無意識に拝殿の前に駆け寄り、地面に膝をついた。何神社かは知らないが、両手をつき、心が震えているのを感じた。暗い拝殿の中では、一筋の明かりが風に揺れていた。


「――八大神社」


 武蔵は拝殿のがくを見上げ、大きな力を味方に得たような気がした。


「そうだ!」


 ここから敵へ斬り込んでいく自分の背には神がいる――正義の味方となる神の存在を強く信じた。信長が桶狭間の戦いの前に熱田神宮に祈ったことを思い出し、なんとなく吉兆を感じた。


 彼は御手洗の水で口をすすぎ、一口含んで刀の柄や草鞋わらじの緒にも水を吹きかけた。そして素早く革襷かわだすきをかけ、鉢巻を締め直した。足踏みをして体を整えた後、再び神前に戻り、拝殿の鰐口わにぐちに手をかけた。



 武蔵は鰐口わにぐちに手をかけかけて、一瞬の迷いからその手を引いた。古びた綱が目に入り、まるで「頼れ、これにすがれ」とでも言わんばかりだった。しかし、武蔵は自分に問いかけた。


(自分は今、ここで何を願おうとしていたのか…?)


 その問いに答えが見つからず、彼ははっとして手を止めた。


(自分はすでに宇宙と一体になっているはずではないか!)


 ここまで来るまでに――いや、常に朝には生き、夕には死ぬ覚悟で生きてきたはずだった。武蔵は自分を叱咤した。


 それなのに、無意識のうちに神頼みをしようとしていたことに気づくと、心が揺れ動き、手は思わず鰐口を鳴らそうとしていたのだ。武士の道は他力に頼るものではない。真の味方は、潔く死を受け入れる覚悟だ。それをどれほど学んでも、完全に習得することは困難だと知りながらも、これまでの修行で自分はそれを体得してきたと思っていたのに――今、この場で揺らいでしまった自分を武蔵は責めた。


(俺は誤った…!)


 悔しさが胸を締め付け、武蔵は無念さの涙を頬に流した。お通のことや故郷の姉のことが頭をよぎり、生にしがみつこうとする心がどこかにあったのだ。


(ああ、情けない…!)


 心の奥底で生きることを望んでいた自分がいた。無意識に鰐口の綱を握りしめようとしたことが悔やまれた。武蔵は、自分の修行がまだ浅かったことを思い知らされた。


(俺は愚か者だ…)


 そんな自分に対して、武蔵は容赦なく叱咤した。まだ足りていなかった修行の日々を思い、悔しさが募る。


 しかし――ふと、武蔵は感謝の念を抱いた。真実に神の存在を感じたのだ。戦いに入る前であったことが幸いだった。悔いを改めることができる。そのことを気づかせてくれたのもまた、神の存在だと感じたのだ。


 武蔵は神を信じるが、武士道には「頼る神」など存在しない。神をも超越した絶対の道を追い求める。武士にとって神とは頼るべき存在ではなく、人間の弱さを見つめ、己を超えるための存在である。


「……」


 武蔵は一歩退き、両手を合わせた。しかし、それは先ほど鰐口にかけた手とは違う気持ちでの礼拝だった。


 そしてすぐに八大神社の境内を後にし、急な坂道を駆け下りた。坂を降りきった先には、下り松の辻が待ち構えていた。



 急な坂道を駆け下りる武蔵むさしは、豪雨の際に滝となるような険しい道を踏みしめ、足元の石ころや土が彼の勢いに巻き込まれて転がり落ちた。その時、何かが視界の端に入った。


「っ…!」


 武蔵は瞬時に身を丸めて草むらに飛び込んだ。まだ朝露がこぼれていない草は、彼の膝や胸をびしょ濡れにする。まるで野兎のうさぎのように体をかがめ、鋭い目で下りさがりまつの梢を凝視した。


 距離にして、辻まではもう数十歩。坂の下にある辻の位置から、松の梢が比較的低く見えていた。


 ――武蔵はその姿を見つけた。

 樹上に潜む人影が、武器を構えているのがわかる。持っているのは鉄砲のようだ。


(卑怯な!)


 彼は憤りを覚えたが、同時に一人の敵に対して多勢で挑む吉岡方に対し、わずかな同情も感じた。だが、これくらいの備えは予測済みで、驚くことではなかった。吉岡側も、まさか武蔵が一人で来るとは思っていないだろう。飛び道具が一丁や二丁ではなく、いくつも用意されていると見た方がよさそうだ。


 ただ、武蔵にとって有利だったのは、敵が背を向けていることだ。辻から三方向に分かれた道の配置が、彼らの背後の警戒を疎かにしていた。


 武蔵は這うように姿勢を低くし、刀の鞘よりも頭を下げて徐々に接近した。そして突然、小走りに転じ、ツッ、ツッ、ツッ、と巨松の幹へと近づいた。あと二十間(約36メートル)ほどの距離に差し掛かったとき、


「――あっ!」


 梢にいた男が武蔵を見つけて叫んだ。


「武蔵だ!」


 声は天空から響き渡ったが、武蔵はそのまま姿勢を崩さず十間(約18メートル)を一気に駆け抜けた。彼は、その短い瞬間だけは安全だと踏んでいた。梢の男は三道の方向に銃を向けて見張っており、今すぐに武蔵に狙いを定めるのは難しいと計算していたからだ。


 しかし次の瞬間には、別の男たちの声が響いた。


「後ろだ!」


 宙にいた男の声が喉を引き裂くように叫び、銃口が武蔵に向けられた。松の葉をかすめて火縄の火がチラリと見えたその瞬間、武蔵は肘を大きく回し、手に握っていた石を投げつけた。石は唸りを上げて、火縄の光に向かって一直線に飛んでいった。


 ――パキンと小枝が裂ける音と、男の叫び声が重なり、霧の中から一つの物体が地面に叩きつけられた。それはもちろん、人間だった。



「――おおっ!」「武蔵だ!」「武蔵が来たぞ!」


 その場にいる誰もが、武蔵むさしの出現に驚愕きょうがくした。吉岡方は三つの道それぞれに厳重な警戒を敷いていたため、まさか中央のこの場所で、予告もなく武蔵が姿を現すとは、夢にも思わなかったのだ。


 十名ほどの人数しかいないこの一団は、武蔵の突然の出現に混乱し、互いのさやがぶつかり合ったり、槍を持ち直そうとしたが、足元でつまずく者もいた。必要以上に遠くへ跳びのく者や、焦りから友の名前を無駄に大声で呼び合う者もいた。


「小橋っ!」「御池っ!」


 無意味に名前を叫び、何とかして気を落ち着けようとしながらも、彼らの動揺は抑えられない。さらに、「抜かるなっ!」と他人をいましめる者までいたが、彼自身が最も動揺していた。


 その時、武蔵は堂々と声を上げた。


約定やくじょうに従い、生国美作みまさかの郷士、宮本無二斎むにさいの一子、宮本武蔵、ただ今参上した。名目人の源次郎殿はどちらにおわすか? 清十郎殿や伝七郎殿のような失敗は、二度と起こさぬよう願いたい。ご幼少ゆえ、助人すけびとは何十人でもかまわぬ。だが、武蔵はこの通り、ただ一人で参った。いざ、一人一人でかかるもよし、総がかりで来るもよし、好きにせよ。さあ、かかってこい!」


 武蔵のこの凛々しい挨拶に、一同は一瞬言葉を失った。武蔵が礼を尽くしているのに対し、彼らが何も返さないのは恥ずかしいことだった。しかし、この状況では礼儀を返す余裕もなかった。


「遅かったな、武蔵!」

おくれていたのか!」


 そんな程度の言葉しか返せなかったが、それでも武蔵が「一人で参った」と言った言葉に一同は安堵し、相手が一人だと確認して急に自信を取り戻したように見えた。しかし、老練な源左老人や御池十郎左衛門は、武蔵の言葉をそのまま信じず、助太刀がどこかに隠れているのではないかと疑っていた。


 ――ビュッ!


 突然、どこかで弦音つるおとが響いた。武蔵が抜いた刀が放つ刃風のように、一本の矢が彼の顔に向かって飛んできた。だが、その矢は武蔵の刀によって見事に二つに裂かれ、肩の後ろと刀の先に落ちた。


 その瞬間、武蔵はまるで逆立てた獅子のように跳び、松の幹の陰に潜んでいた敵に向かって一足飛びに襲いかかった。


「キャッ! 怖いっ!」


 最初から松の幹に立たされていた源次郎少年は、恐怖に叫び声をあげ、松の幹に抱きついた。その叫び声に反応した源左老人は、まるで自分が斬られたかのような絶叫をあげ、跳び上がった。


 武蔵の一閃いっせんは、どうやって斬り下げられたのかはわからないが、松の皮を二尺ほど薄く削り、源次郎の前髪とともに、その幼い首を血しぶきとともに斬り落としていた。

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